第86話 悪魔
一瞬時間が止まったみたいだった。
苦悶するエヴィレアは天を仰いで顔を両手で覆い、指の隙間から青白い光が洩れていた。
──
悪寒が背中に走って。
獣を貫くのにあと一歩。
けれど俺は後ろに飛びのいて、その直感は正しかった。
エヴィレアの眼はまっ黒に染まり、汚水のような瘴気が流れ出ている。
体中の血を抜かれたみたいに青白い顔の上に、何もない闇が乗っていた。
「出で、ませ……!」
右眼を押さえエヴィレアは声を絞り出す。
もはや立っているのがやっとで。
それでも決して倒れはしないという気迫に、息を呑む。
……ああ。
この人も、きっと。
「“啜り泣く貴婦人”!」
叫びに応えて、眼前に暗い闇が落ちる。
体が肩に厚い緞帳をかけられたみたいに重くなって。
「……!」
内臓を掻き回されるような悪寒が襲ってきた。
□□□
セルヌスは地面に膝をつき喘いでいた。
胸には大きな穴が開き、入りこんだ竜炎が再生を遅らせる。
おかげで俺は意識を前に向けられた。
──幽霊。
まるで宙に青白いカーテンが揺れているみたいで。
ひらひらした半透明のドレスの向こうに、顔を押さえる王妃が見えた。
眷属が二体。
これまでにない事態に鼓動が高く鳴る。
黄昏の陽を握りしめ、イアの力をゆっくりと注ぎ込む。
不思議と絶望感はない。
今の俺たちなら十分に戦える。
獣が立ち直る前に一気に攻めて、エヴィレアを無力化すれば──
“貴婦人”が長い髪を古木の蔦みたいにばさばさと揺らす。
ガイコツみたいに骨ばった顔の上に、眼窩がむき出しになって。
虚ろな空洞から、細い涙がひたひたと零れていた。
空洞の奥には真っ赤な光がぎらぎらと瞬いている。
その光に見つめられると、肌が寒気でぞわぞわと粟立って。
次の瞬間、大地を揺らすような悲鳴が耳をつんざいた。
「うっ!?」
胸に手を突っ込まれて心臓をつかまれたみたいだった。
視界がぐらりと歪み世界が色を失っていく。
耳が遠くなり、剣を握る感触もなくなり、全てが消えていく。
まるで、永劫の領域へ引きこまれていくみたいに。
それは死への導き。
豊穣の獣と対極にある。
もたらすのは、永遠の眠り。
「イア──」
自分の声も、精霊の返事も聞こえない。
もはや自分が自分であるかも分からなくなって。
体が、“異界”へと誘われていく。
──
「カイル!」
ディーネの声と鋭い魔法の連打が、暗い帳を打ち破った。
放たれた幾本もの魔光線が、半透明の泣き女に降り注ぐ。
厚い布に水を浸すように、魔法が吸い込まれた。
透明な体に美しい波紋が広がって威力が減衰されるけれど。
幽霊がわずかに後ろに引いて、俺は体を起こし距離を取ることができた。
「大丈夫!?」
駆け寄ろうとするディーネを手で止める。
無限の命を生み出す獣、生命をあの世へ導く死神。
全く対照的な二体の眷属。
王妃が呼び出した異界のものたち。
深手を負ったセルヌスは再生が遅れて、ひとまず獣の脅威は収まっているけれど油断はできない。
「愚か者が──」
エヴィレアが激しく毒づく。
よろよろと地面を頼りなく踏みしめて、残った片目で俺たちを睨みつけて。
二体目の召喚でいよいよ負荷が限界にきたのか、息は荒く顔はひどく青ざめていた。
「分からぬのか、あの小娘の本性が」
ただの呪詛とは思えない凄みが、その声にはあった。
「ミレーシアは全てを奪う……我らの何もかもを根こそぎ奪い、支配するのだ」
エヴィレアは視線を俺に向けて。
「お主も体よく利用されているだけ……あの娘の口車に、聞こえのよい“声”に惑わされておるだけよ」
蒼碧の瞳が揺らいでいた。
それは“恐れ”。
儀式の果てに、全ての破滅を見たかのような。
「ずいぶんな言いようですね、お継母さま」
その王女は。
「けれど、さすがですわ」
重い威光を放ちながら。
「じつに聡明で、いつでも真実をお見通しになられる」
祈りを終え、立ち上がった。
□□□
一体、俺はどれほど彼女を知っていただろう。
出会ってから今まで、彼女についてどれだけ理解してきただろう。
どうして、いつの間にか彼女を強く信頼するようになっていたのだろう。
曖昧な言動にもはぐらかす態度にも、ずっと苛立っていたのに。
知らない間に俺は王女に掴まれていた。
彼女の発する“声”に心を奪われて、彼女の示す展望に魅せられてしまった。
希望に満ちた幻想に捕えられていた。
彼女にそう、仕向けられたみたいに。
……。
王女の全身は淡い光に包まれていた。
この世のものとは思えない姿に、誰もが口を閉じ動きを止める。
二体の眷属さえも息を潜めて。
「──さて」
アイリーン王女が前に進み出て橙の美しい瞳を向けると、“鹿角”と“泣き女”が後ずさった。
彼女を畏れるように。
アイリーン王女を。
次代の王を。
この大陸に君臨する新たな──
「──悪魔が……!」
呪詛を吐くエヴィレアに、王女は冷ややかな視線を返した。
かつて王妃がそうしたように。
取るに足らない汚物を見るように。
「ありがとうございます。いま、神託は実現に至りました」
王女が感謝を告げる。
美しい白装束の下、天使みたいに穏やかに微笑んで。
きらめく粒子が周囲に漂っていた。
あれが、“王の証”なのだろうか?
代々受け継がれてきた“選定の儀”の答え。
天上の神がもたらす、祝福の光なのだろうか?
「お継母様」
アイリーン王女の声は、厳しい試練を通りぬけたみたいに涼やかで。
「あなたの敗北を導いたのが何かお分かりでしょう。過去、伝統、旧弊……あなたに短い栄光をもたらしたしがらみがまた、あなたを引きずりおろすのです」
王女は俺の方を向いて小さく首を傾ける。
「私に勝利をもたらしたのは、あなたが塵芥とさげすむ冒険者でした。実に愚かですね……この聖なる大地に生を受け、大地の祝福に縋り生きる“旧き者”が、その“地”に近き者たちをないがしろにするとは」
ああそれとも、と王女はわずかに顔を上げて。
「“天”ばかり見上げ過ぎて足元が見えなかったのでしょうか。昇れるはずのない階段を一人上がったつもりで、信頼できる者など誰もおらず、気づけば本当に一人になってしまわれて……」
口を手で隠し王女はくすくすと笑う。
無邪気さの中に底知れない悪意が満ちていて。
そして自身の邪悪を隠すことなく、王女は言い放った。
「ざまぁないですわね、お継母さま」
胸が掻き毟られるようだった。
エヴィレアの敵意より、鹿角の威圧より、泣き女の声よりも。
アイリーン王女の方がよほど恐ろしかった。
違和感。
王女が王の資格を得たとしても、周囲が納得するとは限らない。
果たして祠の王族たちが素直に恭順するだろうか?
有力貴族を抱き込み、配下に戦士団をも抱える彼らが、そう簡単に従うとは思えない。
けれど王妃は、形勢が絶望的であると悟っている様子で。
そして王女の方は、自身の勝å利を確信していて。
──
“問題ありません。ここで祈ります。”
ぞわりと、得体の知れない不安が体を突き抜ける。
“天の刻まで持ちこたえることができれば十分です。”
アイリーン王女はいったい、何を祈っていたんだ?