第73話 海魔
激しい揺れに、足に力を入れて耐える。
船には防御魔法が施されているし、同行する魔法使いたちが障壁を張って防護しているはずだけれど。
海にいる何かがその壁を揺らしていた。
船縁から身を乗り出しても、海面には爪で裂かれたような泡の線が見えるばかりで敵の姿はない。
《船の下!》
イアが叫んで、今度は真下から大きな揺れがやってきた。
「くそっ……!」
船体が強烈にきしむと周囲で悲鳴が上がり、俺は身を屈めて船縁を必死でつかんだ。
続いて船体が大きく揺り戻され、大量の海水が打ち上げられて頭に降り注いだ。
「大丈夫か、カイル!」
膝をつきながらもファーガスが声を張り上げて。
どうにか応えようと口を開くと、足元で奇怪な咆哮が鳴り響いた。
脳みそを掻き乱されるような怪音だった。
「あ……ぐぁ!」
急激な吐き気に俺は耳を塞いで甲板に倒れる。
まるで銅鑼を耳元でがんがん打ち鳴らされているみたいに、頭が揺さぶられてあらゆる知覚が混乱し立っていられない。
同じような感覚をどこかで……。
そうだ。
ロンゴードの山で、目覚めた蛇の王が上げた凄まじい鳴き声。
五感を超えて、相手の存在そのものを支配する根源的恐怖。
「まさか……!」
ひらめきはすぐに最悪の想定をはじき出す。
逃げ場のない海の上で、守るべき主を抱えたまま眷属に遭遇してしまったのだとしたら。
祝祭船にはろくな武装がないし、魔法防護を除いて耐久力も軍船には遠く及ばない。
仮に相手があの大蛇と同等の力を持っているなら、容易に破壊されてしまうだろう。
「ファーガス──王女を──」
自分の声もろくに聞こえないまま叫ぶけれど、届いているかは分からない。
とにかく王女を守って、ディーネも──。
渦を巻くように混乱する意識の中で、この状況をどうにかしなければと必死で考えて、けれど咆哮に思考が遮られて。
「落ち着いて」
スクゥアの声が、耳にすんと届いた。
□□□
船の揺れにも海から響く鳴き声にも、彼女は平然としていた。
ファーガスですら体を屈めて堪えている状況で、スクゥアは軽やかな足取りで俺の横を通り過ぎ、船縁から海を覗きこんで。
「海魔の一種かな……こんな近海までやって来るなんて不思議だねぇ」
そうつぶやいた。
ようやく咆哮が収まり、俺は頭を振り振り立ち上がった。
再び海を見渡すと、大きな波が跳ねてなにやら白い物体が海面すれすれを漂っていた。
「魔物、なんですか?」
「ああ。本来こんな場所で見かけることはないんだけどね」
問うと、スクゥアは腕を組んで思案げに首をかしげる。
「あるいは──」
なにか言いかけて、海の魔物が再び動きを見せた。
海面に覗く白い身体が一転まっ黒に染まりだして。
それが海魔の口だと気づいたとたん、海に“穴”が開いた。
厚い扉が軋むような、地の底から何かが目覚めるような音とともに、海の水が海魔に呑みこまれていく。
強大な魔法が行使されたかのように、海面には勢いよく“渦”が巻いて。
その遠心力に引き寄せられて、俺たちの船と向かいを行く船の動きが止まった。
渦の流れに船が捕らわれて、前にも後ろにも行けずに振動を繰り返す。
しばらくその場にとどまったように思えたけど、やがて少しずつ船体が傾き、斜めに──渦の流れにそって動き出していた。
「……これは」
立ち上がっていたファーガスと視線が合って。
「ああ」
こんな状況でもスクゥアはにっこり笑っていて。
「渦に沈める気か」
次第に大きくなっていく無限螺旋の流れ。
上からだと、その奥には底なしの深淵が広がっているように見えた。
悪いことは続くもので。
混乱する二隻の船をよそに、王の船が悠然と走り去っていく。
まるで後方の状況に気づいていないみたいに、気づいていてもまったく関心がないみたいに。
「あはは、ひどいね」
スクゥアは苦笑いして、俺は開いた口が塞がらない。
現王という大陸で(少なくとも名目上は)最も高貴な存在を乗せている以上、その安全を最優先するのは理解できるけれど。
こっちには仮にも先王の娘、アイリーン王女が乗っているのに。
“お前たちはここで死ね”。
船には感情なんてない。
けれど離れていくその後ろ姿に、俺はそんな意思を受け取った。
周囲が再び騒がしくなって、今度は何だと振り返る。
「……こんな時に」
舌打ちして、再び空に現われた人怪鳥の群れを見上げる。
まるで海魔の鳴き声に誘われたかのような大群だった。
最悪に最悪が重なった状況に汗が冷たく滴る。
得体の知れない海の怪物に、数で押し寄せる空の化物。
船とみんなを守りきれるだろうか。
船にはアイリーン王女のように、余人に替えがたい貴人も多い。
命の価値は平等だと俺は思っているけれど。
いまだによく分からなくて不気味で、ときどきイライラさせられるけど。
それでも失うわけにはいかない人だ。
「イア──」
内の精霊に呼びかけて竜の力を引き出そうとする。
海の上でどれだけ戦えるかは分からない。
いくら竜炎でも、水中奥深くに潜りこまれたら通じるかどうか。
海の上には大きな“口”が、船を呑みこもうとぽっかり開いている。
あの中に飛びこんで内側から炎を浴びせればあるいは──
「こぉ~ら」
背中に届くスクゥアの声は優しくて。
「大丈夫だから、ちょっと落ちつこうか」
ぐいっと彼女は身を屈めて、俺の顔を覗きこんだ。
「ね?」
なんだろう。
彼女に見つめられると、激しく打っていた鼓動が落ち着いていく。
ぎゅっと抱きしめられて、頭をよしよしって撫でられているみたいに。
俺の中の不安や焦りが静まっていく。
まるで──母親にあやされる子どもみたいに。
「海魔は私に任せてくれないかな」
スクゥアは言って、空を覆う怪鳥の群れを指さした。
「しばらくは向こうを頼むよ」
すでに一部で戦闘が始まっていて、数の多さと不安定な足場にみんな苦戦している。
たしかに俺たちも加勢した方がよさそうだけれど。
「あなたは……」
あの得体の知れない化物を、一人で抑えるつもりなのだろうか。
それなら俺の方が──
「大丈夫だよ」
彼女は俺が知らず知らず抱いていた自負も、さらには慢心をも見透かしていたのかもしれない。
「君はその力で、みんなを守って欲しい」
それを真っ向から否定するのではなく、さりげなくかわすように。
「おーい!」
スクゥアは船の反対側に固まっていた仲間を呼んだ。