第72話 予感
「そういえば、こんな噂を聞いたことは?」
スクゥアとの会話で、特に印象に残った話。
“北方を旅した人の知り合いの話を又聞きした人が話しているのを仲間が偶然耳にした話”らしいけれど。
大陸北東、冷たい風の吹きすさぶ沿岸部には、魔物や外敵を見張る灯台や砦が一定の間隔で建てられている。
そしてある嵐の夜、砦に駐留していた兵士たちがそれを目撃した。
「“怪物”だったそうだよ」
船縁にもたれかかってスクゥアは言った。
「とてつもなく巨大な、怪物たちだった」
激しい雨が降り雷の鳴り響く荒海の上に、怪物たちは現われた。
一方は“岩石の獣”、もう一方は“空飛ぶクラゲ”。
どちらも信じられないほど巨大で、この世のものとは思えない造型で、地獄の底のような叫びをあげて。
「兵士たちの目の前で激しくもみ合う姿は、さながら神話の大戦。両者一歩も引かず、そして決着がつかないまま海にはいつしか深い霧がたちこめて、怪物たちを呑みこんでいった……」
旅芸人のような語り口に、俺は引きこまれていた。
全てが終わったあとには、崖壁に打ちつける荒い波の音だけが響いていた。
砦の兵士たちは目にしたことを領主に報告しようとしたが、証拠は何ひとつ残っていなくて。
集団幻覚や虚言、妄言、精神疾患の疑いを恐れ(評価に響くのだ)、彼らは全てを自らの内に秘めた。
一人が酔った勢いで口を滑らさなければ、この噂も流れなかったかもしれない……。
「冒険者として、興味を惹かれないかい?」
大きな黒い瞳に、ちらちらとかがり火のような淡い橙が揺らぐ。
「そうですね。たしかに」
気圧されるように俺はうなずいた。
脳裏には当然、眷属──あの大蛇の姿が過る。
それに“北”という地理。
ファーガスが相対した眷属のことも。
この任務が終わったら一緒に北に行ってみないか、とスクゥアは俺を誘った。
「……どうして俺を?」
こんなに気にかけてくれるのだろう。
もちろん嬉しくはあるけれど。
「それはもちろん」
スクゥアは普段主に向けているのであろう媚態を目元に浮かべて。
「将来有望な男の子にツバをつけておくのは、当然のことだろう?」
□□□
仲間に呼ばれてスクゥアが去っても、俺はしばらく彼女との会話を思い返してその声を頭の中に響かせ、正直に言えば楽しんでいた。
年上のせいか、彼女の声はどこか俺を安心させた。
まるで肩を抱いて背中をポンポンと優しくたたいて、“大丈夫だよ”と言われているみたいで。
まるで、まるで……。
向こうでは話を終えたのか、アイリーン王女が船内に入るところだった。
ついて行こうとしたけど、ファーガスが大丈夫だと手を振った。
厚い兜を被っていても何を言っているのか分かる。
きっと王女は、ファーガスと二人きりになりたいのだろう。
外出の供をするとき、王女はファーガスに必ず兜を被せた。
先王と似ていることが問題なのか、ファーガスの姿を他人には見られたくないみたいで。
当のファーガスは文句を言わずに従って、重々しい兜で顔を隠している。
一見息苦しそうだけど、ディーネの冷気付与のおかげでけっこう快適なんだとか。
“先王”。
アイリーン王女と聖女ブリギッド、そして現王の父親。
けれど娘二人と息子とは、母親が異なる。
姉妹の母親は先王よりも前に身罷り、継妻となった先王妃エヴィレアが今では王母として大権を振るっている。
二人の娘たちとの間には、ほとんど交流がないみたいだった。
ひと月ほどアイリーン王女の傍にいて、彼女が自分から継母のことを話題にすることはなかったけれど。
仕事の中で俺は貴族たちから、その“噂”は嫌でも耳にすることになった。
“王母と現王が謀って、先王を殺害した”。
暗黙の了解のように秘された事実のように、政権から弾かれた貴族たちは言い合っていた。
アイリーン王女が俺たち護衛騎士にそれを口にしたことは無かった。
話しづらいか、話したくない事柄なのは理解できるけれど。
王女はなかなか心を開いてはくれそうにない。
もちろん俺は一介の冒険者にすぎないし、仕事をこなして報酬をもらう以上を求めないし求める権利もない。
けれど王女の内に秘められた物語と、新たな王になるという彼女の目的とが密接に関係しているとしたら。
……。
□□□
たまたま顔を上げて雲の流れを追っていたとき、空に何かが瞬いた。
出発当初よりは波も穏やかになって、どうやら島まではのんびり行けそうだと、気が緩みかけた矢先だった。
その鳴き声は、超速で放たれる銛みたいに鋭くかん高かった。
細い身体に不格好な巨大な翼、全身を覆う鱗にそして妖艶な女性の頭。
複数体のそれらは空中で渦を巻くように飛行しながら舞い降りてきた。
「人怪鳥!」
叫ぶと、船上に待機していた水夫や護衛兵たちが一斉に身構えた。
さすがに貴人の護衛たちは水準以上の手練れで、魔物の急襲にも落ち着いて。
間をおかずに弓矢や魔法が放たれ、有翼の魔物を迎撃する。
アルピーたちは攻撃を受けながらも獰猛な瞳を甲板上に注いで、ある瞬間に急降下した。
狙いは逃げるタイミングを逸して、隅で体を丸めて震える男。
一度照準を決めた魔物の動きに躊躇はなく、凶悪な鉤爪を伸ばし男につきたてようとして。
──
剣に手をかけ、ふっと息をはく。
自分と剣との間に横たわる頼りない“橋”。
それを完璧に捉えたとき、まるで錠が開くような理解がやってくる。
開いた眼に、獲物に襲いかかる魔物が映る。
その動きはあまりにも鈍い。
イアから力をもらっていないのに、敵の動きがはっきり分かる。
──
気づけば体は動いていた。
剣を振ったという感覚すら後に置いて。
“黄昏の陽”は一閃、魔物の体を胴体から両断していた。
斬れ味は凄まじく、甲板に落ちた怪鳥はなぜ自分が横たわっているのかも分からずに。
喰らうはずの獲物とそれから俺を見て、驚くこともできずに消滅した。
《凄いよ、カイル!》
イアが体の内側から褒めてくれた。
「ああ、いい感じだ」
さすが王家の宝剣。
威力もさながら、流した力を受け止める“器”がとてつもなく堅牢で。
この剣なら竜精の力を今までよりはるかに効率よく、無駄なく使えるだろう。
「お見事」
振り返るとスクゥアがいて、仲間たちと魔物を狩っていた。
「やっぱり、相当な手練れだったね」
「いやぁ……」
多少舞い上がっていたのか、お世辞を素直に受け止める。
騒ぎを聞きつけてファーガスも甲板に上っていた。
魔物はほぼ一掃され、どの船にも損害はないようで。
もう大丈夫だと言いかけて、船体が激しく揺れた。




