第47話 霧の晴れ間
......
──ル
......
──イル!
……
「カイル!」
「──!?」
背骨のあたりから声が聞こえた。
振り返ろうとして、体は痺れ腕も足も震えて動かない。
どうにか首を回すと髪の先から水滴が垂れて。
空からしとしと霧雨が落ちていた。
「カイル」
水底の小石が巻き上がるみたいに胸が騒ぐ。
その声を二度と聞けないかもしれないと、心のどこかで思っていて。
「……終わったのよね?」
ディーネはこけた頬に微笑を浮かべていた。
霧雨に濡れる長い髪が、とても眩しい。
「ああ、終わったよ」
雨に煙る視界の向こうに、大きな窪みが見える。
かつて湖だった場所は広く地表が覗いていて、蛇の気配はどこにもなかった。
竜の炎が、大蛇を彼方へ運び去った。
「来てくれてありがとう──でも、どうして」
視線は自然と、ディーネの後ろに隠れる少女に向いた。
俺と目が合うと、少女はディーネの脚にひっついてうつむく。
薄いローブを一枚羽織って、目に見える範囲で特別変わったところはない。
「この子は──」
「こんにちは!」
尋ねる前に、イアが飛び出してきた。
「あなたも精霊なんだね!」
自分よりも小さな精霊に目を輝かせて。
「生まれたばかりなの?」
イアの瞳にきらきら見つめられ、少女はびくりと固まってしまう。
「もしかして、ディーネの“中”にいた?」
言うと、ディーネはうなずく。
「みんなが出発してしばらくしてね、この子が出てきたの。体が二つに分かれちゃうみたいに、不思議な感覚だった」
ディーネが頭を撫でると、少女は母親に甘えるように体をこすりつけた。
「姿を見せたとたん私を揺さぶって、“行かなきゃ”って繰り返すの。どこにって聞いたら、湖の方を指さして」
戸惑いながらも、ディーネは直感に従った。
彼女の直感はよく当たるのだ。
「それでケルマトに馬を出させて急いで出発したんだけど」
傍らに目をやって、しずかな息をもらす。
「間に合ってよかった」
ディーネの視線の先には、うずくまる大きな影。
己の全てを出しつくし、仲間を守りきった男がいた。
□□□
「君たちが私を引きとめてくれたんだな」
ありがとう、とファーガスは背中を曲げて二人に礼を言う。
腕も足もほとんど動かせないようだった。
「……君の名前は?」
精霊の少女はまたびくりとするけれど、ファーガスを見る瞳にはどこか思慕が感じられた。
ずっと前から相手を知っているみたいな、懐かしさ。
「実は全く分からなくて」
ディーネはすまなそうに、けれど愛おしそうに精霊を撫でる。
長い間内に隠れていたものが姿を見せてくれて、嬉しいんだろう。
「ねえ、名前なんていうの?」
ディーネが尋ねても、精霊は首を振って答えない。
嫌がるのではなく戸惑うような姿を見て思う。
もしかして、答えられないんじゃないだろうか?
「名前が無いなら、つけてやればいい」
クローガンが濡れた地面からにょきっと顔を出す。
岩鉄の精も力を使い果たして、小さな石の塊になっていた。
なんだか置物みたいで可愛いな。
「名は精霊を強く形づける。“名づけ”は宿主と精霊とを結ぶ、契約の第一歩だ」
クローガンに言われてディーネは首をひねり空を見上げ、それから精霊に目をやる。
宿主にぴったり寄り添う少女は、期待に瞳を丸くしている。
ディーネから分かたれたという彼女は、たしかにディーネによく似ているけれど。
俺には別の誰か──頭の中、心の中にある“誰か”の影が過った。
知っているのに知らない、知らないのに知っている、そんな近くて遠い“誰か”。
うん、とディーネがうなずく。
適当な名前を思いついたのではなくて、自分の中にずっとあった予感を確かなものにしたみたいに。
「あなたの名前なんだけど」
膝を曲げて少女と同じ目線になって、ディーネは言った。
「“エリィ”なんて、どうかな」
心地よい風が吹いて飛沫を散らす。
霧雨に薄曇る空の向こうに太陽が覗いた。
霧深い森に光が射したように。
陽の光が幼い貌を照らして。
名を呼ばれた精霊は、満足げに大きく頷いた。
「良い名前だ」
名を受けた少女に、ファーガスはごつごつした顔の輪郭を精一杯和らげる。
……その瞳には今、何が映っているのだろう?
自身の無力、辛い記憶、耐え難い過去。
ずっと背負ってきたものが、呼び起こされて。
「はじめまして、エリィ」
けれどファーガスの声は穏やかだった。
「君に会えて、とてもうれしい」
長くさまよい続けた霧の向こうに、光を見つけたみたいに。
つけられたばかりの名前を呼ばれて、エリィは笑顔になる。
それからお互い見つめあって。
優しい時間が流れていた。
霧がすっかり晴れることは決してなくても。
時折訪れる晴れ間が、迷いと諦めを安らぎに変えて。
道を見失い立ち止まった人々を包んで、やがて背中を押して送り出してくれる。
「はじめましてエリィちゃん!」
イアがずんずん近づいて、エリィの手を握る。
「私、イアだよ!」
よろしくね、と顔を寄せて相手を覗きこむと。
期待に反して、エリィはまたディーネの後ろに隠れてしまった。
「うちの精霊がごめんね。まだ子どもなもんで機敏てのが分からないんだ」
俺が謝ると、イアが頬を膨らませて抗議する。
「う~、イアはエリィちゃんより“おとな”だよ!」
どうやら先輩精霊としてお姉ちゃんぶりたかったみたいだけど、失敗してしまったようだ。
「あ~……」
俺たちの様子を遠目に窺っていた男が一人。
「ケルマト──ありがとう」
ほとんど動けなくて、その場から俺は声をかけた。
「あぁ、いや……」
どこか殊勝に、ケルマトは頭の後ろを掻いている。
「すごかったでしょ、カイル」
ディーネが言うと、意外にも彼から憎まれ口は出てこなかった。
「ああ……すごかった。あんな化物も、あんたの技も──あんな威力の炎も見たことなかった」
それ以外の言葉を失ってしまったみたいに、すげぇよ、とケルマトは繰り返して、腰に差した二本の剣に目を落とす。
握りしめた拳が震えていて。
きっと彼は、これからもっと強くなれるだろう。
□□□
やがて意識が朦朧として、俺はその場に崩れ落ちる。
駆け寄ったディーネが、頭を膝で支えてくれた。
「お疲れさま、カイル」
太陽みたいに温かな声が、俺を包んだ。
……ついでに彼女の太もももあったかい。
「昨日、部屋に来てくれて嬉しかった」
ディーネが顔を近づけて、濡れた髪先が頬に触れる。
もう目の前がほとんど見えなくて、彼女の表情もおぼろげで声も遠くて。
「私ね──」
耳元で何かささやいて、それからもっと顔を近づけた気がするけど。
──
そこでぷっつり意識が途切れて、真っ暗になった。
かくして目覚めた眷属の一、蛇の王は消え去った。
しかしこの後、大陸各地で正体不明の巨大生物が相次いで目撃される。
あまりに荒唐無稽とほとんどは黙殺され、その存在が民衆に知れ渡るには今しばらく時を要したものの。
世界はたしかに、以前のままではありえなかった。
第三章、および第一部完結です。
ここまで読んでくれて、本当にありがとうございます。
しばらく投稿分の改稿をしながら、続きを書き溜めます。
第四章「王女と聖女」(仮)の投稿をお待ちください。
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