第40話 蛇の王
霧が俺たちを包んだ一瞬、あらゆる音が消え去り全てが真っ白になった。
まるで世界の全てが、奴に呑み込まれてしまったかのように。
「“光球”を──」
ファーガスが後方の魔法使いたちに指示を出そうとしたとき。
あの鳴き声が響いた。
それは無慈悲に屈伏を迫る咆哮。
人の心の最も奥底にある記憶を呼び起こす。
耳にした誰もが、圧倒的な力による支配の歴史を思い出す。
今や忘れ去られた昔──太古の神話の時代を。
周囲の者たちが耳を塞ぎ頭を抱えた。
恐怖と衝撃に体を震わせ怯え畏れた。
俺もファーガスも身をこわばらせ息を呑んだ。
気を抜けばあっという間に屈してしまう。
「くそ、何だこれは……!?」
騎士団長が吐き捨てる。
鳴き声が止んでなお鼓膜から離れない音を振り払おうと首を揺らす。
「状況は──」
敵だ、と誰かが叫んだ。
いつの間にか霧の中にあまたの輪郭が浮かび上がって。
記憶の底から蘇るように魔物の群れが姿を現した。
そのほとんどは“上位種”。
多くの冒険者たちが目にしたこともない強敵。
湖の周囲にずらり立ち並ぶ威容は、腕に覚えのある戦士たちの心をたやすく揺るがす。
周りには早くも心折れて敵に背を向けるものたちがいた。
強大な邪気を持つ上位種の魔物は、生半可な冒険者など触れもせず一蹴してしまう。
けれどそれさえ、この場においては露払いに過ぎない。
本当の絶望は最後にやってくる。
激しい地鳴りが起こり、湖の水面が波紋をたてる。
湖の中にやがて小さな噴水が現われる。
目を凝らさなければ見えないほど小さいそのきざしはすぐに巨大化して、湖上に浮かぶ滝のように激しく水を噴き上げる。
そして滝の中からそれが姿を見せる。
集まった者たちの目が釘づけになって動かなくなる。
全ての感覚を奪われてしまったみたいに。
太くとぐろを巻いた体。
取り込んだ無数の肉に形作られた異形の突起。
水に濡れた鱗は薄黒くて滑りある光沢が霧の中に鈍く瞬いて。
「“蛇の王”……」
俺の近くにいた魔法使いが、そう洩らした。
「ミル……?」
「かつて竜になりかわろうとして瞳を奪われ、地下に墜とされた眷属だ」
見上げると、巨体先端の蛇頭はのっぺりしていて目玉らしきものが無い。
小さな鼻穴と裂けた口がまるで宙に浮いているかのようだ。
「まさか、実在していたなんて」
震える声で魔法使いは言った。
それは永い時の中で忘れ去られて矮小化された幻想のはずだった。
全ては大地の奥深く、遥か地下に秘匿され封印された現実だったのだ。
蛇の姿を見た瞬間に集まった皆が支配された。
想像を超えた怪物を前に絶句し思考を止めてしまった。
戦う前に趨勢が決しかけている。
このままでは何も為すことなくただ無駄に命を散らしてしまう。
──
眷属の咆哮にも劣らない衝撃が地面を突き走る。
「臆するな」
ファーガスが盾を地に叩きつけていた。
「その力は、磨き上げた技は何のためにある」
集まった戦士たちの最前に立つ“盾”が声を上げる。
「目の前の敵を屠るためだ」
その盾が、その背中が、暴圧を放つ悪魔たちから仲間を守る。
「我々が倒れれば、次はロンゴードだ」
その次は?
大陸全土が、人間の世界全てが蹂躙されるのだろうか?
“嵐の大戦”が再来するのか?
「ならば、覚悟を決めるほかあるまい」
ファーガスが前に立つだけで皆の背筋が伸びる。
力強く支えられていると知る。
膝を屈しかけた冒険者たちが拳を握ってそれぞれの武器を抜いた。
はじめから逃げ場なんてない。
その諦めこそが自らを奮い立たせる。
「大した男だ」
栄美な甲冑に身をつつんだ騎士団長が、馬上でつぶやいた。
「なるほど、姫様がな……」
感心もほどほどに団長は背後の兵士たちを振り返る。
「聞いたか。野の冒険者たちがここまで覚悟を決めているのだ。偉大なる王家に仕える我々が、後れを取るわけにはいくまい」
騎士たちを鼓舞して団長は剣を抜いた。
刀身には強力な魔術強化が施され、霧の中にまばゆく輝く。
光を受けると催眠から目覚めるように兵士たちの表情が引き締まった。
この騎士団長は領主から派遣されたと聞いたけど。
これほどの剣──相当な権力者かその信頼を得た者でしか手にはできないはずだ。
……。
「カイル、イア、行こう」
ファーガスの声に再び前を向く。
「竜の力、見せてもらおうか」
「──はい」
イアを“中”に入れて俺は剣を抜いた。
魔物たちの壁が近づいてくる。
冒険者たちとロンゴードを守る騎士たちは、それを前に一歩も引かない。
ほんのわずかな間の小康状態。
再び眷属の鳴き声が、それを破った。
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