第162話 異界行──地獄
惨状、としか言いようがなかった。
俺たちのだれも声を発することができなかった。
湿地帯を流れる川のそばに、“沼の民”の集落はあった。
人間のそれとは規模がそもそも違うのだろう。
広大な集落は遠く山裾にまで続いていた。
迷路のように張り巡らされた水路の合間には、収穫を終えた土気色の畑が波打つ海のように広がって。
太い木泥と土を固めた建物は高く大きく、神殿のようにそびえ立っていた。
焼け落ちていなければきっと、俺はその威容に圧倒されていただろう。
焼け落ちていなければ、きっと。
「これはどういうことだ」
声を震わせ、ギアウはイアを肩から降ろして俺に預け。
ふらふらと頼りない足取りで集落に足を踏みいれた。
「ひどい……」
背中に乗ったイアがぎゅっと、俺の腰をつかむ。
あたりにむんとただよう臭いが何か、彼女も気づいているだろう。
馬女神を促しギアウの後を追う。
一歩進むごとに饐えた臭いがひどく、鼻の奥を焼くように。
そこは焦土。
まるで空から無数の炎魔法が降りそそいだみたいに。
目に映るものすべてが黒く焼き払われていた。
家屋は無惨にくずおれ、石垣には肉の断片がこびりつき、いまもなお焼け続けていた。
土の道は黒い絨毯を敷き詰めたようで、脇に掘られた水路の水は干からび、毒気のような淡い煙をた立ちのぼらせて。
「何が、あったんだ」
口を開けると熱風が吹きこみ、喉の奥がひりひりと痛んだ。
熱は胸の内までにとどき、体全体をざわざわと不安に沸き立たさせる。
ウプアが足を踏み出すと、焦げた地面が呻くようにじゃらりと軋んで。
無数の黒い塵が風に舞ってくすんだ空を覆った。
そして視界を塞ぐ砂埃のむこうに、いくつもの塊が山をなして。
そのすべてが焼け焦げた死骸だった。
動悸が激しくなり、こみあげる恐怖と衝撃を必死で押さえる。
するどい痛みがこめかみに走り、ぐらりと頭を横に振ると。
泥炭の地面から巨大な鳥の脚のようなものが四本、まっすぐ突き出していた。
見ると、三叉に分かれた脚先に伸びる、どす黒い爪がぼろぼろと崩れ落ちて。
風に吹かれるとそのまま砂塵となり、あとかたもなく消えていく。
かつてあったものが何もかも消し炭となって。
何もなくなった場所からは、行き場のない魂みたいな太く黒い煙があがっていた。
そこは熱と炎と死が渦巻く“地獄”。
何もかもが失われた終わりの風景。
焼き尽くせ。
この世のすべてを。
□□□
ギアウは俺たちをおいて先へ進んでいく。
巨体を前のめりに、放心したように足元はおぼつかなくて。
「誰かいないか!」
声をあげて集落の住民を呼ぶけれど。
答える声はなく、山向こうから吹き降りる風の音だけが冷たく響く。
「──エスリゥ!」
焼け落ちた家屋の残骸をひっかきまわし、ギアウは叫んだ。
黒く焼けて積み重なった太い柱を片手で軽々持ち上げては、その下を確かめて。
「答えてくれ!」
悲痛な声で何度も何度も叫ぶ。
瓦礫を持ち上げては投げ飛ばし、誰かの姿を探している。
残骸の山をひとつ崩すとまた隣家へ向かい、同じことを繰り返して。
「エスリゥ!」
ギアウは何度もその名を呼んでは焼けた柱を持ち上げ、首を振って力なく地面に放った。
柱に赤くほとばしる熾火が、ちりちりと虚しくあたりに散った。
「おじちゃん……」
獣のように叫び、残骸をかきまわすギアウの姿を見て。
イアは恐れるように体を縮こませる。
太い腕で柱を砕き、長い尾で塵を吹き払う姿は魔物と変わらない。
地上で出会っていたら俺は迷わず剣を抜いただろうけど。
大きな瞳を真っ赤に血走らせて想い人を探す姿に、胸が苦しくなる。
もし俺が同じ立場だったら、まったく同じことをしていただろうから。
彼女の姿を探して、狂ったようにそこらじゅうを荒らして回って。
何度でも名前を呼んで叫んで──嘆くだろう。
まだ会ったこともない、ギアウの話の中でしか知らない異種族の女性の姿が。
だんだんと形をなして、俺の大切な人とぴったり重なっていく。
「向こうを探してみます」
聞こえているかはわからないけど。
俺はギアウにそう声をかけて馬を走らせた。
左手の腕輪に触れると、ほのかに温かく熱を帯びていた。
集落のまわりも状況は同じだった。
目に映るなにもかもが黒く焼け、原型をとどめないほどに破壊されて。
吹きのぼる煙の合間に、黒い塊がいくつも倒れていた。
炎は相当な広範囲を焼き払ったのだろう。
湿地帯を覆う水草は見渡す限りに消え失せ、暗い水辺からは幻影のような薄煙が無数に上がっている。
「いったい何が……」
つぶやきながらも、俺には分かっている。
戦争。
この地に降り立って初めてみた光景と同じ。
この地に生きるもの同士が戦い、殺し合った痕跡。
けれど眼の前の様相にはひとつ、大きな違いがあった。
これは互いの信念と名誉を賭けた戦いではなく。
相手の生命も尊厳も、何もかもをも蹂躙する一方的な“虐殺”。
ほとんど範囲も定めずに放たれたであろう“炎”。
その前に立つものはもはや敵ですらなく、ただのもの。
あるいは、ものですらなかったのかもしれない。
彼らはただ焼き尽くしたのだ。
そこにあるすべてを。
集落の奥にある岩場に来て、ふとなにかの気配を感じた。
感覚を尖らせると、どこかから何ものかの息遣いが聞こえた。
洞窟の奥から流れる風音のように細く頼りない、けれど確かな生命のささやき。
「誰か!」
それはいつか魔物との死闘で傷つき、倒れた戦士たちが立てる音。
絶息の間際、死の淵にあるものが漏らす声なき悲痛の叫び。
「カイル、見て!」
イアが指差すところに、細い煙があがっていた。
炎を受けて黒ずんだ岩の隙間に、その煙は人の息吹が形をなしたように。
「大丈夫か!?」
岩から身を乗り出すと、倒れているものを見極める前に悪寒がやってきた。
岩がちょうど盾のようになって炎を防いだのだろう。
けれどそれでも足りず、肉体は半ば以上黒く焼け焦げていた。
「──」
“沼の民”というものを見たことは、もちろんない。
苦しげに煙を吐き続けるその塊はどこか、水草のなかにひっそりとたたずむ貝のようだった。
全身を火傷で黒く染め、沼の民は苦しげに体を収縮させていた。
馬から降りると俺はその細長く大きな体の隣に膝をついた。
見れば見るほど奇妙な生き物は、焼けた地面の上でたしかに息をしていた。
巨大な魚のヒレのような平たい部分に切れこみがあり、そこから今にも途切れそうなほどの小さな音が聞こえた。
ウプアがそばに寄り祝福の吐息を吹きかけるけれど。
ただれた皮膚がもどることはなく、もはや手遅れだった。
沼の民の手は顔と同じように平たく、鳥の翼のようだった。
先端にはかろうじて指とわかる突起がいくつか伸びて。
無惨に焼けただれたそれは、震えるたびにぼろぼろと体からこそげ落ちていく。
「……ここで何があったんですか」
俺は沼の民に問いかける。
死の淵にある者への言葉として、ふさわしいものではなかったけれど。
──
「……サイ……ヤク……」
頭部の切れこみから、その言葉は発された。
まるで体内に溜まった毒を、生命とともに吐き出すみたいに。
「ヤミ……ノ……コ……」
そしていまにも途切れそうな淡い吐息に混じる、底なしの怨嗟は。
「クロイ……ホノオ……」
見えない瞳でまっすぐ、俺を見つめていた。




