第156話 異界行──渦の先
「気になる娘がいてさ」
男は言って、照れくさそうに頭をかいた。
「今度会えたら、求婚しようと思ってるんだ」
焚火の明かりに照らされ表情は朗らかだったけれど。
引き締まった口元からは、強い覚悟がうかがえた。
「うまくいくといいですね」
答えて、俺は杯に注がれた酒を口に含んだ。
甘く染み渡る蜂蜜酒には独特のくせがあって。
喉を通る柔らかい熱に、地上に残してきた恋人を思い出した。
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再び闇の世界に放り出された俺たちは、暗い中を進み続けた。
そして時間の感覚のない無限の空間をさまよってしばらく。
巨大な“渦”に巻きこまれた。
「なんだ……!?」
その“渦”に形はなかった。
闇の中にたしかな“流れ”だけがあり、あたりの光蟲が木の葉みたいに吸いこまれていく。
馬女神の背に揺られていた俺は、突如襲ってきた衝撃に手綱を強く握った。
《あらあら》
けれど馬の脚が渦につかまれ、四肢で宙を蹴るかいもなく。
そのまま渦の中へと引きずりこまれていく。
「うう〜!」
背中につかまるイアの体がふわりと浮いて。
「手を離すな!」
“中”に入れと言う間もなく、ふたたび襲ってきた激しい渦の流れにイアの手が離れた。
「ふわぁ〜!」
「イア!」
闇に生じた渦の中心に、竜精の銀の粒子が吸いこまれていく。
俺は必死に手を伸ばすけれど、ウプアですら身動きの取れない渦の中では為すすべがない。
そのうち俺の体もぐるぐる回りだし、脳みそがかき回されるような激しい振動に襲われて。
ウプアとともに渦の中心へと引きずられていく。
こんな異界の闇の中でイアと離れてしまったら。
もう二度と会うことはできないんじゃないか。
そう思うと恐怖がもたげてくるけれど。
《大丈夫です》
こんな状況でも馬の女神は落ち着いていた。
《ここはあなたの異界。すべてはあるべくしてあるのですから》
ですです、と彼女は尻尾をふりふり言うけれど。
そうはいっても衝撃が激しすぎる。
「ぐぁ……!」
奇妙な感覚だった。
肉体は渦の中心へと向かっているのに、俺自身は反対に、外へ外へと引きずり出されていくようで。
まるで冬を前に屠られた家畜が、皮を剥がれて肉を取り出されるみたいに。
俺の“中身”が体の外側へとはみだしていく。
「イア──!」
平衡感覚が完全に失われた中で、相棒の名を呼ぶ。
けれど渦の勢いはさらに増して激しく、暗闇さえも塗りつぶすように。
やがて目の前が見えなくなり、意識までもが渦を巻いて何もわからなくなった。
──
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──────
目が覚めると、夜が広がっていた。
空には異様に大きな月が浮かび、不気味なほど明るく俺を照らしていた。
「ここは……」
ぐらぐらする頭をどうにか起こし、周囲を見渡す。
視界を塞ぐように、枯れた木々がそこら中にはびこっていた。
苔むした地面はじめりとして柔らかく。
長く陽にあたっていないのか、あたりはひどくカビ臭かった。
「──イア!」
痛む頭を起こして名前を呼ぶけれど。
湿った土が声を吸いこんで、まったく響かない。
イアの姿はなかった。
額に汗が滲み胸が激しく高鳴っていく。
まさかこんな場所で、彼女を失って──
《落ち着いてください》
ぶるるっと、頭上からウプアが俺に息を吹きかけた。
生命力と祝福に満ちた馬女神の吐息に、我を忘れかけた心がすっと静まっていく。
母親にあやされる赤子のように、俺はその一瞬眠りに落ちてまた目を覚ました。
《あなたはあの子と契約を交わしています。あの子はあなたの一部なのですよ》
ウプアもまた、子供に言い聞かせる母親のように。
《あなた自身の内に耳を澄ましてください。あなたの中にはあの子がいる。あなたの居場所は、あの子の居場所でもあるのです》
癒やしの力にあてられ、俺はうなずき目を閉じる。
まぶたの裏の暗闇は異界の暗闇によく似て。
月明かりの残照が、闇に浮かぶ光蟲みたいに瞬いていた。
俺はイアと契約を交わした。
俺とイアの間には、互いを裏切らないかぎり決して解けることのない誓約がつながっている。
そうだ。
俺とイアは同じものを持っている。
思えばいつからか、イアとひとつになっていく感覚があった。
はじめはただ互いの存在に慣れていっただけだと思ったけれど。
そうじゃない。
俺とイアの間には、人間と精霊という区別を越えたなにかがある。
その確信は日に日に高まっている。
──
俺の思いにこたえるように、瞼の裏に細い糸のような光が見えてくる。
淡くまたたく蟲たちが、俺のたどるべき道筋を示してくれる。
その先にはきっとイアが。
イアに関わる何かがある。
「行こう」
ウプアにまたがり、俺は光の導くほうに向かって走り出した。
あたりは荒れた湿地帯だった。
一面に薄く茂る緑はすべて、毒を吸いこんだみたいに弱々しく枝先を垂れて。
けれど通るものを絡めとるような、悪意に満ちた棘を伸ばしていた。
「戦があった……?」
むんと重い湿った土の匂いに混じり、饐えた臭いがした。
泥の下からあふれ出てくるような臭み。
その臭いを俺はよく知っている。
あたりには不自然に盛り上がった丘がちらほら見えて。
そばを通ると、そのすべてが死体だった。
湿地帯を埋め尽くすほどの屍の山。
相当に大きな戦だったのだろう。
「イア……!」
焦りがつのる。
臭いからして、戦はそれほど前のものじゃない。
そこらに残党がうろついていてもおかしくなかった。
たちこめる腐臭をかいくぐり、光の糸をたどっていく。
そしておばけみたいに不気味に垂れた木々の間を抜けたとき。
「カイル〜!」
虚ろな藪の隙間から、のんびりとした声が聞こえてきた。
「どこ〜?」
湿地帯の暗い空気には不格好な明るい声が、光の糸に絡みついて。
強い一本の道となって俺に行き先を指し示す。
「イア!」
相棒の名を呼び、ウプアを急かす。
黄金の馬は四肢にぎゅんと力をこめ、ひとっ飛びに声のする方へと向かう。
「大丈夫か!」
枯れ木を飛びこえ柔土を蹴り散らし。
うっとうしい虫の群れを払い、立ちこめる霧をぬけると。
「カイル!」
手を振るイアが見える。
いつもどおりの無邪気な姿に、安堵の息がもれるけれど。
「おお〜見つかったか」
見知らぬ誰かが、イアを肩に乗せていた。
“人”ではなかった。
けれど魔物ではなく。
その男は、様々な生物の寄せ集めに見えた。
まず目に入ったのは体を半ば覆う鱗。
肉体はたくましかったけれど、ぬめりとした鱗の光沢がその体を丸まって見せていた。
イアをささえる腕の先には鋭い爪が光って。
小さく開いた口内にはノコギリのような牙がのぞく。
二足でまっすぐ立っていたけれど、見た目の印象はトカゲのようで。
大きな蒼目はぎょろりと丸く、獲物を見定めるように俺を凝視していた。
頭頂部には鳥の頭冠飾りのような、色鮮やかな毛がふさふさと茂り。
その脇からは半月の形をした白角が後ろに伸びていた。
そして男の背後でかすかな土埃がたち、見ると長い尻尾が地面を掃いていた。
肌と同じ鱗に覆われた長い尾が。
イアのそれと同調するように、くるりと小さくとぐろを巻いて。
ファーガスよりももっと大きな。
見上げるほどの巨躯を前に、俺は直観した。
この男が、眷属だということを。




