第155話 東伐──撤退
びりりと、頭が痛んだ。
秋の森のような、とても綺麗な赤い髪と。
膨大な力よりもまず感じる、優しい魔力。
敵であるはずなのに、その力は僕を柔らかく包みこみようで。
「ディーネ!」
大男が彼女をそう呼んだ。
その響きは僕の耳に、どこか懐かしくて。
《……むむ》
そして魔女の背中に浮かぶ、小さな影。
魔女と同じ赤い髪の、魔女にそっくりの女の子。
まるで親子みたいに、魔女にぴったり寄り添っている。
ディーネと呼ばれた魔女が、杖を僕に向ける。
後ろの女の子も、両手を前に出して鋭い目で僕をきっとにらみつける。
二人の赤い瞳の放つ光が、まっすぐ僕の目に飛びこんできて。
頭痛がさらに酷くなる。
血の噴き出たこめかみにまた亀裂が入って、中から何かが飛び出してきそうだった。
「ああっ……!」
槍を持つ手に力を入れると、痛みはますます増していく。
絶対に間違ったことだって、誰かにきつく叱られているみたいに。
「あなた……」
頭を抑える僕を見て、魔女が杖を下ろした。
透き通ったその眼に映る僕の姿は、ひどく歪にねじ曲がっていた。
誰だろう。
魔女の瞳に映る、見知らぬ男は。
──
気づけば叫んでいた。
どうしようもないくらいに、情けない声で。
そして手綱を握り、馬の尻を槍の柄で叩き。
僕は戦車を反転させた。
逃げる、逃げる、逃げる。
ここは僕のいるべき場所じゃない。
一刻も早くここから離れないと。
ここは間違った場所だから。
ここにいちゃいけない。
ここにいたら、僕が僕でいられなくなる。
通ってきた道には兵士たちが集まっていたけれど。
二頭の馬で蹴散らしていく。
邪魔をするやつは全員槍でぶった切って。
止まることなく走り続ける。
脇目もふらずにひた翔ける。
“間違った何か”に、捕まらないように。
「──セーダ!」
不意に現れたものに、馬を止める。
そこには“おじさん”たちがいた。
構えるけれど、三人とも武器を脇におろして、戦う気は感じられない。
僕は手綱を緩めて戦車を止めた。
「女王を討たなかったのか」
最初に戦ったおじさんが言った。
なんだか僕を心配しているみたいだった。
「ならばもう、君が戦う理由はないだろう」
そうなのかもしれない。
手を伸ばせば届く距離にいて、それでも敵の大将を逃したのだとしたら。
僕は一体、何のために戦っていたのだろう。
「ここはいったん退かんかね」
二番目に戦ったおじさんが言った。
「どのみち女王軍は浅瀬を越えて、ウルステウに攻めいる。お前さんは知らんかもだが、この軍の継続力はちょいと洒落にならん規模でな、結末は見えてる。無駄に命を散らす必要はないんさ」
降伏をすすめているわけじゃない。
女王と同じように、ただ事実と現実を説いているだけだった。
「それに、うちの女王様は軍紀に非常に厳しくおいでさ。意味もなく“東”の民を殺すことはないと思うぜ」
なにせ徹底的な現実主義者だからな、とおじさんは言う。
その言葉の意味はわからないけれど。
適当にごまかしているわけじゃなかった。
刃向かうならば容赦はしない。
けれど従うならば受けいれよう。
こちらにはその余裕がある。
あの女は臭くて鬱陶しい、悪魔のような奸婦だけれど。
嘘だけはいっさい口にしなかった。
僕にはそれが分かってしまった。
悪しき女王は僕には全く理解の及ばないものを。
ずっと、ずっと遠く先を見ていた。
……。
それでも。
たとえそうであったとしても。
再び馬を走らせ、おじさんたちの間を抜ける。
おじさんたちは止めることなく、僕を通してくれる。
「少年」
三番目に戦った“魚”のおじさんが、僕の背中に声をかけた。
「君が何者かは分からずじまいだが──生き急ぐなよ」
僕はうつむいて答えない。
自分がどうするのか、どうすべきなのか、答えられない。
「なんとなく、君はあまり長生きできそうにない」
それが優しさだって、分かるけれど。
「ぼくは“英雄”として生きたい」
胸の中でじゅくじゅくしたものが、蟲みたいに蠢いている。
「だらだらと長く生きるより、短くても華々しい、まぶしく輝く人生を」
その光は僕をそそのかしたかもしれないけれど。
間違いなく、この数日間は僕の人生で最高の日々だった。
たくさん戦い、たくさん殺して。
まるで自分が神話の英雄になったみたいな、幸せな時間だった。
「ありがとう、おじさんたち」
手綱を大げさに振って別れを告げ、僕は勇ましく撤退する。
この戦で勝利したのは僕なんだって、自分に言い聞かせるように。
──光がどんなに強くてもよ。
その声は、風に乗って僕の耳に届いた。
──闇を消し去ることはできないんさ。
僕はもう、振り返らなかった。
浅瀬を越えて、森の一番暗い奥へと入っていく。
戦車を引く二頭の馬たちの体が少しずつ、薄くはかなくなっていく。
一体、この馬たちはどこからきたんだろう。
どうして僕を乗せて走ってくれるんだろう。
この数日はすべてが夢みたいだった。
“西”からやってきたたくさんの兵士を倒し、ものすごく強いおじさんたちと戦って。
大軍勢を相手に単騎でかけて、敵の大将を追いつめて。
子供のころからずっと憧れてきた。
戦場で暴れまわり、歴史に名を残す、人々に語りつがれる“英雄”に。
だからぼくはずっと鍛えてきた。
村の畑のとなりで、ひまさえあれば剣と槍を振ってきた。
いつか英雄になるその日のために。
いつかくる出番にそなえて。
……。
でもそろそろ帰らないと。
家で、みんなが待っているだろうから。
ずいぶん仕事がたまっちゃったんじゃないか。
待っていて、すぐに戻るから。
帰ったら父さんと家畜の世話して泥炭を集めて。
母さんを手伝って、弟たちの面倒を見て遊んでやって。
爺ちゃんも帰ってきてるだろうか。
大陸中を行商して回って、いろんなことを見聞きして。
その話を聞くのが、僕はいつも楽しみだった……。
──
────
──────
「ここまでかのぉ」
いつの間にか目を閉じていた。
「やはりあの娘、本物じゃなぁ……真っ向から夢を打ち破りおった」
誰かの声が聞こえたけれど、もうまぶたを開けられない。
「だが、なかなかに楽しませてもらったぞ。お主もまた本物であった」
バサバサって、まるで烏が羽ばたくような音がして。
ぼくの頬に、冷たいものが触れた。
「お眠り、おちび。また我と、夢で戯れておくれ」
それはまるで、いつか出会った運命の人の、口づけみたいだった。
□□□
“浅瀬の戦い”での女王軍の被害は、最終的に千を超えた。
それは戦の趨勢を揺るがしはしなかったものの。
複数の諸侯が抗議して一時引き上げ、女王軍に多少の動揺をもたらした。
やがて行軍は再開されるも、闇討ちの記憶に兵たちの足取りは鈍く。
森を抜けるころには月が変わっていた。
次に彼らの眼の前に広がるは、かの有名な東の“湿地帯”。
妖しい瘴気がたちこめる一帯は、いまだ魔物や迷宮の発生が絶えなかった。
女王軍は十全な補給を確保しつつ、さらなる侵攻の準備をととのえ。
東軍もまた偶然にわいた猶予を使い、堅固な防塁を築く。
本格的な冬を迎え、東伐は次の段階に進もうとしていた。
“浅瀬の英雄”──セーダ・マクスァルダの行方は知れなかった。
東軍の捕虜たちは尋問あたり、申しあわせたように首を振った。
そんな少年は、見たことも聞いたこともないと。




