第153話 東伐──奸婦
空気を震わせた。
「控えなさい、下郎」
周囲のすべてをねじ伏せるように。
その“声”、その言葉には力があった。
闇に映える長い黄金の髪。
気だるげに首を回すその姿は、まさに魔性。
とても美しい女だけれど。
見惚れるよりも、憎しみが勝った。
こいつこそが僕の敵。
倒すべきわるいもの。
どすどすと忙しない音をたて、天幕から男が出てくる。
“山のような”なんて言いかたが、まったく当てはまってしまう大男が。
女の前に出て槍を構えた。
「君が、かの”少年”か」
見上げるほどの巨人は、どうしてか僕にはとても親しく思えた。
憎き女王のそばに立っているのが、不愉快なくらいに。
男の登場に背を押されたのか、兵士たちが声を張り上げ一斉に襲いかかってくる。
腰が引けて、どうにも情けない姿だったけれど。
「うるさい」
女王から目を離さず、僕は彼らを一振りで一掃する。
全員の体が腰のところで真っ二つ。
しばらくは、自分が死んでいることすら気づかずに地面を舐めていた。
「何用ですか、無礼者」
目の前で兵士が死体になろうと、女王は眉すらひそめない。
不愉快な表情のまま僕に問いかける。
「何用、だと!」
その態度、口のきき方。
すべてが癪に障る。
「他人の土地を荒らしておいて、その言い草は何だ!」
戦車の床板の上に長柄を叩きつけると、二頭の馬が激しくいなないた。
ぶるるっと大きな鼻穴をふくらませ、焼けるような息をあたりに撒き散らす。
衛兵たちはその勢いにおののいて縮み上がり、情けなく震えているけれど。
悪しき女王はまるで意に介さず、腕を組み首を振った。
「いずれ我々の──私のものとなる土地です。何の問題が?」
整った鼻筋からもれる息は、心底うんざりした様子で。
「邪魔をしているのはあなたたちです。早々に恭順し、土地を明け渡しなさい」
理でも説くように、女王は言った。
まるで明らかな真実を、あたりまえの事実を、ただ口に出しているかのように。
まるでわるいのはこっちのほうだと、責めるように。
出ていくべきはこちらだと言わんばかりに。
己の言葉をびたとも疑ってはいなかった。
「お前は──」
言いかけて、女王がさえぎる。
「この大陸は可能性そのもの。驚くほど豊かで、発展の希望に満ちた場所。“この世の果て”に位置しながら、世界をまるごとひっくり返す潜在力を秘めている。時代の趨勢をとらえられぬ愚者に持たせるにはもったいない……あまりに非効率的だとは思いませんか」
橙に輝く瞳は、そばで焚かれた松明の火よりもまばゆくて。
「ひこうりつてき──?」
その言葉はどこか別の世界の──別の時代のどこかから聞こえてくる気がした。
少なくとも僕の頭の中に、そんな考え方はどこにもなかった。
人が生きていくのに、こうりつてきだとか、そうじゃないとか。
いったい、この女は何を言っているんだ?
「お前のわけの分からない考えのために、“東”のみんなが苦しむんだ」
どうにか僕は自分を抑えるけれど。
堪えきれない怒りが、声を震わせた。
「無駄を排除し、効率の最大化を推し進めなければ、この先の世界を生き残っていくことはできません。あるいは、そうなれなかった者たちから脱落していくでしょう。いずれ滅ぶか、いまここで私に滅ぼされるか、その違いにすぎません」
そして、にぃっと、女王は。
悪魔のような──“奸婦”は笑った。
「ならばここで彼らを根こそぎにし、新たな民を植え直しましょう。大陸の王として、私はその罪のすべてを引き受けます。そして消えゆく者たちを弔い、今を生きる者たちを先頭に立って率いていきます」
びきり、とこめかみが鳴った。
「……なんなんだ」
怒りで血管が膨らんで、ぶしゅりと頭から血が吹き出した。
「お前はなんなんだ!」
女王の言っていることが僕にはわからない。
ほんとうに、僕と同じ言葉を話しているのだろうか。
「私はアイリーン。アイリーン=ミレーシア・レスターン」
その声は秋の空みたいに晴れ晴れと。
その瞳はゆらぐことなく澄みわたって。
「この大陸を統べる女王。長く停滞したこの地を導き、天秤を傾け時代を先に進める使命を負う者」
そして、と女王は前に進み出て。
眼の前に広がる血の海に、細い足で踏み入る。
僕が殺した兵士たち。
その体から流れ出した血の上に、女王は柱を突き立てるように足をおろした。
「すべての罪を負い、それでも決して立ち止まらぬ者。いずれ時の裁きを受け地獄へ堕ちようとも、決して歩みを止めなかった者」
そのまぶしさに、僕は半分まぶたを閉じる。
“闇”の──“わるいもの”であるはずの女王が。
まるで夜明けに昇る太陽みたいに見えた。
……。
頭が痛い。
奸婦の、悪しき女王の声が。
僕の頭にこだまする。
理解できない。
彼女の言葉の意味するところが、僕には分からない。
それは僕のまったく知らない何かだった。
こいつは。
この女は。
いったい何を見ているんだ?
「自らの“悪”すら見定められぬ未熟者が──」
顎に手をかけ、女王は地を見つめている。
僕が殺した兵士たちが流す血に、自分の顔を映して。
「──いえ、むしろ“悪”を引き受けぬからこその“英雄”なのでしょうか」
血の池の中でぶつぶつと、なにかを考えている。
もう僕のことなんて目に入っていないみたいに。
自分を守るために命を散らした兵士たちを見ても。
彼らの流した血の只中にあっても、ぴくりとも動揺しない。
氷のように、岩のように。
太陽のような瞳を宿しながら、その内にあるのは冷たい塊。
びきびきと、再びこめかみが脈をうつ。
それはきっと、理解してしまったから。
どれだけ声を上げても“王”には。
この女には、自分の怒りが届きはしないんだって。
僕には決して、この女の見ているものを見ることは出来ないんだって。
「お前ぇ!」
どっと怒りを解き放ち、手にした槍を振り上げる。
“僕を見ろ”と、声を張り上げる。
けれどどうしてだろう。
高まる怒りとともに、ぞわぞわと背中を嫌なものが這い上がる。
居心地がどんどん悪くなっていって。
ひたいから汗が流れ落ちる。
とても不快で。
とても気持ちがわるい。
まるで自分が、あるべきでない場所に居合わせてしまったみたいだった。
「これ以上話すことはありません」
女王は僕に興味を失ったように、そっけなく横目で。
「疾く、失せなさい」
言い放ち、くるりと背を向け未練なく。
彼女の運命に、僕は含まれていないと確信したように。
幕の向こうに消えていく女王の背中を護り、大男が前に出る。
並の兵士よりはよほど強いだろうけれど、僕の敵じゃない。
槍を投げれば。
たった一本の投擲で。
大男ごと、憎き女王を突き刺すことができるのに。
遠い。
そのわずかな距離が、どうしてか果てなく遠い。
「……ああ」
頭が痛い。
僕の内側から、僕ではないものが溢れ出ようとしていた。
「君は、いったい」
大男が僕に声をかける。
敵ではなく、ひとりの子供を気づかうように。
知っているんだろうか。
僕はこの人を。
きしむ頭の中で、歪んだ像が形を結ぼうとしたとき。
「ファーガスさん!」
頭上で声がして。
空から降ってきた魔女に




