第150話 異界行──わるいもの
黒い影が前に踏み出した。
焚火のやわらかな光に照らされてなお、影がまとう闇はこびりついたように離れない。
「……なんだ?」
立ち上がって剣を抜く。
目を凝らすと、それはかろうじて人型に見えた。
影は前かがみにふらふらと近づいてきて。
黒い体表は絶えず揺らぎ、輪郭も境目もあいまいだった。
「カイル……」
俺をつかむ手から、イアの震えが伝わってくる。
無理もない。
俺もひと目で理解した。
目の前にいるのが、すごくわるいものだって。
相手の全身から立ちのぼる黒い妖光に、俺は地上で対した“黒の騎士”を思いだす。
そして奴が俺の内にあるものと同じ、黒い炎をまとっていたことを。
あのとき“墓王”とともに地下から現れた黒騎士は、再び遺跡から地下へと逃げていったけど。
この黒い影は、奴に近い存在なのだろうか。
「剣士さん」
老人が声を震わせて。
「あれはまずいよ、あれは」
イアが精霊だと知ったときのように、頭を垂れもしない。
そんなことをしても無駄なんだって、分かっているんだ。
「精霊はまだ限度を知ってる。人間が本気で抗えば退くだけの頭がある」
だけど、と老人は現れた闇をまっすぐ見て。
「あいつらには限りがない。払っても払っても雑草みたいに生えてくる」
まるで人にとって、それが逃れ得ない宿痾であるかのように。
老人の瞳に映るのは“畏れ”よりもむしろ。
自身が捨てたくても捨てられない、悪しきものへの“憎悪”だった。
水辺の砂利をかき分け、けれど音もなく宙を歩むように。
黒い影はじりじりと、こちらに近づいてくる。
一歩前に踏み出すたびに、影の周囲が歪む。
まるでこの世界を、自身の存在で侵していくように。
ふり返ると、おちびと呼ばれた少年は変わらず、馬女神の毛に体を埋めていた。
どんな夢を見ているのか、“わるいもの”が近づいているというのに、小さな寝息を立てて起きる気配もない。
こんなときでも堂々眠っていられる大胆さ。
差し迫った危機を前にしても、今自分がすべきことを見失わない硬い芯。
なんとも頼もしいと、むしろ感心してしまう。
そして少年のあどけない表情に、心の内側から滲んでくる愛おしさ。
理由とか理屈なんて関係なく、その気持ちはふつふつと湧き出してくる。
まるで俺の中に最初からあったみたいに。
「その子をつれて逃げてください」
俺は剣を構えて言うけれど、老人は首を振った。
「一度寝たらおちびはてこでも動かんでさ。それにいま、ここを離れちゃならんです」
少年が撤退すれば、“女王様”の軍勢がたちまちこの地を侵し、蹂躙してしまう。
いま彼らが背負っているのは、守るべきものたち。
ここにはいない、けれど大勢の、無数の命だった。
彼らには果たすべき“使命”がある。
眠りつづける少年の幼気な表情と、決して退かないと覚悟を決めた老人と。
二人の姿に、つんと胸を刺すものがあった。
俺がいまここにいること。
それもまた、課せられた使命を果たすためなんじゃないかって。
……。
近づいてくる黒い影の中心で、鈍い光が瞬いた。
それはまるで、ずっと遠くにいる何者かの“眼”であるかのように。
強く熱い圧をかけてくる。
この“眼”もどこかで。
どこかで見たような気がするけれど。
「おちびが万全ならあんなやつ、“槍”でひと突きだってのに……!」
老人が悔しげに歯噛みするのが聞こえた。
詳しく尋ねているひまはなさそうだけど、その言葉は真に迫っていて。
おそらく少年には、何らかの切り札があるのだろう。
傷が治り体力が戻ればきっと、その力を振るえるのだ。
それなら俺がやるべきは──
「その子はどれくらいで目覚めるだろう?」
少年を寝かせるウプアに尋ねると。
《あと一昼夜は必要でしょう》
ぶるるっと、馬女神はあいまいに顎を揺らした。
少年が眠りについてからおおよそ二日。
あれだけの傷がそれで塞がるのなら、大したものだ。
「わかった」
俺はうなずき、イアの肩を抱いて。
「時間を稼ぐよ」
丸一日。
文字通りの一日を戦いつづける。
どんな強者であろうと、地上ではあり得なかったことだけれど。
この異界では当たり前みたいに受け入れられる。
まるでこれまで俺が培ってきたすべてが、この地でいちどばらばらになって、新しく組み直されていくようだった。
「頼むよ、イア」
《うん!》
言い終わる前に、彼女はすでに俺の中に入っていた。
祠の島に行って、目覚めたあとぐらいからだろうか。
俺とイアとの結びつきがますます強くなっている気がする。
言葉を交わす前に気持ちが伝わっている。
まるで少しずつ、俺と彼女がひとつになろうとしているみたいに。
……。
黒い影は浅瀬の縁に達し、水面を覗きこむようにじっと立ち尽くしている。
人なのか獣なのか、あるいは全く別のなにかなのか。
わからないけれど、どす黒く恐ろしいものを宿していることは確かだった。
コフコフと、奇妙な音を立ててそれは近づいてくる。
水中で呼吸をするように、その音は黒い影の腹のあたりから聞こえてきた。
《すっごくボコボコしてる!》
イアの言う通り、おぼろな黒い影の表面には無数の凸凹があって。
まるで海の生き物の吸盤みたいだった。
眷属、なのだろうか。
“人”と呼ぶにはあまりにも、まとっている力が禍々しすぎる。
けれど俺の知る眷属たちとも、醸し出す空気は異なって。
眷属たちはたしかに恐ろしく、強大だけど。
あまりにも強く大きすぎたがゆえに人の脅威であって。
彼らもまた、彼らなりの生き方で生きているだけだった。
けれど、こいつは。
首筋に凍りつくような悪寒がはしる。
俺の中にある暗い何か”が、無理やりに掻き出されていく。
それは俺もまた持っている“わるいもの”。
人の、生き物がひとしく宿している“負”の側面。
あまりにもおぞましく、あさましいから。
ふだんは目を背けて、無いものとしている闇。
黒い影はまるで鏡のように、向かい合う者の姿を映し出す。
あるいはこの黒い影こそが、今対峙している俺自身かもしれなくて──
迷いを払うように首を振り、黒い影を直視する。
そうしなければ、たちまち闇に呑みこまれてしまいそうだった。
《カイル……》
「やるしかないさ」
不安げなイアをなだめながらも、緊張で体が震えていた。
黒の騎士に、宝剣“黄昏の陽”を折られた記憶がよみがえる。
奴のまとう黒い炎は神聖の武具ですら侵食した。
旅立つ前、新しい剣を何本か宝物庫からもらってきたけれど。
それではたして、目の前の“わるいもの”を払えるだろうか。
鍛冶台で打たれる鉄のような輝きを放つ、“赤光の閃刃”を頼みに握りしめると。
黒い人型の影が不気味な咆哮をあげ、周囲を震わせ全身から闇をほとばしらせて。
──
いぼか、それとも棘なのか。
黒い影の腕が、ぎゅんと勢いよく伸びて浅瀬を超える。
「うっ!?」
剣で受けると、影の表面に無数の“刃”が見えた。
まるで戦場で剣が折れるたびに、欠片を腕に突き刺してきたみたいに。
刃は影の肌の上でうねうねと、まるで生きているかのように蠢いていた。
そして一度ぎゅっと内側に引き締まり、次の瞬間勢いよく




