第149話 東伐──後退
と、ディニムは精霊の力を解き放つ。
遠いあの日、大陸をともに駆けた美しく気高き相棒。
二頭の“獣”が胸の内で、そして背中で咆哮し。
激しい衝動とともに“軛”が外れ。
耀光剣の封印が解かれていく。
「わあ!」
金色に輝く宝剣に、セーダ・マクスァルダが目を奪われ。
その隙に、限界に達しかけていたカスバ・ヒューイットが距離をとる。
「構わんか」
「ああ」
互いに要する言葉は最小限。
強者と接する気安さはそこにある。
光に包まれた剣を払うと、浅瀬の底にもう一つの陽が映し出される。
まるで、かつて失われた輝きを取り戻そうとするかのように。
「それが、おじさんの本気?」
少年は期待に満ちた瞳をらんらん、赤く見開く。
二人の達人と長く打ちあったにもかかわらず、疲弊した様子はない。
やはり彼は、“この世の理”を超えている。
「どうだろうな」
うそぶき、ディニムは前に出る。
“聖剣”を手にすると、脅威を前にしても頼もしい。
かつて多く所持していた宝物は、目覚めたとき散逸していたが。
この剣だけはどうしてか、ディニムの傍らにあった。
まるで己にもまだ、果たすべき“役割”があるかのように。
……。
「僕の“杖”とどっちが強い?」
左手に持つ長柄を掲げ、少年は無邪気に張りあう。
笑みがこぼれそうになるのを、ディニムはどうにか抑えた。
やはりまだ子供なのだろう。
人と比べて自分がどれだけ強いのか。
彼の一番の関心はそこにあるようだ。
それを“未熟”とは、あえて言わないが。
「そうだな」
自分にもかつて覚えのある感覚が、ざわりと背中を撫であげて。
「君が“槍”を持ち出さぬのなら、俺が強いかもしれんぞ」
ディニムの返答を挑発と受けとったか、あるいははったりだと思ったか。
セーダはしばしきょとんと、水の上で固まったものの。
「大丈夫!」
まるで見えない何か──寄る辺となる誰かが、彼に力を与えているかのように。
自信と確信に満ちた赤い瞳でディニムをまっすぐ射抜き、そして吼えた。
「僕は誰にも負けない──必ず、僕が勝利する!」
若さの傲慢。
己の前に障害などなにもなく。
ただひたすらに突き進むことを許された黄金時代。
少年の立っている場所が、ディニムにはただ眩しく。
その光を打ち砕くため、剣をふりあげたそのとき。
──
全身から気が抜けるような、鷹揚とした響きが暗い森を押し包んで。
一時後退の、角笛が鳴った。
□□□
丘上の陣地に引き上げ、鎧を脱いだ。
小姓とともに天幕に治癒師が入り、ディニムの傷ついた体に護符を貼り、治癒魔法をかける。
オーシャとカスバも、別の天幕で治療を受けている。
ふたりとも見事な武技で少年と打ちあったが。
体には相応の傷が刻まれていた。
《だぁ〜いじょぉ〜ぶですかぁ〜?》
少し離れて、“魔女っ子”の甘ったるい声がする。
帰還したカスバを、からかうように迎えたものの。
そばにぴったりとついているあたり、やはり団長を慕っているのだろう。
……。
セーダ・マクスァルダ。
彼ら達人をもってしても打ち崩せない相手。
この“東伐”における最初の不確定要素。
もとより完全な作戦などありえないが。
この“想定外”が果たして、全体にどれほど影響するか。
今はまだ見通せない。
……。
もし、カイルが残っていたら。
状況は変わっていただろうか。
竜炎で少年を一刀のもとに斬り伏せ。
いまごろ女王軍はウルステウの領地に進軍し、統一を為していたかもしれない。
考えようによってはカイルの行動が、女王の事業を妨げているのではと。
思いかけ、首をふる。
竜の戦士は旅立つべきときに旅立った。
それは大きな“流れ”の中の必然であり、止めることなどできなかった。
この大陸はずっとそうだった。
雪崩のような“流れ”がつねに渦を巻き、個人の思いなど容赦なくのみこんでいく。
眷属も精霊も、神でさえも。
抗うことなどできなかった。
では我らが“女王”は。
大陸に生きる人間の長は。
はたしてその流れを打ち払い、あるいは自分のものとして。
己が望む時代を切り開くことはできるだろうか。
「ほんとうに、大丈夫でしょうか」
湯に浸した布でディニムの体を拭きながら、小姓が不安げにもらす。
騎士団員の家から遣わされた見目の美しい子で、もう二年ほどそばにおいていた。
浅瀬に派遣された兵たちのことだろう。
女王による撤退の命をうけ、ディニムたちは引き上げたが。
そのさい、セーダ・マクスァルダとの間に協定を結んだ。
明朝陽が昇るまで、互いに手出しをしない。
夜間、女王軍は一切の行軍を止め、少年も浅瀬より先には足を踏み入れない。
代わりにこちらから食料や治療を、少年にも提供する。
協定に従い、物資を届けに兵たちが浅瀬に向かった。
治療師たちも同行し、求められれば治療を施すだろう。
「相手を利するだけなのでは」
背中を拭く小姓は怪訝そうだが。
「利を得るのはむしろ、我々のほうさ」
奴を浅瀬にとどめておけるならなと、ディニムはため息をつく。
誰もの予想をこえた、規格外の化け物。
ただでさえ暗い森の中で、闇討ちを畏れながら夜を過ごすのはあまりに過酷だ。
明朝までに女王の判断を仰ぐ。
再び三人で戦うか、それとも犠牲を承知で総攻撃をかけるか。
一度森から退いて迂回するのが現実的だろうが。
気位の高い女王が、はたしてそれを容認するか。
懸念は他にもある。
ディニムたちが戦っているあいだ、斥候が周囲を探っていたが。
東の兵士の姿はまったく認められなかった。
“東”の軍は、たった一人の少年に命運を託し後退したのだろうか。
あるいは、我らに計り知れぬ意図が隠れているのだろうか。
「……ん」
考えるとぐらり、めまいがして。
前に倒れる上体を、背中でなんとか支える。
想像以上に疲労がたまっていた。
“大丈夫ですか”と慮る小姓に、ディニムは決まりの悪い笑みを向けて。
「柄にもなく無理をしたよ」
これほど激しい戦いに興じたのは、この十年あったかどうか。
太陽のように眩しい若さに触れて、熱くなってしまったのだろうか。
「すこし休む。女王の使者が来たら起こしてくれ」
小姓につげ、ディニムは奥の簡易寝台に横たわった。
剣をかたわらにおき、目を閉じると。
体の内で、二頭の獣が不満げに唸った。
「すまんな、お前たち」
なだめるように胸をさすると、くぅんと、鳴き声が宙からふってくる。
かつて領地を抜け出してどこまでも、彼らとともに緑の大地を駆けめぐったことを思い出す。
己の半身にも等しい相棒。
運命が歪められなければともに騎士として、戦士として轡を並べたのだろうが。
“二人”は“二匹”となり、ディニムの猟犬として寄り添うことになった。
考えようによっては、無意味な後継争いの種がひとつ(ふたつ)減ったのかもしれないが。
精霊により人の生を奪われた二人が、いまは精霊としてディニムを支えている。
それは皮肉か祝福か。
あるいはいまだ逃れられない、呪いなのか。
……。
やがてまどろみ、夢の中で猟犬たちと草原を走り出そうとしたとき。
轟音が、天幕を激しく揺らして




