第148話 異界行──畏れ
“イアたちがいるから大丈夫!”と竜精が胸を張って請けあうと。
「その子は……あんたの娘さんかい?」
老人はイアと俺を交互に見た。
「ああ、イアは──」
“精霊ですよ”、と俺は答える。
隠す必要はないと思ったからだけど。
とたんに、老人が岩みたいに固まった。
「せい……れい……?」
その顔はみるみると青くなって。
老人はがばりとその場に伏せ、祈るように両手を握りしめた。
「ど、どうしました?」
そのまま潜ってしまいそうな勢いで、地面に頭をこすりつける姿に俺は慌てて。
けれど老人は答えずただ必死に、口の中でなにかをぶつぶつ唱えていた。
まるで目の前のイアを恐れるように、一心不乱に。
次に顔を上げたときには、彼女が消えていてほしいと願うように。
「おじいちゃん、どうしたの?」
イアも心配して老人にかけよるけれど。
ひぃっ、と老人は叫びその場に尻もちをついて。
「た、助けてくだせぇ!」
抜けた腰をひきずり、くさむらの方へと這って逃げようとする。
「ん〜?」
あまりの反応に納得いかないのか、イアは“おじいちゃーん?”と呼びながら、とてとてと老人の後を追うけれど。
返ってきたのはさらに激しい悲鳴と怯えだった。
「ゆる……ゆるして、くだせぇ!」
老人は逃げることもあきらめ、ふたたびその場に伏せて。
小さな精霊に向かって必死に嘆願する。
「あの……」
途方に暮れたイアの視線をうけ、俺はそろそろと老人に声をかけた。
「イアがなにかしましたか?」
当の彼女は、ふるふるっと首をふって無実を主張しているけれど。
「お願ぇします……どうか命だけは……!」
震える言葉には、疑いえない恐怖がにじみ出ている。
老人はイアを──精霊を。
心の底から畏れていた。
□□□
ひとまずの誤解がとけたのはそれからしばらく。
けれどほんとうの意味では、とけていなかったかもしれない。
「あはは……申し訳ねぇ……」
老人は焚火の前に戻り、獣の胃で編んだ袋から酒を喉に流しこんだ。
「ごめんね、おじいちゃん」
イアは老人から距離を置き、焚火をはさんで俺の後ろにしゅんと身を隠す。
さらに小さくなった肩に、俺はそっと腕を回した。
「いやいや、取り乱しちまったのはこっちでさ……うちのおちびを助けてくれたってのに、情けねぇ……」
また一口酒を含む。
そうやって意識をおぼろにしなければ、正気を保てないみたいに。
《落ち着きましたか》
馬女神がいなければ、老人はいまもうずくまっていたかもしれない。
彼女のおかげで、恐怖はだいぶ和らいだことだろう。
「なぜ精霊がそんなに怖いんですか?」
老人の様子をうかがいつつ、おそるおそる俺は尋ねる。
地上でも精霊が苦手な人はいるけれど。
ここまでの“恐怖”は見たことがない。
「そりゃあんたこそ、なんで平気なんで?」
老人は理解できないように首を傾げて。
申しわけなさそうに、俺とイアとの間に視線を泳がせる。
どうやら俺たちの間には、何か大きな隔たりがあるようだった。
「お前さんたちもしかして、ずっと遠くからきたのかい?」
老人の質問に、俺はためらいがちにうなずく。
遠く……たしかに俺たちは、“ずっと遠く”から来た。
王都から北西──“墓王”と戦った遺跡から、さらに西へ向かって。
荒涼とした丘に建てられた旧い石造りの“墳墓”。
運命の石に導かれるまま、俺たちはその中に入っていった。
説明しても信じてもらえないかもしれないから、適当にぼやかしておいたけど。
「そうかい……なら、まあ……うん」
老人は半分は納得したように、むしろ自分に言い聞かせるように。
ぽつぽつと、話をしてくれた。
老人の話は俺にとって、いや、むしろイアにとって驚きだったかもしれない。
この世界の人々にとって、精霊とは“畏るべきもの”だった。
精霊に出会うこと。
それは人々にとって運命の暗転──ときには死にも等しい出来事で。
「知りあいにも、精霊に連れてかれちまったり、子供を奪られたり、呪いをかけられて病気になって、そのまま死んじまったりしたやつがたくさんおってさ」
老人は体を震わせて言葉を吐き出す。
「精霊に会わないように呪いの品を作ってもらったり、もし会っちまったらとにかく頭を垂れて、ひたすらに祈って……」
ゆらぐ瞳が真実を伝えていた。
老人は精霊を、そういうものだと信じていた。
「イアは……そんなことしないよ?」
老人を安心させるように言うけれど、声には自信がない。
仕方ないだろう。
実際のところイアも、わずかな例外をのぞいて精霊のことをほとんど知らないのだ。
生まれたばかりで、親である竜からは世界のことを十分に教えられず、あいまいな使命だけを託されて。
俺と偶然出会い契約を結び、なんとかここまでやってきたものの。
”精霊”という存在について十分に学ぶ機会がなかった。
人が人について、すべてを知るわけではないように。
精霊だって、生まれたときから精霊のすべてを知っているわけじゃない。
俺だって同じだ。
冒険者をやってるなかで、人と契約を結んだ精霊たちと顔を合わせる機会はあったけど。
ほとんどは契約者の内にこもって、めったに姿を見せなかった。
イアやエリィと日々接していると勘違いしそうになるけれど。
本来精霊は、人間とはかけ離れた超常の存在なのだ。
そして互いに異なるもの同士が不意に重なり合えば。
衝突や軋轢はさけられない。
老人の話では、村や町、あるいは国が、精霊によって滅ぼされたこともあったらしい。
反対に人間が精霊の里を攻めたこともあったと。
「そんな……」
俺の常識ではとても考えられない話に、言葉がでない。
イアも衝撃を受けて押し黙っている。
でもな、と老人は俺たちを気づかうように、すこし引きつった笑顔を見せて。
「精霊だってみんながみんな怖いわけじゃない。実際、お嬢ちゃんはとってもいい子だしな」
老人に微笑みかけられると、イアは“えへへ〜”とうれしそうに体をくねくねさせる(単純なものだ)。
精霊はときに人に幸運をもたらしてくれたり、危険から救ってくれたりもするという。
悪い精霊もいれば、善い精霊もいる。
人間とおなじように。
姿を見せることこそ少ないものの、ここでの精霊は様々な意味で人に親しい存在であるようだった。
地上の王都の人々のように、精霊を一度も見たことがない、存在すら信じていないなんてことはない。
「それに──」
と老人の表情が不意に曇った。
まるで話しているうちに、しっかり留めていた記憶の蓋がふと緩んでしまったみたいに。
「どうかしましたか」
また心配になって、俺は前かがみに声をかける。
老人はじわりと額に汗をにじませて。
そして焚火の中に何かを見いだすように、静かに言葉を継いだ。
「──ほんとうに悪いのは、精霊じゃあないんだ」
そこまで冷えていただろうか。
火の前にいるのに老人は自分の体を腕で抱き、震えを抑えていた。
「“悪い”って──」
そう言いかけ、ふと気配を感じて。
俺は背後にふり返った。
夜の闇の下で、浅瀬が瞬く星を映していた。
そしてきらめく水面の上に、闇をさらに濃く染める黒い影が落ちた。
「ほんとうに恐ろしいのは、強欲な女王様でも、何万もの軍勢でもなくて、あいつらなんだ




