第144話 異界行──越境
俺が戸惑っていると。
《ここは狭間です》
ウプアが言った。
その瞳は、次々と川をわたっては姿かたちを変えていく動物たちを追っている。
《地上と地下の、生者と死者の、人と人あらざるものすべての》
彼女はそっと俺に首を傾けて。
《そして、あなたの》
曖昧なその言葉をどうしてか、俺はすんなり受けいれていた。
この闇の世界では、言葉さえもが地上とは異なる響きを持っていた。
《ここを越えれば後戻りはできません。あなたの肉体は地上と切り離され、地下の──闇のものと化します》
木の実のような瞳は、まるで俺の中身を見ているようで。
ウプア──馬女神は“世界を渡る”ことができる。
それは眷属のもつ力。
けれど他界に生者を運べる者は、非常に限られていて。
ウプアには、揺らぐ魂を観測し引きだすことができるのだ。
地下の、闇の世界に赴くこと。
それは俺が、魂だけの存在になるということ。
つまり──
「イアたちも、ほねほねになっちゃう?」
小さな精霊が不安げに俺の背をつかむと。
《どうでしょうね》
うふふ、とウプアが笑んでみせる。
きゅううと体を縮こませるイアを背に、俺は耳をすませる。
遠くで、風のような静かな音が聞こえた。
川の向こうに、果てない闇の彼方に。
俺を待つ何かがある。
“流れ”の先にあるものを知るために。
そして竜精の願いをかなえ、“安らぎの地”へと導くために。
ためらいがなかったわけじゃない。
けれど俺はうなずき、答えていた。
「行こう」
優しい魔力を放つ左手の腕輪と、ほのかに温かい胸元の石──“運命の石”を強く握って。
俺は川の向こうを見る。
手綱をとり足に力を入れる。
ウプアが顔を上げ、イアが背中にぎゅっと張りつく。
黄金の馬体が輝きを増し、ウプアが力強く闇を蹴って。
足元に動物たちを見下ろし、ひと息に川を飛び越えた。
──
────
──────
あまりにもあっけなかった。
まるで町なかの使い慣れた橋をわたるみたいに。
ウプアは向こう岸──いまは“こちら”──に柔らかく足をつける。
骨の動物たちが、物珍しいものを見るように頭を向けた。
世界の変化は感じられない。
体も骨になっていない。
脳味噌が一回転して、胃の中のものを全部吐きだすくらいの覚悟をしていたけれど。
気が抜けるほど簡単に、俺たちは“境界”を越えてしまった。
“こちら”と“あちら”とに、大した違いなんて無いみたいに。
《そうなのかもしれません》
ウプアはうなずく。
《この大陸はずっと、異なる世界が混じり合ってきました。互いを分け隔てることなく、ふとした瞬間にそれぞれを行き来してしまうほどに両者の距離は近かったのです》
昔は些細なきっかけで、人が異界に迷いこんでしまうことも珍しくなかった。
そんなとき、ウプアは彼らを乗せて地上に帰していたという。
そんな非日常が日常としてあった時代。
異なる世界が密接に結びついていたあの頃。
かつて神が、眷属が、精霊が、そして人が。
すべてが混じり合っていた。
平和で穏やかな世界なんかじゃありえない。
互いに争い傷つけあう血なまぐさい世界だったけれど。
そこは確かに、“旧きものたち”が生きられる場所だった。
……。
しばらくは何も無い空間が続いた。
闇の中にはずっと、淡い光を放つ蟲のような糸がただよっていた。
複数の線が絡みあうその形に、なにか親しいものを感じるけれど。
それが何なのかはっきりとは分からなくて。
「カイル、みて」
どれくらい経ったのか、ふとイアが前を指さした。
闇の中に、深く豊かな緑が浮かんで見えた。
そこは山奥の谷間で、細い川が真ん中に流れていた。
もしやぐるりと回って、“狭間”に戻ってきてしまったのかとふり返るけれど。
激しい剣戟の音が注意をひいた。
《行ってみましょうか》
ウプアが森に近づいていく。
誰かが舞台の幕を上げたみたいに、闇の世界に青い空が開けていく。
高く澄んだ空からは、地上と何ら変わることのない陽光が降りそそいで。
その下で鋼の交わる音が高く響いた。
「あれは……」
川の周囲に複数の人影を認める。
武器を手にした多数の戦士が、一人の男を取り囲んでいた。
□□□
戦士たちは陣形を組み、囲んだ一人に襲いかかる。
誰も腕に覚えがあるのだろう。
身をつつむ薄い鎧の下には鍛えあげた筋肉がうねり、武器を構える姿は歴戦の勇士のよう。
けれど“彼”を倒すことはできない。
彼は両方の手に握った剣を器用に使いこなし、波状に繰りだされる敵の攻撃をいなして。
反撃をさしこみ、ひとりずつ確実に仕留めていく。
ときどき無駄に一歩踏みだしたり、必要もない牽制のひと振りをくりだしたり。
どこかまだ粗削りで未完成な動き。
けれど恵まれた肉体の力が、その未熟を補って余りあった。
飛びこんできた敵をつかんで強引に首をねじり切る。
多少の被弾などものともしない。
傷つくことを恐れもせずに。
その姿はなりふり構わず主人を守ろうとする、気高い獣を思わせた。
そして背後に回った敵を刺そうと、彼が振り返ったとき。
「……子供?」
まだ若い、少年の横顔が見えた。
「あのおにいちゃん、すごいね!」
イアも少年から目を離さず、戦いを見守っていた。
眼下の光景は絶えず移り変わっていく。
少年のまわりには次々と死体が積み重なっていくけれど。
それらはいつのまにか泡のように溶けて消えてしまう。
陽が落ちて暗闇があたりを包んでも、戦いは続く。
敵は少年に休む間を与えぬように森の中から矢を放ち、背後から忍び寄っては背中を狙って。
「ずっこい!」
正々堂々のかけらもない姿に、イアがぷんぷんと怒るけれど。
なりふりかまっていられないのだろう。
端から見ていても、少年はあまりに強すぎたから。
眠られぬ夜を越え、また陽が昇る。
少年は一睡もせず“敵”を屠りつづける。
すでに何日も過ぎてしまった気がする。
この世界の時の流れに、まだ感覚が追いついていない。
気づくと少年は肩で息をしていた。
いったいどれくらいの時間を一人で戦ってきたのか。
全身傷だらけで、もともと薄い鎧もぼろぼろになって。
鋭く赤い眼光はそれでも衰えず、向かいくる敵を射殺すように。
少年の疲弊に、敵は悪夢の晴れ間を見つけたみたいに勢いづく。
武器を振りあげ、声をそろえていっせいに飛びかかる。
ウプアの腹を蹴り俺は飛びだした。
時の幕を突き破るように前進し、渓流へと降りたって。
「──!?」
少年がはっと後ろに退く。
浅瀬を渡る敵も俺に気づき、けれど動き出した手足は止まらない。
勢いのまま俺に斬りかかってくる。
──一閃。
馬の勢いを借りた一撃。
自分でも想像以上の力が出て。
同時に襲いかかってきた三人が、腰のところから真っぷたつになった。
戦士たちの足が止まる。
少年と、そして俺を交互に見て。
「大丈夫か」
俺は少年に振りかえる。
彼は何が起こったのか理解できない様子で。
けれど一瞬切れた緊張に、がくりとその場で膝を折った。
すでに限界がきていたのだろう。
「ここは俺にまかせて」
そう言って、俺はまた敵のほうに向いた。
どうしてかわからないけれど。
そうしなければならないと思って。
少年は俺が敵でないと理解したのか、体の血を拭いながら。
「……助かる