第138話 それぞれ・秋 3
自分が“聖女”だと知ったとき、どう思ったのか。
ブリギッドに尋ねたことがある。
「そっかぁ〜、って感じ」
さして大事でもなさそうに、彼女は首をかしげた。
「わりとすんなり受けいれちゃったかな」
政変で宮殿を追われ、姉妹でつましく暮らしていた頃のこと。
自分にできることがあり、必要とされていることが嬉しかったと。
「それだけじゃないよ、もちろん。立場を良くしたいのもあったし」
後ろだてのない身で、姉とともに生きていくために。
聖女にならない選択肢はなかった。
そうあらざるをえなかったもの。
選べなかった──“運命”。
けれど話しているあいだ少しも、ブリギッドは陰を見せなかった。
表情はむしろ晴れやかで、まるで花におおわれた春の野原みたいだった。
大勢の、聖女を待つ人々がいた。
彼女の癒やしと救いと、奇跡を必要とする人々がいた。
聖女だって万能じゃない。
癒せるときもあれば、祈ることしかできないときもある。
それでも人々は聖女を求め、縋って。
聖女も最後まで彼らを見捨てない。
数え切れないほどの死者を、ブリギッドは看取ったという。
癒せず助けられず、無力さに打ちひしがれて。
だけど今も、彼女は教会の祭壇に立ち続けている。
救いを求める者に祝福を施している。
課せられた運命に向き合い、求められた役割を受けいれて。
他者のために己のすべてを捧げる、清らかで高潔な聖女。
頭の中で勝手に、そんな感じの物語を想像していると。
「こういうのもありなんだなぁって」
羽毛みたいに柔らかな声がふわりと、目の前に漂った。
「私にはたまたま聖女としての力があって、そう生まれてきたんだなって……ほんと、たまたま」
重くのしかかる運命を、ひょいと横によけて。
その上を軽々と飛び越えていくように。
「もちろんさ、私を必要とする人がいて、私はそんな人たちを助けられるのが嬉しくて、それはすごくいいことなんだけど……もしね、お姉ちゃんに明日、“もう聖女辞めていいよ”って言われたら、案外、すんなり辞めちゃうと思うんだ、私」
べつに聖女が嫌なわけじゃないよ、とブリギッドは断って。
「癒やしの力がある限り人助けはしたいけど……いままでできなかったこと、やらなかったこととかやってみて、それで他にやりたいこと、やれることがあったらまたそれをやって……みたいな」
そんな腰掛け聖女って、やっぱだめかな、ってきまり悪そうに眉を下げる彼女に。
俺はうまく答えられなかった。
予想外の言葉だったのもあるし。
俺の胸にもかすかに何か、疼くものがあった。
ブリギッドにも、他にいろいろな道があったのかもしれない。
けれどたまたま、彼女は聖女で。
そうならざるをえなかったのだけど。
選べたこと、選べなかったこと。
割り切れないものを抱えながらも、彼女はいま聖女の役割を立派に果たし、そして。
他の可能性にも目を向けていた。
「それじゃ、また来るね〜」
時間が来るとブリギッドはぱっと席を立ち、教会へと戻った。
さっそうと身をひるがえし、ふわりとめくれる厚手の外套のすきまから。
ちらりとのぞくおみ足は、燭台の灯りみたいにまぶしい。
アイリーン女王はいつも言っていた。
ブリギッドは自分などよりもはるかに賢く、優れていて。
ずっと“先”までをも見通しているのだと。
……。
そして、オーシャ。
剣の師はファーガスの食客となり、屋敷に間借りしていた。
もともとは大陸各地の霊脈をめぐり、その力を浴びて回っていたらしい。
「どれだけ修行を重ねたところで、体は衰えるからな」
瞑想を重ね大地の“力”に身を浸し、肉体と精神の強度を保つのだと。
言いながらぐびり、とオーシャは酒を含む。
……いまいち説得力がないなぁ。
宮廷でも稀にしか供されない、外大陸産の高級酒。
その芳醇な香りが部屋を満たしていた。
ファーガスとはよく、酒を飲み交わしているみたいで。
そういえば村にいたころもいつも、顔を赤くしていたっけ。
久々に顔を合わせると、古井戸の蓋が開いたみたいに思い出があふれてくる。
そんなこともあったかなって、様々な場面が浮かんできて。
懐かしさにひたるように、俺はちょくちょくオーシャのもとを訪れたけど。
話しているあいだ、イアはほとんど“中”に隠れていた。
どうしてもオーシャのことが苦手みたいで。
出かけるときも不安そうに身を縮こませていた。
竜にだって苦手なものくらいはあるだろう。
イアも理由はよくわからないみたいで。
余裕があるときは、ディーネがエリィをよこしてくれた(エリィはディーネの予備魔力なのだ)。
二人で留守番、なんてこともある。
屋敷では百戦錬磨の乳母──恰幅のよい女将さん──を雇い入れ、面倒を見てもらっている。
いちおう宮廷の給仕に紹介してもらった、信頼できる人なんだけど。
精霊のお世話もお手のものらしい。
いったい何者なのだろう。
昔話に花を咲かせる一方、剣士としてのオーシャを拝む機会は少なかった。
「こんな老人に片足つっこんだのに、無理させるつもりか?」
手合わせを望むと、オーシャはいつも首を振った。
たしかに年はとっただろうし、本人が言うとおり“衰えて”いるのだとしても。
オーシャは実際にファーガスの前で、多数の賊を斬り捨てている。
最強の剣技は健在なのだ。
兵に剣を教授してほしい、とのファーガスの頼みも断っている。
“才がないとな”と、にべもない様子で。
……俺にはあったんだろうか。
それでも一度、“型”を見せてくれた。
オーシャが俺に伝授した技のすべてがつまった、流麗な剣の舞。
どっこいしょと腰を上げ、庭に出て。
無骨なほどに地味な鞘から剣を引きぬいて。
しばし目を閉じたのち、ふっと一息。
剣を構え、足を踏みだして。
──
息を呑んだ。
その美しさに。
力強さに。
地を踏みしめながら空を翔けるような、軽やかさに。
はじめて出会った頃と何ら変わりのない。
音や空気さえも切り裂く、唯一無二の剣筋。
「やっぱり、すごいよ」
俺は偽らざる敬意をこめて、おだててみるけれど。
オーシャは大きく肩を落とし、胃の中のものを全部吐き出しそうな息をついて。
“ほらな”と、言い訳するみたいに額の汗をぬぐった。
首や肩を回して凝りをほぐし、腰に手を当てる様子はたしかに老兵みたいだったけど。
どうしてだろう。
俺にはオーシャが、力を発揮するのをためらっているように映った。
まるで崩れ落ちることを恐れるように。
すぐ目の前に、暗い穴が開けているみたいに。
……。
□□□
季節が過ぎ、日中でも冷たい風が吹くようになって。
冬を迎える祭りの準備に、王都がまた忙しなくなってきたころ。
女王陛下が、俺たちを王宮の後館に集めた。
ファーガスをはじめとして、部屋に“腹心”たちが勢揃いするなか。
“東”を討伐すると、女王は俺たちに告げた。
そして同じころ。
形見の石が光り、熱を帯びはじめた。




