第133話 オーシャ
「ご苦労さまでした」
アイリーン女王は俺たちを労い、体が沈みこみそうな柔らかいソファに座らせた。
そしてオーシャと同じ、透明な盃に酒をつぐ。
俺の戸惑いを理解しているのだろう。
女王は状況を簡潔にまとめてくれた(おそらく宮廷内の誰よりも、彼女は実務能力に長けている)。
ファーガスとクローガンの別れ。
その帰還途中に起こった襲撃と、オーシャの助力。
長雨で決壊した川の水が、濁流となって押しよせてきたみたいに。
頭が混沌として整理が追いつかない。
「素晴らしい剣だった。カイルの師というのも納得がいくよ」
そんな俺をよそに、ファーガスは繰りかえしオーシャを称賛して。
話を聞くかぎり、その剣筋はまったく衰えていないようだった。
ファーガスが襲撃されたことにももちろん驚いたけど。
そこに偶然、オーシャが居合わせたことも奇跡的だった。
「多勢に無勢というのが気にいらんでな、思わず加勢したわけだが」
オーシャは分厚い透明な杯の向こうに俺を映して。
「まさか、お前につながるとはな」
あの頃と同じ、不遜な自信に満ちた声が懐かしい。
胸が詰まって瞳がじわり熱くなってくるけど。
やはり歳月だろうか。
オーシャの眼光は、傾いた陽のように鈍い。
俺の記憶に残るぎらぎらと眩しい、硬い結晶のような瞳は色褪せていた。
オーシャと再び会えて、本当に嬉しい。
けれどいまは再会の喜びよりも、むしろ奇妙な感じがあって。
まるでこうなることがあらかじめ決まっていたみたいに、据わりが悪い。
嬉しくて、まだ現実感が伴っていないのかもしれない。
きっとそうなのだろう──きっと。
……。
ファーガスを襲った一味は、オーシャにほとんど切り捨てられてしまった。
生き残ったひとりが捕虜となり、尋問を受けていた。
まだ多くは聞き出せていないようだけど。
「必ず吐かせます」
ファーガスを殺そうとした卑劣な輩の正体を。
女王の瞳がぎらつき、内奥に一瞬炎が揺らいだ。
反乱軍の指導者たちの多くが過酷な拷問を受けたのち、無残に首を晒されたように。
捕虜がどのような扱いを受けているか、想像しただけで寒気がする。
俺だってもちろん怒りを覚えているけれど。
女王の中に滾るものは、その比でなかった。
俺が感じているのはむしろ戸惑いと、ある種の予感。
帰還そうそう、こんなことになったからだろうか。
イアやディーネ、ファーガスと出会ったときのように。
あるいは騎士団長が、俺たちを王都に呼んだときのように。
これがまた新たな“流れ”となって。
俺たちをどこかに導くんじゃないかって。
……。
「道中いろいろと話を聞いたが、なるほど」
オーシャが感心したように腕を組んで。
「女王陛下はなかなかの、剛の者らしい」
「まあ、女性にむかってそのような……」
アイリーン女王は口元を指で隠し、くすくすと笑う。
俺たちの前ではあまり見せない、実にしおらしい様子で。
ファーガスの命の恩人だからだろうか。
彼女の態度は終始柔らかく、オーシャに好意的だった。
俺の師でもあるし、臣下に迎えるつもりかもしれない。
俺だって、オーシャが一緒にいてくれたら心強い。
村を出て冒険者になってから、敵わないと思った人が何人かいるけど。
記憶の中のオーシャはそれでも、俺にとって最強の剣士だった。
またあの剣技が見たい。
そしてどれだけ師に近づけたか、今の俺を見てほしい。
状況がようやく体のうちに染みわたってきて。
期待と興奮で胸が高鳴りはじめたとき。
きゅっと、腕に絡みつく力を感じた。
見るとイアが、緊張とも不安ともつかない硬い表情を浮かべ、俺に体をぴったりくっつけていた。
「その子たちは──」
オーシャはイアとディーネに視線をやり、精一杯親しげに微笑んでみせる。
「はじめまして」
ディーネがまっすぐ向き合って、挨拶をした。
まるで上流の階級の淑女みたいに、その仕草は洗練されていて。
隣に座りながら、見とれてしまう。
いつの間にこんな作法を身につけたのだろう。
俺なんかいまだに、お偉いさんを前にぼりぼり頭を掻いて、“あ、どうも”とか言ってしまうのに。
すでに話は聞いているのだろう。
オーシャは「なるほど、君か」なんて、ふんふんとうなずいて。
「キレイな子だな」
含みのこもった視線を俺に向けた。
「な、なに……」
「いいや?」
妙な圧を感じるけど、オーシャはとぼけるように首をふった。
……ファーガスは何を話したんだろう?
「それで、その子が」
オーシャは続けて、イアに目線を落とした。
当然、竜精であることは知っていると思うけど。
「……」
イアは俺にしがみついたまま、顔を半ば隠してしまう。
「イア……?」
声をかけると、小さな精霊はちらっとオーシャを見上げ、こくりとうなずいて。
不安げに体を揺らし、また俺にひっつく。
「すまんすまん、こんなオッサンが急にな」
そりゃ怖いよな、とオーシャは眉を下げ、伸びた頬髭を指でこすった。
恩師に失礼じゃないかって、俺はイアを叱ろうとするけど。
「……ん」
居心地悪そうに瞳を揺らす彼女に、何も言えなくなってしまった。
□□□
「旅の疲れもあるでしょう。今日はゆっくり休んでください」
俺たちを気づかいながらも、女王は真剣な表情で。
「今後の動きを、早めに固めておきたいと思っています」
静かな橙の瞳には、“敵”への怒りももちろんあったけど。
彼女はきわめて冷静に状況を見ていた。
襲撃の首謀者が判明すれば、女王は制裁に動くだろう。
粛清か、場合によっては戦争か。
いずれにせよ穏やかには済まされない。
そしてこの状況をバネに、時代を先に進めるつもりなのだ。
もしかしたら事の真相だって、すでに把握しているのかもしれない……なんて。
彼女なら十分にありえることだった。
……。
「そうだ」
部屋を後にする前、俺は振り返って。
厩舎にいる天馬への面会の許可を貰おうとした。
「実は──」
けれどウプアは今、留守にしていると聞かされた。
帰還したファーガスを迎えた後、ディニムが彼女を駆り、出ていったのだと。
「用を済ませたら、すぐに戻るとのことでしたので」
騎士団長には女王も全幅の信頼をよせている。
詳細は聞かず、自由にさせたという。
「そうですか……」
ウプアにはいくつか尋ねたいことがあった。
故郷の村で、婆さんが遺してくれたいくつかの形見。
眷属たる彼女なら、なにか分かるんじゃないかって。
出かけているなら仕方がない。
旅の疲れも確かにたまっていた。
「またじっくり、話そうじゃないか」
オーシャもそう言ってくれて。
剣の師に、俺の憧れの人にまた会うことができた。
せっかく溢れてきた思い出をこぼさないように胸を詰まらせ、その日俺は屋敷に戻った。
ウプアは深夜に訪れた。
窓を締めきっていたのに音もなく、幽霊のように。
彼女は俺の枕元に現れた。
《もしもし》
彼女の体毛のように柔らかな声で目を開けると。
寝室に巨大な馬影がそびえ、木の実のような瞳がくりりと暗闇に瞬いた。
しゃわりと揺れる尻尾が黄金の輝きを放って。
その光の隙間に、夏のころに見慣れた幽精たちが揺らいでいた。




