第129話 うたかた
女王への報告を終え、手持ち無沙汰にひとり回廊をさまよっていると。
《お仕事は終わりですか、騎士団長どの》
ひひんと、“馬”の声が頭に響いた。
《よろしかったらご一緒に、食事でもいかがですか》
文字通り馬の鼻息のように跳ねる声音。
不快ではないが、なぜ俺に向けられるのだろう。
それに馬のとなりで、何を食えというのか。
一緒に草でも食めと?
《それとも何かご予定が》
部下の不始末をうけても漏らしはしない、ため息をひとつ。
あきらめて厩舎のほうに足をむける。
“声”のむこうで天馬が、尻尾をひゅひゅんと振っていた。
「団長さんも虜になっちまいましたか」
厩舎の入口で馬番が声をかける。
北の地から連れてこられた黄金の馬は、宮廷でも注目を集めていたが。
無理もない。
引き締まった四肢と、せせらぎのように繊細で美しい毛並み。
優雅な雰囲気と気品にあふれる表情に誰もが心を奪われ。
彼女を一目見ようと押しかけた。
あまりの混乱に専用の厩舎が造られ、馬は女王の所有物であるとのお達しが下ったが。
請願は収まらず、限られた時間での面会が許されていた。
うるさくはあるが、騒ぎすぎとも思わない。
彼女は“馬女神”。
“馬”という人類の友の、理想に描く姿そのもの。
神を前にした人が、穏やかでいられようか。
……。
《まぁ》
厩舎に入ると、ウプアは藁の上で体を起こした。
左右に振られる尻尾の先からしゃわしゃわと、黄金の粒子がきらめいて。
馬の分際で──とは彼女に当てはまらないのだろうが。
特別の厩舎は広く天井も高く、なかなかに快適な住居だった。
長くしなやかな脚をあげ、ウプアは俺に近寄って。
高い位置から鼻を伸ばし、すんすんと頭をかいだ。
《どぞどぞ》
まるで屋敷で働く小間使のように。
《来ていただけて嬉しいです》
俺を促し、その場に足を折った。
「俺なんぞを呼んで嬉しいか」
隣にどっせと腰を下ろし、馬の背にもたれる。
じゃわりと包みこむ馬毛の向こうに、神の鼓動が聞こえた。
《もちろんです》
彼女はふすんと息を吐いて。
《素敵な殿方に惹かれるのは、人も馬も変わりません》
あるいは神であろうとも。
声もなく笑い、俺は黄金の馬にしばし身を預ける。
その体は柔らかく頼もしい。
まるで、この豊饒の大地そのもののように。
……。
はむはむ、とウプアは飼料を咀嚼する。
桶に頭をつっこんで、あふれんばかりの豆だか草だかをかきこんで。
ときおり顔をあげると、鼻をむふむふと膨らませ満足げな顔を俺に向ける。
あきれながらも、その姿には魅力があった。
神は──眷属は食事をとらない。
普通の食事を彼らは必要としない。
自らを生み出したこの大地から直接力を得て、自らに捧げられる信仰と幻想とを糧とする。
かつて蛇の王が行った人食いは、あくまで一時のものだ。
《ふむふむ》
それにしてもまあ、なんとも美味そうに食うものだ。
神性はいささかも失われていないのに、いわく言い難い愛嬌がある。
……。
あいつらもそうだった。
他の何ものにも代えがたい美しさと、誇りに満ちた凛々しい表情と。
そして──
《……おや》
ウプアが喇叭のような耳をピンと立てる。
気づくと、俺の手は馬の背に伸びていた。
彼女の背を撫でると、黄金の毛並みが郷愁に誘う。
まるで豊かに実った穂麦のように、大地に注ぐ神の息吹のように。
《お気に召されましたか?》
馬女神は樹の実のようにくりりとした瞳で俺を見て。
「悪くない」
答えると、さも嬉しげに長い尾をひゅんひゅんと振り、金の粒子を散らした。
ウプアはまた食事に戻り、沈黙が厩舎を満たした。
黙って馬の背を撫でる男と、ひたすら豆を食う馬と。
我に返れば何をしているのかと、真顔になってしまいそうで。
考えることを止め、しばし居心地のよい時間に浸る。
……。
あの頃、いつもお前たちがいた。
まだ祝福が近く神の声が聴こえ、大地の鼓動が足裏に感じられたあの頃。
またがる馬はもちろん素晴らしかったが。
隣をかけるお前たちは、もっと素晴らしかった。
ともに狩りに明け暮れ、冒険を求めて遠征し。
ときに異形を討ち、財宝の山に埋もれ。
数々の栄誉と名声を手にした輝かしい時代。
眩しすぎて、歩む道すら無邪気に見失っていた時代。
──
《未練がありますか》
心臓の裏側を、冷たい風が吹き抜けていくような。
「なぜそう思う」
馬の背に手をやったまま俺は答える。
《あなたたちを見ていましたから》
桶から顔を起こし、ウプアは鼻をすんと鳴らした。
《たとえ、全てではなくとも》
汚れようもない黒い瞳に俺の姿を映して。
馥郁と香るたおやかさに、やはり彼女は“神”なのだろう。
「神を前に、隠し事などできまいか」
時代をこえて信仰される馬女神。
見られていないほうがおかしい。
ですです、とウプアはうなずいて。
《あなたがた“騎士団”の活躍は、私たちにも聞こえ名高いものでした》
ならば知っているのだろう。
旧き時代、大陸に名を轟かせた俺たちの。
はかない栄光と。
その、惨めな最期を。
□□□
今日も今日とて、王都には平和なときが流れている。
早朝伝書鳥が届き、明日にはカイルたちも戻るようだ。
英雄不在の王都は、しかし喧騒をいささか静めはしない。
日の出とともに大陸各地からの、あるいは外洋からの使節を受け入れて。
新政権誕生以降激増した、有象無象のうさんくさい商人を一人ひとり審査する。
北方からは、頑強に抵抗していた領主が和解の使者を送ってきた。
こちらとしても脅威とみなさず、まったく放置していたのだが。
降伏とは決して認めず、ずいぶんと尊大な態度だったものの。
面倒くさいのでそのまま臣従を受け入れた。
運も味方したとはいえ、短期間で女王はこの安定をつくりあげた。
政権だけでなく、“時代”をまるごと入れ替えようという大胆な改革。
並の統治者であればこうはいかなかった。
彼女を見ていると、かつての主を思い出す。
まるで陽光を背負うかのように。
未来への展望を疑わず、大陸を力強く導いていくその姿。
もちろん全てが順調とはいかない。
大きな抵抗こそ止んでいたが、地方にはいまだ曖昧な態度をとる大小の領主がいて。
“東”では、先王母エヴィレアを失ったウルステアが、不気味に沈黙していた。
女王自身も決して盤石ではない。
着々と王家に資産を集中しているものの。
大元のミレーシアが後ろ盾として頼りない現状、女王は支援する諸侯に多くを依っていた。
諸侯の忠誠の核をなすのは、英雄王の記憶と前政権下での冷遇。
だがこれからは、政権内での影響力を増そうと画策してくるだろう。
身内とて、気を緩めるわけにはいかない。
俺は知っているから。
この身をもって味わった。
日々は頼りなくうたかたで。
夢はあっけなく、一瞬で醒めてしまうことを。
……。
「ファーガス様がお帰りなされたようで」
気づくと馬番が遠慮がちに、厩舎を覗きこんでいた。




