第122話 天馬
頭蓋を砕くか首の骨を折るつもりだろうか。
黒騎士の手甲が俺の頭を強く押さえつける。
「がぁぁっ!」
強大な膂力を前に、体内に流れる竜の力を呼び起こす。
血液が沸騰しそうなぐらいに熱くなり、全身から竜炎が噴きあがった。
炎の熱をまともに食らった馬が悲鳴をあげ、激しく暴れる。
延焼を避けるように黒騎士は俺から手を離して。
「──う!?」
強烈な拳の一撃を、側面から見舞った。
《カイル!?》
こめかみを打たれ半分意識が飛んだ。
イアの声も遠く、馬をつかむ腕から力が抜けて。
そのまま俺は、空へと落ちていった。
体にかかる圧力と、ごうごうと鳴る風の音で、なんとか意識を保っていた。
こめかみから流れる血が、淡い夜の空に線をひく。
「これは……」
頭をかたむけ自分の位置を確かめる。
地表が遠く、遺跡が豆粒に見える。
ずいぶん高くまで上がってしまったようだ。
《落ちちゃうよ!》
頭に残る衝撃のせいか、イアの叫びがどうにも現実感をもたない。
このまま落ちれば確実に死ぬなと、まるで他人ごとみたいに思った。
ディーネが真下にいれば、風魔法で援護してくれるかもしれないけど。
ここからじゃどこにいるかも分からない。
そして──
「そうくるよな……」
忌々しく頭上に目を向ける。
体勢を立て直した黒騎士が突っ込んでくる。
炎で焼かれた恨みを晴らそうと、馬もずいぶんとやる気だ。
どうする?
いま俺が持っているのは、護身の短剣と牽制に使う火薬くらい。
短剣が竜の力に耐えられるとは思えないし、火薬の威力もたかが知れている。
とてもじゃないけど奴らには対抗できない。
「くそ……」
もちろん選択肢なんてない。
震える手でどうにか短剣を抜き、腰に巻いた袋から火薬を握る。
黒騎士は長柄を構えぐんぐん迫ってくる。
刃の先には地獄のような黒炎が燃え盛る。
俺の中にも眠る、全てを焼き尽くす炎。
目の前にするとこれほどまでに恐ろしいなんて。
《カイル……》
「やるしかないさ」
不安げなイアをなだめるように言って。
目の前に迫る黒騎士を前に、ぐっと奥歯を噛みしめて。
火薬を起こそうとしたその時。
ぎゅうんと、横殴る風が急激に向きを変えて。
がくんと、体と視界が反転した。
□□□
頬にあたる風が穏やかで気持ちいい。
黒騎士の馬にしがみついていたときとは大違いに。
「なに……?」
わけがわからずに、きょろきょろと左右を見わたすと。
《間に合いましたね》
そよ風みたいに心地よい声が耳にすっと入ってきて。
さらさらと柔らかな毛が俺の腕を包んだ。
《初めまして、でしょうか、竜の戦士》
その“獣”の背に俺は乗っていた。
豊かに実った穂麦みたいに美しい、黄金の体。
静かに上下に揺れる感覚は、まるで揺りかごのようで。
「“馬”……?」
手に触れた黄金色の毛を前後に梳く。
せせらぎのように優しい感触が、指の間をしゃらしゃらと抜けていった。
《カイル、このおうまさん……》
戸惑うイアに応えて、馬がくんと顎をあげる。
《眷属の一、天馬と申します》
そう言ってウプアはひひんと笑った。
……たぶん、笑っているのだと思う。
眷属がどうして俺を助けてくれたのだろう。
“間に合った”とは、どういうことなのだろう。
《来ますよ》
尋ねる余裕もなく、馬がちらと首をかたむけて。
背後から黒騎士が迫っていた。
《しっかりつかまってくださいね》
彼女に言われるまま、俺は黄金の獣毛をぎゅっと握り、足で胴をぐっと挟む。
ぎゅいんと、ウプアは速度をさらにあげて。
一陣の風となり黒騎士を引き離した。
《しゅご〜い!》
その勢いにイアがきゃっきゃっとはしゃぐ。
俺も自分が風そのものになったように気持ちよくて、いろんな疑問が吹きとんで流れに身を任せてしまう。
薄闇の空に金毛がきらきらと輝く。
まるで夜明けに差す目覚めの光みたいに。
俺たちを乗せたまま天馬は自在に空をかける。
美しく引き締まった四肢が、流れるように前後に動く。
その力強さはきっと、人が馬に焦がれ託してきた思いそのものだった。
《小さな竜精……まだ力は残っていますか?》
《イアは元気だよ!》
無限の力を生み出す自負をこめて、イアはふんすと鼻息を荒くする。
《ならば竜の戦士、もうひと踏ん張りしましょうか》
ウプアは言うけれど、俺の手元にあるのは小さな短剣の一振り。
こんな頼りない刃で竜の力を発揮できるだろうか。
《大丈夫》
けれどウプアはまた、ひひんと鼻を鳴らして。
体毛と同じ黄金の光が、短剣を包んでいく。
「これは……」
術式強化。
それも、人の魔法では届き得ないほどに強い。
《竜炎にも、一度くらいは耐えるでしょう》
これで黒騎士を迎え撃てと、ウプアは長い尻尾をふぉんふぉんと振って俺を促して。
《スクゥアが認めたあなたなら、やれます》
励ますように彼女は言った。
「スクゥア……?」
頭に一瞬、彼女の姿が流れる。
ウプアをここに送りこんだのは、スクゥアなのだろうか。
「……力を貸してくれるのか?」
《ですです》
大きな鼻をさらにふくらませて、黄金の馬はいなないた。
彼女の体からきらめく粒子がこぼれて、秋風のように爽やかに肌を包む。
どうしてか、疲弊した肉体にもう一度力がみなぎってきた。
「──イア!」
天馬の加護を受けた、黄金に輝く短剣を握りしめる。
《うん!》
相棒が応えて、短い刀身に竜炎を猛らせる。
黄昏の陽と違い、由緒もなにもないけれど。
短剣には今この瞬間、宝剣にも劣らない輝きが放たれていた。
《竜の力、見せてください》
ぐいんと急旋回して、俺たちは黒騎士と向き合う。
黒馬が全身から黒い炎をあげ、轡からもれる吐息までもがどす黒い。
黒騎士は長柄を大きく振り上げ、一撃で決めるつもりなのだろう。
兜からのぞく瞳は炯々と、人ならざる闇に瞬いている。
「いくぞ!」
応えて天馬がいななき、黄金の毛並みを風が包む。
体に竜の力が満ち満ちる。
黒騎士の刃にまとう、全てを焼き尽くす黒炎。
それは、俺が乗り越えなければならない呪い。
──
憤怒に近い衝動。
竜炎が勢いよく噴きあがる。
最強の力をまとう頼りない刀身が、今にも崩れそうに震えている。
一撃。
確実に決める。
互いに風を切って、距離を縮めて。
一瞬先には衝突する。
機。
相手の長柄と、俺の短剣。
わずかでもずれたら死ぬ。
だけどどうしてだろう。
恐れはまったくない。
黒い刃が横に薙いで。
空を焼く黒炎に、俺は竜炎を叩きつけた。
□□□
薄闇の向こうに、燦々輝く太陽が映った。
「奴は──!?」
振り返ると、傾いた馬とともに黒騎士が下降していた。
まるで雷に打たれた鳥みたいに、濃煙をあげて真っ逆さまに落ちていく。
甲冑の隙間──首から血が吹き出して。
……いや、あれは黒い炎。
やつの体内に炎が充満しているのだ。
「ウプア!」
たてがみを引いて天馬を促し、落ちていく黒騎士を追う。
黒騎士の落下とともに、黒炎のあげる煙が視界を塞ぐ。
強風で煙が流れると、ようやく下の状況が見えて。
「ディーネ!」
はっと息を呑んだ。
呆然と空を見上げる彼女へと、黒騎士がまっすぐ突っこもうとしていた。




