第115話 墓王
それは覆いかぶさる影のように、俺を見下ろしていた。
暗い“夜”のさらに濃い闇の中へと、体が沈んでいくような感覚。
気を抜けば一瞬で、相手に呑まれてしまう。
暗幕にくるまれていた塊から、ずずずっとその巨体が起き上がる。
まるでカニが殻から這い出すように。
墓に眠る死者が、地上に目覚めるように。
暗幕の下には無数の骸が重なり合っていた。
ひび割れ薄汚れた骨がみしみしと、呻くような音をたてて。
虫のように幾本もの脚が生え、上半身を支えている。
高く伸びた上体と、ずんぐりと丸まった下肢。
人型で、ひたすらに勇壮な銀碗王には似ても似つかず。
爬虫類の造形のまま巨大化した、蛇の王ともまた異なって。
まるで貨車。
背に荷を負い、遠くへと乗せていく運び手。
“墓王”──異界の門番、冥府の使徒。
この体に死者たちを乗せて、あの世へと導くのだろうか。
……。
《カイル!》
イアが警戒を促す。
墓王の上体に、骨が集まっていた。
打ち砕かれ地面に散った骨片が、何の魔力を受けたのかふわり宙に浮きあがって。
体に張りつき、巨大な芋みたいな腕を形づくる。
そして胴体から黒い幕がしゅるしゅると伸び、腕を覆っていく。
長い上半身と二本の太い腕、それを支える籠のような胴体。
頭──おそらく頭と思われる上体の先端には、薄黒いヴェールが被さっている。
細かな織り目や襞がひらひらと揺れる様子は、まるで葬儀の参列者のようで。
豊かに実った麦のように、ぐいと前に垂れていた。
ヴェールの下からは絶えず、吐息のようなかすかな声が聞こえてくる。
それは冥府から届く、死者たちの呻きだろうか。
声に誘われ、どこかに連れて行かれそうだった。
全身に針を突き立てられたみたいに肌が痺れて、呼吸が弱くなる。
ただそこにいるだけで、相手は人から生命を奪っていく。
それが自身の役割であるかのように。
気圧されてはいけない。
手甲の中は汗まみれで、それでも宝剣をつよく握りしめるけれど。
ここ、と墓王の体が鳴る。
長い骨の腕が、まるで自分の首を絞めるように上半身に巻きついて。
そのまま体内へと飲みこまれていく。
ぶるると、馬がいなないた。
騎士団で厳しい訓練をつみ、重装をまとってなお、生きものとしての本能が恐れている。
手綱を引いても馬は弱々しく体を揺らし、後ろに下がってしまう。
どうにかなだめようとして、結局諦め俺は馬を降りた。
一目散に逃げていく馬を見送ると、じゅぶりと地面がぬかるむような音がして。
墓王の体から、おそろしく大きな刃が引き出された。
「……“鎌”?」
おびただしい数の骨片でできた、長い柄。
その先には円形の刃が鈍く光っていた。
円刃の中には、十字に似た紋様が複雑に編みこまれている。
呼吸ひとつほどの間をおいて、それが墓標であることに俺は気づいた。
故郷の村や森の中の祠。
様々な場所にそのしるしは点在していて。
それが何なのかも分からず俺は、奴のそばで生きてきたのだ。
鎌の円刃は、何人もの人をすっぽり閉じこめられそうなほどに大きい。
それは罪人にかける首枷にも似て。
墓王はこの鎌で、死を拒否する者たちを狩り、冥界へと連行するのだろう。
「う……」
寒気、怖気、冷や汗。
墓王の周囲にただよう冷たい靄が、体から力を奪う。
ごうん、と重い風が吹きかかって。
墓王の円形鎌が、頭上高くに振りあげられた。
ヴェールの下から、死神の"声”が響く。
いつかお前も必ず死ぬのだ、と。
あたりまえの事実を、俺につきつける。
けれど頭に浮かんだのは、まったく別のこと。
いや、同じなのかもしれない。
──“夢”。
子供のころから、不意に俺に襲いかかる悪夢。
周囲を圧し包む炎と。
地面に倒れた俺と。
そして俺に剣をつきたてる、もう一人。
《カイル!》
イアが胸の中で激しく叫び、竜の力を送ってくれるけれど。
──死。
「いや……」
体が動かない。
死神の裁定を受けいれるように、剣を脇におろして。
──お前は、もう。
心臓に突き刺さった剣は、命をえぐり取る。
「俺は──」
──もっと、ずっと前に死んで──
──
爆発とともに、墓王のヴェールから火が上がる。
つづいて無数の火炎弾が、黒体へと降りそそいだ。
はっと、空を見上げて。
「大丈夫!?」
見慣れたとんがり帽子と魔法杖。
ディーネが宙空から、魔法を撃ち放っていた。
□□□
連続で撃ちこまれる火球の勢いに、墓王の上体が大きく揺らぐ。
黒い幕をさらに黒く焦がす、魔法の炎。
すごい。
その威力、美しさに目を奪われる。
墓王は長い体を捻って炎をかわし、円鎌を振って回して火球を凌ぐ。
そうしなければならないと、理解しているのだろう。
「ディーネ……」
俺の知る、最高の魔法使い。
はじめて会ったとき、彼女は虚勢をはって、無理に自分を大きく見せようとして。
自分に自信が持てなくて、認めてもらいたくて、一人になるのが怖くて。
「“第八階”──」
嬉々として低階の魔法を撃つ彼女を、子どもを見守るように見ていた自分が、心底恥ずかしい。
どれほど巨大な原石を前にしていたか、まるで気づかなかったのだから。
「──《爆炎槌》!」
杖の先から巨大な岩塊が現れて。
荒々しく炎を猛らせ、墓王に襲いかかる。
黒い妖光の障壁が容易に打ち砕かれ、墓王は鎌で魔法の炎槌を受けた。
「ああ……」
ほんの少し前までのこと。
ディーネの魔法は、呪術祭司をして“か細い”と揶揄されていたのに。
いまや眷属にとってすら、その術は無視し得ない。
「うう……!」
墓王の鎌に阻まれ、彼女の苦悶が聞こえる。
杖の柄がみしみしと鳴って、くすんだ魔法石が焼けるように赤みを増している。
それでも揺るがない。
決して退かない。
歯を食いしばって、杖を握って。
彼女もまた生まれ変わった。
いいや──正しく、立派に成長したんだ。
──
黄昏の陽に炎をまとわせ、剣を振る。
刀身をはるかに超えて、竜炎は骨の腕を切り裂いて。
円鎌がだらりと下がり、その隙間から炎の槌が、墓王の体へと叩きこまれた。
□□□
「カイル!」
ディーネがふわりと、隣に降り立った。
「大丈夫?」
柔らかな髪を風になびかせ、息を切らせて俺を見つめて。
彼女を目にするだけで、すっと不安が静まっていく。
「お姉ちゃんエリィちゃん、ないす〜!」
イアがひょっこり出てきて、エリィと──いぇい──ぱちんと手を合わせた。
「私も一緒に戦う」
杖をぎゅっとにぎり、ディーネはまっすぐ俺に訴える。
「……いいでしょう?」
美しい赤い瞳の輝きは、今の彼女の力の証。
もうディーネは、俺のうしろで戦いを見守るだけの人じゃない。
「ありがとう」
彼女がそばにいてくれる。
それがどれだけ頼もしいことか。
ディーネと隣り合い、剣を構える。
目の前で渦巻く煙から妖光が差し、激しい風が炎を吹きはらった。




