第110話 竜の見る夢
一日かけてに西に進み、遺跡に近い駐屯地に到着した。
狭い砦のため、周辺の村にも宿泊場所を用意してもらう。
戦のあとで、村人たちは警戒していたけれど。
領主が事前に通告し、村長ができるかぎりの対応をしてくれた。
「以前よりも治安がずいぶんよくなりました」
村長はそう感謝をのべた。
女王は軍紀にも厳しく、とくに領民に対する狼藉には容赦なく罰を下した。
暴力をふるったり、血を流そうものならば死罪に処すと布告して。
兵たちは村の中で行儀よく、村の外でも粛々と宿営の準備をしていた。
「まさか、本当に──」
村長は声を震わせて床にひざまずき、両手をあわせる。
その前にはねむけ眼の竜精が、荷箱にちょこんと腰かけて。
「むにゃむにゃ……」
御神体はたよりなく目をこすり、村人たちの祈りを受けとめていた。
“どうか領民たちに、竜の姿を見せてあげてください”。
アイリーン女王にはそう頼まれていた。
もちろん、竜への信仰を利用しようという肚なのだろうけど。
ここにはまだ、旧い幻想が生きている。
瞳をじんと濡らす村人たちの姿に、ほっと胸が温まる気がした。
早朝の出発を控え兵たちが寝静まったころ。
俺は真夜中に目を覚まし、寝つけないまま部屋の外をうろうろしていた。
イアは藁の寝台に身を投げると、瞬時に眠りに入ってしまった。
頼もしいと言うか、鼻提灯を膨らませて起きる気配もない。
……。
竜は、どんな夢を見るのだろう。
深い深い地の底で、いまも“楽園”を思い描いているのだろうか。
嵐の大戦をへて、地上では生きられないほどに消耗して。
自らが生み出した、小さな精霊に願いを託して。
──“ビビッてくるんだよ”。
イアは言っていた。
楽園が近づくと、彼女にはそれが分かるのだと。
……。
考えたくはない。
けれどどうしても、頭から離れない。
俺は楽園に近づくどころか、どんどん遠ざかっているんじゃないかって。
動けば動くほど、調べれば調べるほど、知れば知るほどに。
その姿は遠く、離れていくようで。
そして、アイリーン女王。
大陸の新たな導き手。
人々に豊穣の恵みをもたらさんとする、祝福の担い手。
旧弊はつぎつぎとうち破られ、過去へと追いやられていく。
彼女の創る新時代はきっと、旧き神々にとっての楽園とは相容れないもので──
「浮かぬ顔だのぉ」
ねっとりと粘り気を帯びた声が、頭上から注がれた。
「悩みごとかなぁ、竜の戦士よぉ」
北国の曇った夜空に、さらに濃い闇が落ちて。
バサリという羽ばたきとともに、黒い羽がはらはらと辺りに舞う。
「お前は……」
顔を上げると、胡乱な笑みに見返されて。
宙に浮かぶ“黒精”が、俺を見下ろしていた。
□□□
「眠れぬなら、少しつきあえ」
黒精は欄干に腰をおろすと、翼をしゅるりと折りたたむ。
漆黒のドレスと同色の黒羽が、俺の足元にはらりと落ちた。
身構えるけれど、彼女から殺気は感じられない。
むしろあまりに無防備で、やろうと思えばこの場で一刀両断できそうだった。
体もイアよりひと回り大きい程度。
細い手を腰の横に、ドレスから伸びる足をふらふらと揺らしている姿は、儚くさえあった。
……。
もちろん驚いた。
彼女が眷属であることは当然。
村で戦った“黒獣”だけでなく、エヴィレアに協力して二体の眷属、そして巨牛までをも召喚したこと。
エヴィレアがどこかから力を得ていたとは、当然考えていたけど。
“始まり”からずっと、すべてがつながっていた。
「そこまでやって、敗れてしもうたがなぁ」
くくっ、と黒精──モリグナは自嘲するように笑うけれど。
目元は倦み、小さな肩からは力が抜けていた。
戦う意思のない相手に気を張る理由もなくて。
俺は彼女の隣に背を凭れた。
「女王を狙わないのか」
建物の壁に向かって言う。
空から薄く注ぐ半月の光が、向かいに差していた。
「理由が無いからのぉ」
宿主が消滅してしまったからなぁ、とモリグナは俺に流し目を送る。
血のように赤い瞳には、怒りも恨みも宿ってはいない。
「じゃが、お主のおかげで気分はいいぞよ」
むしろ鼻歌を奏でるように、軽やかにでさえあった。
「なにせ神に愛されたあの小娘に、一矢報いてやれたのじゃからなぁ」
復讐と破壊、その罪をすべて自身で引きうけ、あとを妹に託して消えていく。
ほとんど完璧なされた、アイリーン女王の計画。
その最後の一手を、俺とイアがご破産にした。
どうして竜となったのか、理由はわからない。
けれど、起こったことは起こったこと。
俺は女王の喚びだした巨人を退けた……らしい。
「あの小娘のことじゃ。顔には出さずとも内心、悔しくてたまらぬじゃろうなぁ」
「……」
烏はけらけらと喉の奥で笑うけど、素直にはうなずけない。
モリグナ、あるいはエヴィレアからすれば、たしかに“一矢報いた”のかもしれない。
でも結局、何も変わりはしなかったんじゃないか。
アイリーン女王は優れた手腕で、着々と理想の体制をつくりあげている。
政敵を討ち滅ぼし、領民の支持を集め、家臣を懐柔し改革を進めて……。
王位を継いだのが妹のブリギッドであっても、同じだっただろう。
姉は妹に、思い描いた施策を詳細に伝えていたようだから。
“聖女”たるブリギッドなら、持ち前の明るさでそれを実行できたのかもしれない。
あるいはもっと、犠牲の少ないかたちで。
……。
俺はただ、そうなるはずのところをかき回しただけなんじゃないか。
余計な手出しをして、むしろ状況を面倒にしただけなんじゃないか。
そんな考えが、どうしても頭から離れない。
──“運命には抗えない”。
スクゥアの言葉を覚えている。
それはただ、受け入れるべきものであって──
「じゃが、お主は立ち向かった」
ぽんと、頭に手を置くような優しい声でモリグナは言った。
「あの娘の瀑布のごとき激流に抗い、そして少なからぬ爪痕を残した。実に、見事であった」
そして空を見あげ、瞬く星を掴むように手を伸ばして。
「それはとても、とても大きな“意味”を持つ」
烏につられて空を見る。
季節のせいか、“北”という場所のせいか、星はとてもくっきりとして美しい。
まるで自分が空に近づいたみたいに。
いいや、空のほうが俺に近づいてきたみたいに。
「たしかに“流れ”は止まらなかったじゃろう。だがお主が刻んだ痕跡は必ず、“この先”に影響を及ぼす。ゆっくりと長い時間をかけ、浪が岩壁を削り浜に砂を運ぶように」
それとも、とモリグナは口の端をにぃっと歪ませて。
「毒がじわじわと、生命を蝕んでいくように、かのぉ?」
モリグナの“声”には、快でも不快でもない不可解な感触があった。
まるで空から降りてくる予言のように。
彼女がそれを俺に届ける、“巫女”であるかのように。