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弟の婚約破棄を阻止して、俺は愛する婚約者と幸せになってみせる!

作者: ナベ セイショウ

2025/03/14

題名を変え、改稿をしました。内容としては変更はありません。


読んでいただければ、嬉しいです。

よろしくお願いします。

 天井に規則正しく並んだ豪華なシャンデリアが、贅沢な装飾が眩しいホールを照らしている。

 舞踏会さながらに飾り付けられたホールには、多彩なドレスを身にまとった生徒達がいろどりを添えている。もう、眩しすぎて目をやられるほどだ。


 だが、ここは夜会会場ではない。

 アルトワ国の貴族と裕福な平民が通う学校だ。

 学園内のホールとは思えないこの場所では、ギレロイ学園の卒業パーティーの真っ最中だ。

 


 ホールの端で同級生達が踊る様子をぼんやりと眺めているのは、リュドヴィック・アルトワだ。

 まるで光り輝いているような見事な彼の金髪は、寝癖でピョンピョン跳ねている。

 白み始めた夜明けの空みたいに澄んだ藍色の瞳は、眠たそうに半分閉じている。

 百九十センチ近くあるはずの長身は、猫背で丸まった背中の印象しかない。

 美しい刺繍の施された仕立ての良い燕尾服は、ボタンを掛け違えたわけでもないのに着崩れた様相。

 それでも彼が、このアルトワ国の第一王子であることに間違いはない。


 第一王子であれば、今頃は令嬢達に囲まれて休む暇もなくダンスを踊っているはずだ。だが、リュドヴィックは、ホールの隅に一人でぼんやりと突っ立っている。

 そんな場所に静かに突っ立っていても、人々はリュドヴィックの存在に気づいている。第一王子だというのにくたびれ切ったリュドヴィックは、残念ながらかえって目立つ。

 目立つにも関わらず、誰もリュドヴィックにダンスを申し込まない理由は簡単だ。リュドヴィックが踊れないと思われているからだ。



「お待たせしました、リュド様」

 オレンジ色の髪に緑色の瞳を持った、小柄な女性が両手に飲み物を持って現れた。

 それを見ていた周りの生徒達が「女性に飲み物を持って来させているよ」「仕方がないわ、『まどろみ王子』ですもの」と、顔を顰めながら聞こえよがしにヒソヒソと噂をするのも毎度のことだ。


 藍色に金糸の刺繍を贅沢に施したプリンセスラインのドレスを着たコハリィが、リュドヴィックにグラスを差し出す。

 目が半分しか開いていないリュドヴィックは、グラスを上手く受け取れず自分のコートに飲み物がかかってしまった。

 コハリィは慣れたものでサッとハンカチを取り出すと、リュドヴィックの汚れたコートを拭いてあげている。


 その様子を見ていた周囲から、ため息が漏れる……。

「グラスもまともに取れないとは……」

「いつも半開きの目で、眠そうにぼんやりとウトウトしているから!」

「動きも緩慢でイラつくほど鈍い! そりゃ『まどろみ王子』と呼ばれるよ」

「コハリィ様も気の毒だわ、第一王子の婚約者とは名ばかりよね」

「婚約者と言うより、あれじゃ『まどろみ王子』の世話係だな」

 クスクスと嘲笑う声が聞こえるのも、毎度のことだ。


 コハリィはコート拭きながらリュドヴィックを上目遣い睨むと、周囲には聞こえない小声で文句を言う。

「リュド様、ちょっとやり過ぎじゃないでしょうか?」

 リュドヴィックは周りにその顔を見せない為にうつむいた。半開きの瞼を開いて、澄んだ藍色の瞳をコハリィだけに見せる。その顔は悪戯っ子そのものだ。

「そう? いつも通りじゃない?」

「やり過ぎです! リュド様が馬鹿にされてしまいます」

「いつものことだよ。俺にとって重要なのは、王太子にならないことだ。周りにどう思われても構わないよ。それに本当の俺を知っているのは、ココだけでいい」

 リュドヴィックは最後の言葉を、わざとコハリィの耳元で囁いた。

 耳まで真っ赤に染めたコハリィは、恥ずかしさと嬉しさで目を潤ませながらリュドヴィックに訴える。

「わたくしだって、リュド様の本当のお姿を他の方には知られたくないです。ですが、それとリュド様が馬鹿にされるのが許せない気持ちは別物なのです!」

「そうかなぁ」

「そうなのですっ!」


 こんな風にまどろみ王子と婚約者が甘い口喧嘩でじゃれ合っているとは、当然誰も思わない。

 国のお荷物となった第一王子とその婚約者には、誰も興味を寄せないのだ。

 卒業パーティにはリュドヴィックとコハリィを含んだ卒業生が全員集まっているが、同級生なのにも関わらず二人を気にしている者は誰もいない。

 二人はいつも通り誰にも気にされることなく、二人の穏やかな時間を楽しむつもりだった。

 卒業パーティーに遅れて来た二人による、嵐に巻き込まれるまでは……。




 ホールの入口付近から、騒めきが聞こえてきた。

 にこやかに談笑していた生徒達が、入口へ目をやると皆顔を顰めている。

 ホールの中央でダンスを踊っていた生徒達も、騒ぎに気付いた。入り口に目をやると、みんなステップがピタリと止まる。

 リュドヴィックとコハリィも、さすがに何かあったのだと察して入口へ目を向けた。


 入口は十段程の階段を降りると、ホールに降り立つ造りになっている。今日は特別で階段には、王家の象徴でもあるアイリスが色鮮やかに飾られていた。

 パーティーがここまで華やかなのは、卒業生の中に二人の王子がいるからだ。


 リュドヴィックと同じ年の異母弟である第二王子のフェリクスが、階段の中ほどで立ち止まっている。エスコートしている二コラ・クロネッカー男爵令嬢と仲良く微笑み合って……。

 二人には幸せな時間かもしれないが、周りから見れば地獄の始まりでしかない。

 もったいぶってゆっくりと階段を降りてきた二人に、回れ右をして帰ってくれと祈る者は多い。

 

 さっきまでリュドヴィックを馬鹿にしていた生徒達が、今度は第二王子への不満をこぼし始める。

 自分達の為でもある卒業パーティーに、不穏な空気を持ち込んだ二人に苛立ちを抑えられないのだ。


「ちょっと、あれ……」

「うそでしょう……本気? こわっ! 帰りたい……」

「帰るのは、あいつらだろう」

「学園でも目に余るくらいベタベタしてたから、いつかやるとは思っていたが、今日かよ……」

「私達の卒業パーティでもあるのに、あんまりだわ」

「揉め事にならなければいいけど……」

「それは昇った太陽を沈むなと願うのと同じくらい無理な願いだろうな」


 不満も口から出てしまえば満足するのか、生徒達は今度は第二王子たちを嘲笑い始めた。

「自信満々に歩いているけど、ニコラのドレスは地味じゃない?」

 ニコラは光沢のあるベージュの生地に、茶色の糸で刺繍されたドレスを着ている。華やいだ色が多いパーティ会場では、地味と言われても仕方のない組み合わせだ。

「仕方がないわよ。第二王子殿下が地味だもの。茶色い髪に、薄茶色の目、ついでに身長も平均じゃねぇ。ドレスも立ち姿も派手になる要素がないわ」

 フェリクスの髪と目の色は、この国で一番多い茶色だ。どこにでもいる平均的な容姿の王子様というわけだ。ちなみに、フェリクスは成績も平均的だ。


「地味な上に第二王子で王太子になれるんだから、ついているわよね『平凡王子』なのに」

 何を取っても平均的なフェリクスに付けられた渾名は、『平凡王子』だった。

 『まどろみ王子』に『平凡王子』とは、アルトワ国の王家が貴族や国民に馬鹿にされているのか? 親しみを感じられているのか? おそらく前者だろう。


「第一王子が『まどろみ王子』だからなぁ、見た目は良くても中身が空っぽだ。まだ平凡でも能力がある第二王子の方がましだろう」

「だが第二王子も似たようなものだ。優秀とは言い難い」

「そうね、少なくとも自分を知る力があれば、あんなみっともない格好はできないわよね?」


 生徒が呆れて指をさすフェリクスの燕尾服は、ローズピンクで水色の糸で刺繍が施されている。

 残念ながらフェリクス本人が色も作りも地味な顔立ちである分、服装が目立ってしまう。加えてエスコート相手であるニコラのドレスが地味なため、フェリクスの服装の派手さが際立ってしまうのだ。

 いや、派手では片付かない。もはや、マジックショーでも始まりそうだ……。


「ニコラ嬢がピンクの髪に水色の瞳だからな。お互いがお互いの色に染まり合っているのを、見せつけたかったんだろうけど……」

 仲間がピンクの燕尾服に釘付けの中、令嬢の一人が目を見開いて声を荒げる。

「ちょっと、エドメ様が近づいて行くわよ!」

 怖いもの見たさ丸出しの令嬢が指さした先には、深紅のドレスを着た令嬢が背筋を伸ばしてゆっくりと歩いている。


 彼女が向かう目的地が誰の下なのかは、その場にいる全員が理解している。

 彼女の進む方向にいる者が一斉に道を開けるので、飴色の床は目的地まで続くレッドカーペットさながらだ。

 ダンスを踊っていた生徒達も、いつの間にかホールの中心を明け渡すためにその場をそっと離れていた。

 そのおかげでホールの中心は、まるでコロシアムと化した。


 円形闘技場を思わせる丸い空間に、ついに相対する三人。

 三人を円状に取り囲む観客は、熱い視線を送りつつ闘いが始まるのを今か今かと待っている。



 一方、コロシアムの観客席からは離れた場所には、三人に冷たい視線を送るリュドヴィックとコハリィがいた。

 こんな目立つ場所で問題を起こそうとしている三人に、リュドヴィックは苛立ちと不安を感じた。

「何をするつもりだ?」と棘のある声で呟くと、隣のコハリィも不安そうにうなずく。


(長い時間をかけて、やっと計画が大詰まできたんだ。もうこれ以上俺の人生を乱さないでくれ!)


 リュドヴィックは祈る思いで、三人を睨みつけた。



 ニコラの腰に手を回して親密さを強調したフェリクスが、相対するエドメを嘲笑う。

「ここはダンスを踊る場所だろう? 勉強好きのお前は、遂に一人で踊る技を身に付けたのか?」

 エドメも負けずに冷笑を返す。

「フェリクス様は王族の任務を放棄なさりましたね。王子の開会宣言もない、令嬢達が王子と踊れない、こんな卒業パーティーは初めてではないですか?」


 人前で堂々と王子である自分を非難するエドメに、フェリクスは苛立ちを隠すことなくぶつける。

「お前は本当に口の減らない女だな。お前には、うんざりだ。俺の視界に入るな!」

 フェリクスが声を荒げても、エドメは微笑を崩さない。

 紫色の大きな瞳は動じることなくフェリクスを捉え続け、深紅のドレスを身にまとった背筋はピンと伸びている。少し小首を傾げると、わざと残したシルバーブロンドの後れ毛がサラサラと揺れる。それは計算され尽くした美しさだった。


「まぁ、わたくしはフェリクス様の婚約者ですのに、視界に入ってはいけないとは随分な難題ですわね?」

 常にフェリクスを馬鹿にしているエドメなのに、急に被害者振っている。そのせいでフェリクスは、目を吊り上げて逆上した。

「今更俺の婚約者を名乗るとは、笑える。お前が俺を婚約者として敬ったことは一度もないだろう! 俺の事は、自分が王太子妃になる為の道具にしか見えないのだからな!」


 フェリクスの叩きつけた一撃は周知の事実だが、そのことを知られていないと思い込んでいるエドメは余裕を失った。

 計画では弱々しさをアピールするはずだったのに、つい本音がこぼれ出てしまう。


「フェリクス様は、わたくしが尊敬するような要素をお持ちでした? 成績は平均的、剣術は平均以下、執務も帝王学も中途半端で逃げ出す始末。全てにおいて、わたくしに劣ります。どこを敬えばいいのか教えていただきたいですわ」

「…………」


 事実は怖い……。

 本当のことだけあって、フェリクスも反撃ができない。

 何も言えずに怒りで身体を震わすフェリクスに、気をよくしたエドメが追い打ちをかける。


「ご存じでしたか? 婚約者がいるにも関わらず、他の女性と親密になることを世間では『浮気』と言うのですよ?」

 怒りで顔を真っ赤に染め上げたフェリクスは、激昂のあまり抑えのきかない右手をエドメに向けて振り下ろした。

 パシンという音と共にエドメが派手に床に倒れる。まるで流血したかの如く、深紅のドレスの裾が床に広がる。



「エドメ様、今してやったりという笑顔を見せましたよね?」小声でそう言ったコハリィが、リュドヴィックを見上げた。

「あぁ、間違いない。フェリクスは癇癪持ちだからな。エドメは手を上げさせるように仕向けたんだ」

 リュドヴィックは、大きな手で顔半分を覆った。

「非力なフェリクスの平手打ちくらい、子供だって避けられる。わざわざ受けて倒れるとは、わざとらしいにもほどがある」

 リュドヴィックはため息をついた。

 男性がそれも王子が、守るべき対象である女性に手を上げた。世間の話題をさらい、フェリクスの評判を地に落とすには十分過ぎる。


「フェリクスの浮気と暴力と出来の悪さを世間にアピールして、そんなフェリクスを支えるエドメに同情を集める作戦だろうな」

「フェリクス様は無能ですが、稀代の悪女と呼ばれるエドメ様ほど評判は悪くないですからね……」

「卒業して立太子する前にフェリクスの評価を貶めて、自分の有利に事を進めたいんだろう」

「そんなことをしたら、王家の威信を貶めることになりませんか?」

「それも狙いなんだろうな」と、リュドヴィックはため息を漏らす。


「国民や貴族からの王家に対する支持が失われたら、王家の力が弱まり発言力も衰えます。王太子妃になるのであれば、困りませんか?」

「王家の威信が地に落ちた隙に、エドメの実家であるモンフォール家が力を手に入れる。そしてそのまま、議会を掌握するつもりなんだろうな」

 コハリィは瞬きを繰り返す。

「その考えは浅はかすぎませんか?」

「考えの足りないフェリクスを操って、女王同然の権力を握るつもりなんだろうな。野心家というか、馬鹿だからな……」

 コハリィは難しい顔で「そんなに簡単にいくものでしょうか?」と首を傾げた。

「愚か者は、後先を考えない。簡単にいくと思って行動に出てしまうんだ。俺達に迷惑をかけないのであれば、何をしようとも気にならないけど……」

 リュドヴィックはため息をついた。

 二人の行動は、リュドヴィックとコハリィに必ず害を及ぼすからだ……。



 いかにエドメの性格が悪く、嫌われていだとしても女性であることに間違いない。叩かれた被害者として同情を得るには十分だ。

 それを証明するように、三人を見守る生徒達はフェリクスに非難の視線を向けている。しかし怒りが収まらないフェリクスは、周りの空気には全く気が付いていない……。


「たった今より、お前など婚約者でも何でもない。お前の非道の数々はニコから聞き及んでいる。教科書や制服を破くだけではなく、階段から突き落としたり、雇った破落戸に襲わせるとは、もはや犯罪だ。お前みたいな犯罪者は王太子妃には相応しくない。よって、お前との婚約は破棄する!」

 フェリクスは唾をまき散らしながら、大声で宣言した。



 真っ青な顔をしたコハリィは、今にも倒れてしまいそうだ。その隣に立つリュドヴィックは、怒りで顔を真っ赤に燃やしていた。


「……リュ、リュド様、婚約破棄しましたよ。フェリクス様ったら、王命を勝手に覆しましたよ。これではリュド様が王太子に……」

 フェリクスとエドメの婚約は王命だ。いくら息子と言えど国王陛下の命令を勝手に取り消すことはできない。そんなことをすれば、国王を侮ったことになる。


 不安で目に涙を溜めているコハリィの青白い頬に、リュドヴィックがそっと触れる。

「そうはさせないから、安心しろ。あの狡猾なエドメが簡単に王太子妃の座を手放す訳がない。フェリクスに大失態を犯させて、あの馬鹿の牙を抜き自分の思う通り操るための下準備のはずだ」

 リュドヴィックは自信満々に答えた。



 エドメはとっても痛そうに左頬を押さえてフラフラと立ち上がると、フェリクスではなくニコラに視線を向ける。

 思いがけず視線を向けられたニコラは、小さな体をフェリクスの後ろに隠した。

 小柄で庇護欲を掻き立てる小動物のように可愛らしいニコラと、フェリクスより大柄な気の強い美女の対比。力関係は一目瞭然だ。


「ニコラさん、わたくしは貴方を取って食べたりしないから、質問に答えていただきたいの」

 普段のエドメからは考えられない優しい口調に、周囲がどよめく。そのせいか、ニコラもおずおずとフェリクスの後ろからぴょこんと顔を出した。


「先程フェリクス様が仰っていた、わたくしが貴方に対して行った悪事だけど、わたくしは全く身に覚えがないの。貴方の口から事実を聞かせて欲しいわ」

「ふざけるな! ニコが嘘をついていると言うのか? そもそも身分を振りかざし相手を虐げるしか脳のないお前に、男爵家のニコが刃向かえるはずがなかろう! お前はどこまでも汚い女だな!」

 フェリクスがニコラを背中に隠し、エドメに吠えた。


 普段のエドメは侯爵令嬢と第二王子の婚約者という身分を盾に、傍若無人の限りを尽くしている。生徒達もフェリクスの意見に納得だ。


「そう言われましても……本当にわたくしには身に覚えがないのです。わたくしが聞くのを許せないのであれば、殿下がニコラさんに確認してください」

「もう既に俺がニコより話を聞いた。お前と違って慎み深いニコをこのような人前に晒して、再度話をさせる必要はない!」

 断言するフェリクスにエドメが食い下がる。


「わたくしは、このような人前で犯罪者呼ばわりされております。フェリクス様は公平な方ですから、わたくしに弁明の機会を与えて下さいますね?」

 ここで突っぱねれば周囲の自分に対する評価が下がることは、フェリクスにも分かる。仕方なしにニコラを自分の脇に立たせ、エドメの視線から守りながら優しい口調で声をかける。


「私はニコを疑ったりしていない。さっきニコが言っていた通りに、本当のことを話してくれ」

 ニコラは水色の大きな瞳に涙を浮かべて、フェリクスを上目遣いに見る。

「本当の、こと……、ですか?」

 小首を傾げたニコラに見上げられたフェリクスは、抱きしめたい気持ちを堪えた。

「ああ、真実を教えてくれ。ニコが言ったことを、誰も咎めたりしない。それは王子である、この俺が保証する」


 ニコラは口元に手を置き、うつむきがちに何かを迷っている様子だ。暫く悩んでいたが、急にパッと顔を上げた。ニコラの目には、心を決めた力が込められていた。

 ニコラはなぜかフェリクスから一歩距離を取ると、真っ直ぐにエドメの目を見て相対する。


 周りを囲む生徒達はざわついた。今までのニコラとは、明らかに様子が違うからだ。

 昨日までのニコラは、エドメや他の令嬢達に苦言や小言を言われれば、目を潤ませてフェリクスや彼の側近の後ろに逃げ込んで出てこなかった。

 それが真正面から勝負をしようというのだから、野次馬達の気持ちも昂る。


「……私自身の未熟さについて、エドメ様から指摘を受けたことはあります。ですが、いじめられた事実はありません!」


 ホールが気の抜けた静寂に包まれた。

 エドメに立ち向かうニコラを応援する気持ちで見守っていたフェリクスは目も鼻も口も開きっぱなしで息をするのも忘れて驚いている。


 周囲の生徒達も、驚きで顔を見合わせ、開いた口が塞がらない。

 それもそのはずだ。エドメと言えば、いじめっ子の代名詞と言っても過言ではない。ニコラに限らず多くの令嬢をいじめている現場を、学園の生徒なら誰もが毎日目にしている。

 自分より成績が良かったり、教師に褒められたり、自分より高価な物を身に付けていたり、美しい者に対して容赦ない攻撃をするのがエドメの日常だ。

 令嬢達はみんなエドメの前に出ないように、気を付ける毎日を送らないといけない。


 ようやくフェリクスが飛んだ意識を取り戻し、「……先程と言っていることが違うが、あの女を恐れる必要はないのだぞ?」と擦れる声を絞り出した。

 ニコラはフェリクスの言葉を頭を振って否定し、「フェリクス様が何度も何度も何度も何度も何度も『エドメの仕業だろ』と恐ろしい顔で迫って来るので、ついうなずいてしまったのですぅ」と泣き出してしまった。


 ニコラの様子を見て唖然と立ち尽くすフェリクスに対し、エドメはニコラに「使いなさい」とハンカチを渡すと笑顔を向けた。

 ハンカチを受け取ったニコラは「ありがとうございますぅ。嘘をついて、申し訳ありませんでしたぁ」と涙を拭った。



「なっ、とんだ茶番だろ?」とリュドヴィックは苦り切った顔で、そう吐き捨てた。

「泥沼ですね」と言ったコハリィも、思い切り顔を顰めている。

「これでフェリクスは、うっとおしい婚約者を殴るだけでは飽き足らず、犯罪者に仕立て上げようとした王子となったわけだ。これから慈悲深いエドメがフェリクスを許し、婚約者としてずっと支えていくという茶番の第二幕が上がるのだろうな」

「第二幕も長そうですね。わたくしは既に消化不良です」と言ってなコハリィは、晴れない顔をリュドヴィックに向ける。

「こんなにも見え透いたことでさえ、恥ずかしげもなくできるのだからな。権力を欲する者とは、本当に浅ましい」


 自分の辛い過去を思い出して遠い目をしたリュドヴィックは、遣り切れない思いを露わにした。

 コハリィはリュドヴィックの手をギュッと握り、「それも今日でお別れですよ」と穏やかな微笑みを向けた。

 リュドヴィックは愛おしそうにコハリィを見つめると「ココの言う通りだ。餞別代りに我慢するか」と言って、コハリィの小さく温かい手を握り返した。




 エドメは慈悲深い仮面を貼り付けて、フェリクスに尋ねる。

「さて、フェリクス様。わたくしが王太子妃に相応しくない理由が、冤罪だと証明されましたが、いかがいたしましょうか?」 

 フェリクスは怒りで震えながら、真っ白になるまで下唇を噛んだ。


 エドメとニコラに騙されたのは明らかだが、それを証明する証拠がない。証拠がないのに騒げば、フェリクスの評価がこれ以上ないほど下がる。ますますエドメ達の思う壷だ。

 貴族とは自分の利益のために、相手を貶めることに何の罪悪感も湧かない連中の集まりだ。

 もとより真実など当人以外は誰も望んでいない、偽りでも何でもいかにそれらしく見せるかが重要だ。フェリクスだってそうやって生きてきたのだ。


 フェリクスは焦った。

 このままでは、貴族からも国民からも「能力がなくエドメに頼り切ったダメ王子」「自分を支える婚約者を裏切った浮気者」「無実の者に冤罪を被せる王子」と後ろ指をさされる。

 そうなれば、フェリクスの影響力など無いに等しい。この先ずっと、エドメの言いなりだ。


 エドメは初めて出会った時から、見た目も能力も身長も自分より劣るフェリクスを見下していた。そうやってフェリクスに劣等感を与え続けることで、自分が主導権を握ろうとしてきたのだ。


 フェリクスは初対面で婚約を破棄したかった。が、それは叶わなかった。

 当時王太子になると思われていたのは、第一王子であるリュドヴィックだったからだ。

 リュドヴィックの婚約者であるコハリィは、ポワティエ公爵家令嬢で父親は宰相だ。

 モンフォール侯爵家令嬢であるエドメより家格も国への貢献度も高い。


 フェリクスが王太子になることは叶わないと思われた。

 しかし、フェリクスの母の実家であるタシュ侯爵家と、その親戚関係にあるモンフォール侯爵家の両家は、権力への執着が異常に強かった。

 タシュ家はフェリクスを王太子に、モンフォール家はエドメを王太子妃にと強く望んでいた。

 同じ目的を持つ両家が、リュドヴィックを追い落としフェリクスを王太子にする為に協力し合うのは自然な流れだった……。


 そんな協力関係を築いていた両家も、四年前のリュドヴィックの失脚によって流れが変わった。

 念願の王太子と王太子妃が回ってきたことで、どちらが優位に立つか主導権争いが勃発したのだ。

 下らない争いの中、二つの家は次第に顔を背け合う仲になっていった。

 ここ最近は王太子になるフェリクスを擁するタシュ家が優勢に見えていたが、モンフォール家は息を潜めてずっと起死回生を狙っていた。


 エドメは勝ち誇った顔をフェリクスに向ける。

 その顔を見た瞬間に、フェリクスの中に僅かに残っていた理性が弾け飛んだ。

 茶色の平凡な瞳が、暗く濁っていく……。


「犯罪者ではない、と言うのか?」

「フェリクス様が愛するニコラ様が、たった今証明してくれたではありませんか?」


 完全に自分の筋書き通りに物語は進んでいるのに、フェリクスは悪足搔きを続ける。その愚かさが、エドメには可笑しくて仕方がない。エドメは紫の瞳を細め、明らかな嘲笑をフェリクスに向けた。

 理性が消え去ったフェリクスは、濁った目で傲慢なエドメを捕えると口の両端を吊り上げた。ニタァと笑うその様子は、狂気の一言だ。

 フェリクスの狂気に当てられ、さすがのエドメも気後れしている。後ろ暗い所があるニコラに至っては、あまりの恐怖で床にへたり込んでしまった。



 フェリクスの狂気の表情を見たことがあるのは、リュドヴィックだけだ。初めてではない分、過去の記憶と共に、言いようのない不快感と不安が足元からせり上がってくる。

 リュドヴィックは無意識のうちに、左の二の腕の辺りに痛みを感じて押さえる。


 フェリクスは五年前にも、優秀なリュドヴィックへの劣等感と不満を爆発させて理性が飛んだ。その時にフェリクスによって切りつけられた傷跡が、そこには残っている。

 あの顔をしたフェリクスは、自分の渇きを満たすことしか考えられない……。


「……嫌な予感しかしない」


 フェリクスからはいつもの凡庸さが消え、捕食者そのものの凶暴性が剥き出しになった。

 さすがにコハリィも、フェリクスを恐ろしいと思った。が、それ以上に不安で揺れているリュドヴィックの藍色の瞳が気になる。

 コハリィが「リュド様」と声をかけようとしたその時、フェリクスが動いた。



 フェリクスは狂気の表情のまま一歩エドメに近づく。エドメは本能的に下がろうとするが、恐怖で足が動かない。


「四年前のことも、忘れたか?」


 フェリクスの言葉に、目を見開いたエドメの顔色がみるみる失われていく。

 エドメの身体は固まったまま震えだし、「……、あ……、い……」と言葉にならない声を発する。

 フェリクスの平凡な薄茶色の瞳が、蟻地獄のようにエドメを絡め取る。



「あの馬鹿、それを言ったらお前だってお終いだ!」


(今日さえ乗り切れれば、俺は自由の身になれる。ココとの誓いを守れる。夢が現実となるのに。あの馬鹿共に邪魔をされてなるものか! 婚約破棄など、俺が絶対にさせない)


 リュドヴィックは険しい顔でグラスを床に投げつけると、三人の元へ走り出した。

 コハリィはあっという間に小さくなっていくリュドヴィックの背中を見つめた。

 二人の穏やかな生活とささやかな未来に、暗雲が立ち込めていく。



 派手にグラスが割れる音がしたと思うと、常にナマケモノの生態しか見せていなかった『まどろみ王子』が、物凄い形相とスピードで突進してくるではないか。一体何が起きたのだと驚いた生徒達は、左右に分かれて道を作る。


 全身に怒りをまとったリュドヴィックは、フェリクスの前に立った。他の者には聞こえないように、怒りを抑えた低い声をフェリクスの耳に流し込む。

「それを言ったらエドメだけでなく、お前も同様に裁かれるのだぞ」

 フェリクスは子供のように純粋に驚いた表情でリュドヴィックを見上げ、「……どうして、それを? ……兄上は、まとも?」とまるで幼児後退したのでは思えるほど幼い口調で呟いた。


 突然のリュドヴィックの変化を受け入れられないフェリクスは、放心状態でブツブツと何かを呟いている。リュドヴィックはフェリクスを「害無し」と判断して、放っておくことに決めた。

 フェリクス同様に呆然と立ち尽くすエドメも無視して、何が起きたのか分からずポカンと口を開いているニコラの前にリュドヴィックは立った。


 間抜け面を晒すニコラにリュドヴィックは、「立て」と低く威圧的な声で命令した。

 リュドヴィックの声は決して大きくはないが脳にひびいた。ニコラだけではなく周りにいる生徒達も思わず背筋を伸ばしてしまう。


 慌てて立ち上がったニコラは、足をガクガク震えさせながら背筋を伸ばしてリュドヴィックに向かう。恐怖で顔を背けたいが、それを許さない雰囲気がリュドヴィックにはある。

 他の生徒達もニコラと同じ気持ちで、震えている者も多数いる。ホールにいる全員が、身体中から恐ろしいほどの冷気を放つリュドヴィックを恐れた。しかし、目を離すことができない。


 藍色の目は光の届かない海の底のように暗く、背筋が伸びた大きな身体は他を威圧的に圧倒する。

 そこに『まどろみ王子』はいない。美しくも冷たく全てを拒絶する、絶対的な存在感を放つ第一王子が立っていた。

 リュドヴィックはニコラに「お前は不敬罪を知っているか?」と問うた。

 圧倒され、言葉が出ないニコラは必死に首を縦に振る。

 再度リュドヴィックに「本当か?」と問われ、ニコラはもげるくらい首を振った。

 リュドヴィックは汚いものを見た時と同じ表情で、「ならば自分を含めた一族郎党全てが、死罪だと認識しているのだな」と吐き捨てた。


 ニコラは水色の瞳が転げ落ちるかと心配になるほど目を見開き、今度はねじ切れる程に首を横に振る。水色の瞳に溜まった涙が、首を振る度に飛び散った。

「未来の王太子を謀ったのだぞ。国に害を成す行為だ。分からずにやったとは、言わせん!」

 怒鳴るわけではない、しかし偽りを見逃さない真摯な声は逆らうことを許さない。


 ニコラは床に崩れ落ち、「申し訳ございません。申し訳ございません。申し訳ございません」と謝り続ける。

 リュドヴィックは顔色を変えず、「罪を認めたのだな」と感情のこもらない声で言った。

 ニコラはブルブル震えながら涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、エドメを指差し叫ぶ。


「エドメ様に指示されたのです! エドメ様にされた嫌がらせを無かったことにし、フェリクス様に誘導されて仕方なく嘘をついたことにすれば、側妃になるより一生贅沢ができるお金を渡すと言われたのです!」

 言い訳を始めようとするエドメに、リュドヴィックは暗く冷たい目を向ける。それだけでエドメは息ができなくなり、唇を震わせ肩を落とした。


 リュドヴィックがつまらなそうに生徒達を見回すと、生徒達は一様にサッと目を伏せる。

 ついさっきまで『まどろみ王子』と全員から馬鹿にされていた男が一転、その場を凍り付かせる威圧感で支配してしまった。

 リュドヴィックが冷たい声で「エドメ」と呼ぶと、エドメはビクッと震え顔を上げる。


「ニコラ嬢を使ってフェリクスを陥れようとしたな」

 言い訳はいくらでも考えていたし、どうにでも切り抜けられるとエドメは思っていた。壊れたはずのリュドヴィックごときに、自分が負ける訳がないと思っていたのだ。

 この場さえ切り抜ければ、フェリクスを自分の言うことを聞く操り人形にできるのだ。あと少しなのだ!

 しかし暗い闇の底から全てを見透かしているような佇まいのリュドヴィックを前にすると、恐怖を抑え込むことさえ困難で何も言うことが出来ずうなだれるだけだ。


 あっさりと二人を片付けたリュドヴィックは、未だ呆然と立ち尽くすフェリクスに視線を移す。

「フェリクスが婚約者以外の女性に、現を抜かしたのも事実」

 リュドヴィックは面倒くさそうに、また周囲を見回す。

 生徒達は、リュドヴィックがこの醜悪な事態をどう治めるのか興味津々だ。

「王家を守るのか」

「王族を謀った二人の悪女を裁くのか」

「この騒動を契機に、王太子へと返り咲くのか」


 当のリュドヴィックはそんな周りの視線など無視して、淡々と話を進める。本来ならば、こんな場所で、こんな目立つ真似など、足の小指の爪の先程したくないのだ。

 だが、リュドヴィックには、今日を無事に乗り越える必要がある。


「フェリクスはエドメの冷たい態度に耐えられず、婚約者の気を引くために浮気の真似事をした。エドメはそれをフェリクスの浮気と勘違いし、悋気を起こしフェリクスを取り戻そうとした。喧嘩両成敗だ。二人はこれを機に国の未来を担う王太子と王太子妃として、より仲睦まじい関係を築いて欲しい」

 リュドヴィックは心底面倒くさそうにそう決着をつけた。



(絶対に婚約破棄などさせない。お前達が婚約破棄して、俺が王太子なんていう貧乏くじを引いてたまるかっ!)


 もう少しで全てが上手くいくはずなのに、馬鹿共が面倒なことをしてくれた! 本当にこの馬鹿二人は、どれだけ迷惑をかければ気が済むのだ。

 こいつらのせいで、リュドヴィックとコハリィの未来が危険にさらされた。大事な大事なコハリィに、不安な思いをさせた。コハリィに害を及ぼす行為は、絶対に許されない。全力で報復してやる。リュドヴィックはそう誓ったり


(とにかく計画の見直しが必要だ。今までのような、生温い結末になると思うなよ)


 はらわたが煮えくり返る思いの中、リュドヴィックは努めて冷静に振舞う。

「せっかくの卒業パーティーを二人の痴話喧嘩で乱したこと、誠に申し訳ない。我々は責任を取って退席するので、後は皆で楽しんでくれ」

 リュドヴィックに華やかな笑顔を向けられた生徒達は一瞬でリュドヴィックの魅力に酔いしれ、熱に浮かされたように一斉に声を上げて沸いた。






 今日の卒業パーティーでの出来事が嘘だったかのような風一つない穏やかな夜空に、大きな満月が輝いている。

 宰相の執務室では部屋の主である宰相と背筋のピンと伸びた背の高い老人が、向かい合ってソファに座っている。

 テーブルの上にはティーカップではなく、赤い液体の入ったワイングラスが置かれている。

 老人はワイングラスを取ると、「お祝いの祝杯とはいかないようだね?」と苦笑いをした。宰相も老人と同じように苦笑いをしてグラスを取る。


 二人は乾杯をするわけでもなく、ゆっくりワインを飲み始めた。


 宰相が「今日の件は想定外で仕方のない事でしたが、リュドヴィック様はうかつでしたね。自分がどれだけ人を惹きつける存在なのか分かっていないとは……」と渋い顔をする。

 老人は「そう言ってやるな、あの場であの事を暴露されてみろ。事態の収拾などできなくなる」と言って宰相を宥める。


 宰相は今日一日で凝り固まった眉間を指で揉むと、深くため息をついた。

「分かっているのです。あれが最善策だったことは。分かっているのですが……」

「君の心配は分かる。もう既にリュドヴィックを王太子に推す声が広がっているからな」

「『まどろみ王子』と馬鹿にしていた連中が、手のひらを返して擦り寄っていますよ。恥ずべき行為です!」

 露骨な貴族連中が勝ち馬に乗ろうと、リュドヴィックの下へ押しかけたのだ。いつも冷静な宰相が珍しく怒りを露わにした。


「どこにでも節操のない者たちはいる。特に貴族にはな……」

 老人はグラスを持ったまま、優雅な足取りで満月が見える窓辺に立つ。

「公爵、私はね、実は当初のプランでは満足していなかったんだよ。リュドヴィックやコハリィの気持ちを尊重して我慢していただけだ。君には悪いが、あの馬鹿二人や裏で糸を引く家族に、感謝の気持ちで一杯だよ」

 老人はそう言うと、満月に向かって嬉しそうにグラスを揺らした。

「あの間抜け共が、リュドヴィックを怒らせてくれたことにね……」


 老人がグラスを傾けると、どこからか湧いてきた雲が満月を隠した。月明かりが消え、潜めていた闇が辺りを支配する。

 窓の外と同じ老人の青黒い夜の色をした瞳には、後悔と怒りと憎しみがはっきりと渦巻いていた。その感情を隠すために老人は瞳を閉じると、深紅のワインが入ったグラスを高々と持ち上げた。

「明日から始まるアルトワ国の破滅を祝って、乾杯しようじゃないか」 






 自室の鏡の前で、リュドヴィックは頭を抱えていた。

 昨日の今日なので、自分の振る舞いをどうするのが正しいのか判断がつかない。

 部屋に控える側近に、「俺は『まどろみ王子』を卒業したのかな?」と聞いてみる。

 側近で二つ年上のライムントは呆れた顔を見せ、「勝手に自分で終わらせたんだろう?」とぶっきらぼうに答えた。

 リュドヴィックは「だよなぁ」とため息をつくと、身体を伸ばし立ち上がる。

「寝癖は作らないのか? 猫背もいいのか?」とライムントはからかう。

 王子と側近というよりは友達としての関係を優先させているため、二人の時はお互いに口調がくだける。


「人の視線を集めないのは、本当に楽なんだよ」

 ライムントはブハッと笑い出し、「お前は本当に嫌味な奴だな」とリュドヴィックの肩を叩いた。

 リュドヴィックは整った顔を顰めて、「そうは言うが、俺はこれで随分と苦労したんだ。ココの兄ならそれくらい察しろ」と自分の顔を指差した。

「お前は本当に、コハリィとそれ以外の態度が違いすぎる。コハリィはお前の目を『夜明け前の空のように澄んでいる』とか言っているが、俺は一度もお前の目が澄んでいるなんて思ったことないぞ。淀んでしかいないだろう」

「ココだけは特別なんだよ、お前だって知っているだろう。ココは俺の生きる理由だ」

 恥ずかしげもなく言い切るリュドヴィックを見て、ライムントは苦笑いするしかできない。




 五年前にライムントが側近として仕えることになった風変わりな王子は、とにかくコハリィに執着している。

 ポワティエ家の面々はコハリィが世界一だと思っているが、容姿は世間一般から見れば標準だろう。

 コハリィの何がリュドヴィックの琴線に触れたのかは分からない。が、未来の王太子が世間から疎んじられることもお構いなしに全てを捨てたのは、コハリィのためだ。

 あまりの潔さに、リュドヴィックを応援しないという選択肢は、ライムントには考えられない。


「ほら、そろそろ行くぞ。正念場だ」

 リュドヴィックは、この五年を振り返っていたライムントを急き立てるように歩き出した。




 リュドヴィックが久しぶりに背筋を伸ばして歩いていると、行きかう侍女やメイドが振り返り頬を赤らめている。

 ライムントが「大変だなぁ」とからかってくるのを、リュドヴィックは無視して歩く。


 二人が中庭の渡り廊下に出ると、静かな王城には似つかわしくない騒がしく甲高い声が漏れ聞こえてきた。

 コハリィ以外に興味のないリュドヴィックは、全く気にも留めていない。ライムントが顔を顰めて飛び出したので、仕方なく騒ぎの方に目を向けた。


 中庭の薔薇園に続く小径には、色とりどりの花が植えられている。

 春らしいピンクや白や黄色といったパステルカラーの花が咲き乱れる中に令嬢が二人立っていた。

 一人の令嬢が相手を責め立てている構図で、聞いていて不愉快になるような言葉しか聞こえてこない。

 リュドヴィックはあっという間にライムントを追い抜き、令嬢達の下へ向かう。


 コハリィにしか興味のないリュドヴィックが向かうのは、もちろんコハリィの下だ。

 リュドヴィックの婚約者の座が『お世話係』から『王太子妃かもしれない』に変貌を遂げたことで、コハリィの存在は嫉妬の対象になってしまった……。


「だから、何度も言わせないで。貴方みたいな身分だけで平凡な女が、リュドヴィック様の婚約者だなんて相応しくないと言っているの!」

 そう叫んでいるのは、フェリクスの従妹でタシュ家の次女であるマルタだ。従兄であるフェリクスの立ち位置が危うくなるなり、リュドヴィックに鞍替えするなんて権力しか見えていないのだろう。


 大柄なマルタがコハリィを見下ろして蔑みの目を向けているが、コハリィは視線など気にしていない。コハリィの緑の瞳は、知りたい気持ちを抑えられないと言わんばかりに真ん丸に見開かれている。

 大好きなリュドヴィックの隣に並ぶために自分に足りないものがあるのなら、それを必ず手に入れるだけだ。大事な研究を後回しにしても、そのための努力なら惜しまない。


「マルタ様なら相応しいのですか? ちなみに、どんなところが? 参考にしますので、教えてください」

 何に対しても探究心が強いコハリィが、真剣に教えを乞う。

 コハリィの予想外態度にマルタは一瞬怯んだが、すぐに立て直して胸を張る。

「まず学園での成績です、わたくしは貴方より優秀です。容姿に関しても貴方みたいな小柄では、リュドヴィック様と並ぶと大人と子供のようで不釣り合いです」


 コハリィは考え込み「なるほど。成績は色々あるので置いときますが、身長に関しては遺伝が関係しますので、わたくしの努力ではどうにもなりませんね」と頭を捻る。

「……そういう会話が続かないところも、リュドヴィック様に相応しくないのです。王太子になるかもしれない方ですよ? 貴方の意味不明な話術では、とても社交などできるはずがありません。王太子妃が社交で王太子をお助け出来ないなんて、話になりませんよ!」


 コハリィは納得した顔で「社交に関しては、同意いたします」と素直にうなずく。

「わたくしは最初から王太子妃なんて望んでおりません。わたくしが望むのはリュド様の妻になることだけですから」

「貴方、昨日の卒業パーティーにいたんでしょう? 昨日の一件でこの国の流れは変わりました。リュドヴィック様の妻になるのと王太子妃になるのが同義だと分からないの?」

 マルタのこの言葉は、コハリィが一番危惧していたことだ。分かっていたことだが、他人に言われると真実味が増して胸に響く。


 出口のない迷路を一人でやみくもに歩くのに似た不安を抱えるコハリィの背中がふわりと温かくなり、頭上から聞き慣れた優しい声が降ってくる。

それだけで胸がポカポカと温かくなり、安心してしまうのだから不思議だ。


「そんなことにはさせないから、安心してね、ココ」


 リュドヴィックが後ろからコハリィを抱きしめるのを見て、マルタは顔を青くしながらも「リュドヴィック様〜」と媚びる。

 リュドヴィックの態度は、コハリィに向けるのとは全く別だ。

「お前みたいなゴミムシに、名前で呼ぶことを許した覚えはない」と冷たく突き放し、濁った藍色の目で睨みつけた。


 マルタは「ヒッ」と息をのむも、タシュ家の娘のプライドとして逃げ出さずに踏みとどまる。

 そんなマルタにリュドヴィックは苛立ちを隠さず舌打ちをした。


「私の妻になるのはココだけだ。何を勘違いしているのかは知らないが不愉快だ。さっさと失せろ。そして二度と私とココに姿を見せるな!」

 地響きでも起こしそうな低く響く声は、不機嫌そのものだ。

 マルタが恐怖で動けないのは一目瞭然なのに、一秒でも早く視界から消し去りたいリュドヴィックは待つこともできない。

 護衛の腰にある剣に手を掛けると「ココに不安を植え付けるなど許される行為ではない。自身で消えないのなら、私が消すだけだ」と言って剣を抜いた。

 ギラリと光る剣と殺意を向けられ、やっと身の危険に気が付いたマルタは虫のように這いつくばって逃げだした。


 コハリィはマルタがシャカシャカと猛スピードで這っていくのを、複雑な表情で見送った。

「……やり過ぎだと思います」

「同感だ」

 ポワティエ兄妹の非難はリュドヴィックの耳には入らないし、ライムントに至っては視界から消し去られている。

 リュドヴィックにとって今一番大事なのは、コハリィを逃がさない事だ。

 もしコハリィがリュドヴィックが王太子になると勘違いして、自分から離れていってしまったら彼は崩壊する。

 その崩壊には、もれなくアルトワ国の滅亡というおまけもついてくる。

 大事なコハリィを抱き締めて「絶対に王太子にならないと約束する」と、五年前と同じ言葉を誓った。





 リュドヴィックとコハリィの婚約が決まったのは、五年前だ。

 王城の薔薇園が見頃の時期で、美しく咲き乱れる薔薇を見ながら王家とポワティエ家両家の顔合わせが行われた。

 コハリィの第一印象は「小さい大人しい子」だった。正直に言って婚約者であるコハリィより、側近になるライムントとの顔合わせの方が重要だとリュドヴィックは思っていたくらいだ。


 婚約者なんて未来の王である自分の役に立つ家柄であれば何でも良かった。王妃の仕事である社交や執務だって、出来ようが出来まいが気にもならない。

 王妃という存在に辟易していたリュドヴィックにしてみれば、むしろ何の仕事もしてくれない方が都合が良い。飾り物の王妃として、黙って自分の邪魔をしなければ何でもいい。そう思っていた。


 だから自分の意思など持ち合わせても無そうなコハリィは、リュドヴィックとって都合が良かった。

 国王の粋な計らいとは名ばかりの面倒を押し付けられ、コハリィに薔薇園を案内することになった時も、リュドヴィックはさっさと終わらせることしか考えていなかった。


 適当に歩きながら薔薇の説明をして振り返ると、コハリィはいなかった……。

 せっかくこの私が時間を割いて説明をしてやっているのに、歩くペースも合わせられないのかと腹が立った。

 仕方なく来た道を戻ると、オレンジとピンクが混ざった色の薔薇の前でコハリィが真剣な顔で年老いた庭師の説明を聞いていた。庭師も土や肥料を用いて授業さながらに解説している。


 リュドヴィックの存在に先に気が付いたのは庭師だった。話を止めて慌てた顔でリュドヴィックに頭を下げる。リュドヴィックはそれに、外面用の笑顔で答えた。

 その様子を見て振り返ったコハリィが、リュドヴィックに笑顔を向ける。

 媚びていない、飾られてもいない、純粋で素朴な初めて見る笑顔だった。


「さすが王家の庭師さんは知識が豊かですね。土の成分や肥料のバランスの話など、初めて聞く話も多くて勉強になります」

 コハリィはリュドヴィックではなく、庭師を褒めちぎる。

 リュドヴィックとしては『俺の貴重な時間を割いて、お前のために説明してやっただろう!』と言いたいが、そこは穏やかな王子の仮面を被りいつも通り我慢した。

 が、おっとりしているようで案外鋭いコハリィは、リュドヴィックの苛立ちに気付いた。気付いた上で、ちょうどいいから利用することにしたのだ。


「殿下の話は全て知っている内容で物足りなかったんです。その点、庭師さんの知識はわたくしの研究に応用できることが多そうです。もう少し聞きたいことがあるので、殿下はあちらでお待ちいただいてもよろしいでしょうか? 殿下にもお伝えしたいことがあるのです」

 コハリィは悪びれもせず、あっけらかんと言ってのけた。


(俺が、この俺が、庭師に負けた? 庭師以下の知識だと? 俺の話は全て知っているだと?)


 誰よりも優秀であるための努力を、リュドヴィックは惜しまず続けてきた。その努力は認められて、勉強を教えてくれる講師達は皆、リュドヴィックの優秀さに舌を巻いているほどだ。そんなリュドヴィックにとって、コハリィの態度は初めての躓きだった。

 呆然と立ち尽くすリュドヴィックは、コハリィが指示した東屋に行く気も起きず、自然と二人の話を聞く形になった。


 庭師の話は確かに初めて聞く内容だったし、コハリィの質問もリュドヴィックには聞き慣れない用語ばかりだ。

 土の配合や花の発色に肥料の種類や量が影響を与えるなんて話は、リュドヴィックが読んだ本には載っていなかった。

 暫く二人で話し込んでいたがコハリィは庭師にお礼を言うと、さっきと同じ打算の欠片もない笑顔を庭師に向けた。


(何だ? 良く分からないが、あの笑顔が俺以外に向けられるのが我慢ならない?)


 振り返ってリュドヴィックと目が合ったコハリィは、無防備に目と口を開いて驚いた。

 その貴族らしくない態度に、リュドヴィックは無意識のうちに目を奪われた。

「待っていて下さったのですか! 申し訳ございませんでした」

 申し訳なさそうに謝るコハリィは、眉を八の字に寄せた。リュドヴィックは『笑顔が見たいのに』と思っている自分に驚いていた。


 東屋でリュドヴィックが王子らしい笑顔を浮かべても、コハリィは笑顔を返してくれなかった。それどころか何かを思い悩んでいるようで、眉間に皺を寄せて顔を上げては下げてを繰り返している。明らかに何かを言いたげだ。


(普通の令嬢なら、頬を染めてポーッとなっているはずだが……。小動物みたいな動きだな)


 その様子を見ているのも面白かったが、リュドヴィックはコハリィを気遣った。

「遠慮しないで言っていいよ」と、損得なく配慮する自分にまた驚いた。

 そんなリュドヴィックの態度に勇気づけられたコハリィは、気合のこもった顔を上げる。膝の上に置いた両手をグッと握って、言い出し難い言葉を全身で押し出した。


「殿下に、お願いがございます……」

「うん。聞こう」

 今にして思えば、この時にはすでにコハリィのお願いはなんでも叶える気だった。このとんでもないお願い以外は。

「わたくしとの婚約を、断っていただきたいのです!」


 全く予想していなかったコハリィの言葉に、リュドヴィックは頭が真っ白になった。

 王子様の王道を行く容姿に、優秀な頭脳を持つ穏やかな性格の未来の国王。自分は誰もの憧れで、王太子妃の座に群がる令嬢は後を絶たない。

 今の今までずっとそうだと思ってきたリュドヴィックの考えを、真っ向から否定されたのだ。それも、大人しそうで扱いやすそうだと舐めてかかっていた相手に。

 予想外過ぎる展開に脳の処理が追い付かないリュドヴィックは、目を見開いて固まったまま動くこともできない。


 動揺するリュドヴィックを見て、コハリィは怒っているのだと勘違いした。

「殿下のお怒りはもっともです。このお願いはポワティエ家の総意ではありません。わたくし個人の考えで、わたくし個人の願いです。罰するのであれば、わたくしだけを罰してください。どうぞポワティエ家には累が及ばないようご配慮下さいませ」

 呆然としたままコハリィの話を聞いていたリュドヴィックは、深々と頭を下げるコハリィのフワフワと揺れるオレンジ色の髪に触れたいと思う自分に、また驚いた。


「罰したりはしないから、私との婚約を拒む理由を教えてもらいたい」

 コハリィはどうして自分を受け入れてくれないのか? リュドヴィックは理由が知りたくて仕方がない。

 コハリィは気まずそうにしているが、第一王子に頼まれれば答えるしかない。


「理由は二つあります。まず、わたくしが王太子妃に相応しくないからです。自分でも分かっておりますが、わたくしは変わり者です。世の令嬢達とは全く話が合いませんし、合わせることもできません。普通の社交もままならないのに、王太子妃としての社交なんて絶対に無理です。加えて、人前に立つのも嫌いです。足が震えます。あと殿下みたいに、面白くもないのに笑うこともできません」

 コハリィに悪気は、全くない。全くないが、リュドヴィックの胸には突き刺さる言葉だった。


(面白くもないのに笑うのは、自分を守るために必要なことだろう? お前は守ってくれる家族がいたから、そんな事が言えるのだ)


 貴族である以上、相手に自分の表情を読ませないことは必要最低限のことだ。面白くないと笑えないと言うコハリィの方が、貴族としての自覚が足りない。

 だがコハリィにそう指摘されたリュドヴィックは、自分が恥ずかしくなった。


(相手を操るつもりで、常に主導権を握っているつもりだった。しかし実は、自分が周りに操られていたのではないか? 王太子に相応しい穏やかで優秀な王子は、周りの思惑によって作られたものではないのか?)


 リュドヴィックは自分の進んできた盤石と言われた道が、崩れ落ちそうなほど脆いものに思えた。


「二つ目の理由です。わたくしは植物の研究をしていて、将来は薬学者になりたいのです。自分の力で新たな薬を作り出し、一人でも多くの人を救いたいのです。そのためには研究に没頭する必要がありますので、王太子妃にはなれません」

 王太子妃になるためにかける時間があるなら、研究をしたいということだ。


「王太子妃になるより薬学者になった方が、わたくしはこの国の未来に貢献できます。王太子妃とは違った形で国民の健康と笑顔を守り、殿下の治世を支える一つの柱になります」

 コハリィは顔を真っ赤にして、リュドヴィックに自分の熱意を届けようと必死に力説した。


 コハリィの話を聞いたリュドヴィックは、自分が箱庭の中でしか生きてこなかったのだと思い知らされた。


 王家に生まれた第一王子だから王太子になり、いずれ国を治める。自分の進む道に疑問など感じたことはなかった。


 王太子に縋ることが、自分を守る唯一の方法だと思っていた。

 王太子にさえなれば、自分に関わる全ての者達を見返してやれると思っていた。

 自分を蔑み虐げる義母や弟、自分を駒としか思っておらず全く顧みることのない父親、未来の王だから媚を売る愚かな大人や自称友人達。

 こいつらに付け入る隙を与えたくなくて、必死に王太子になるための努力を重ねた。

 でも、この国の未来や国民のことなんて考えたこともなかった。

 国民の生活や国の未来を守りたくて王太子を望んだわけではない、自分のプライドを守る手段が王太子になることだったに過ぎない。

 自分の中のその事実を、コハリィによって思い知らされた。


 自分と同じ年の少女は自分の夢を持ち、臣下として国の未来を考えている。

 自分はどうだ?

 リュドヴィックには何もない。 


「隣国の王女だった母を早くに亡くした俺は、後ろ盾を失い城に居場所がなかった。家族になんて興味のない国王は、俺が周囲に馬鹿にされようがどうでもよかったんだ」

「…………」

 突然の身の上話が始まって、コハリィはリュドヴィックが誰に向かって話しているのだろうと思った。だが、どう考えても自分しかいない……。

「俺は国のことなんて考えていなかった。自分のプライドを守るために、王になろうとした。俺は王になるべきじゃないと思わないか?」

「……答えないと、ダメですか?」

「無理強いはしないけど、できればコハリィの意見を聞かせて欲しい」


 ほんの少し前まで偉そうだったリュドヴィックが、今は迷子の子供みたいな目でコハリィを見ている。この短期間で人が変わってしまったみたいで怖い……。


「王になれる人は限られています。自分の過ちに気づけたなら、新たな気持ちで王を目指せばいいかとーー」

「俺には無理だ」

「えぇぇぇ!」

「自分が何をしたいのか、今まで考えたことがなかった。周りに言われるまま、王になるのだと思っていただけだ。何がしたいのかは、まだ分からない。ただ、王になりたいかと聞かれれば、答えは『否』だ」


(やりたいことは、分からない。だが欲しいものは見つけた。絶対に離したくない人は、目の前にいる)


「貴族の娘としてコハリィだって、いつかは結婚するだろう? 薬学者になることを邪魔しない相手なら構わないのか?」

 まさかこんなことを聞かれると思っていなかったコハリィは、「そうですねぇ」と言って頭を悩ませた。

「薬学者になることを応援してくれるのも重要ですが、やっぱり想い想われるお相手と結婚できたら嬉しいです」

 コハリィは恥ずかしさで顔を赤らめ、照れ笑いを隠すように頬をかいた。


(うん。可愛い)


「俺はコハリィの笑顔が見たい。コハリィを笑顔にしたい。そして、面白くないと笑えないままのコハリィでいられるように守りたい」

「えっ? 急にどうしたんですか? お疲れなのでは? 疲労回復の薬を調合しましょうか?」

「俺は王太子にはならない!」

 突然のリュドヴィックの決意を、コハリィは口をポカンと開けて聞いていた。

 全く話が噛み合わないのだから、コハリィは何かの罠だと疑った。家を守るためにも、絶対に不用意なことは言わない。


「絶対に王太子にならないと約束する。コハリィが薬学者になることも邪魔しないし応援する。だから俺と結婚して欲しい」

 がっつり両手を握られたが、怖いからコハリィはされるままにした。

「未来の自分が何をしたいのかは、まだ分からない。だけど、未来でも俺の隣にコハリィがいてくれたら嬉しい。うん、絶対にいて欲しい。俺以外がコハリィの隣に立つなんて考えられない!」

 リュドヴィックの握りしめる手には力がこもった。





 五年前と同じ約束をするリュドヴィックに、コハリィはクスクスと笑った。

「あの日のリュド様には驚かされました。絶対に何かの策略だと思いました」

「あの日ここで恋に落ちた。あの日からずっとココの心だけを欲している」

 手足まで真っ赤に染まるコハリィと、とばっちりを受けて顔を顰めるライムント。兄妹をよそに、リュドヴィックは真剣そのものだ。

 リュドヴィックには愛を囁いている認識はないので、照れるなんてことはない。

 コハリィが全てのリュドヴィックにとっては、彼女に伝える言葉は全て紛れもない事実でしかないのだ。


 ライムントはため息をつき、五年前を思い出す。

 なかなか戻ってこない二人に焦れたポワティエ公爵が東屋に向かったので、ライムントもついて行った。

 真っ赤になって目を白黒させているコハリィの手を握るリュドヴィックを見て、公爵は頭に血を登らせた。

 相手が王子という認識は公爵から吹っ飛び、足でリュドヴィックを蹴りながら必死に手を外そうと試みるも、当のリュドヴィックが全く離す気がない。


 それどころかリュドヴィックは、「絶対に王太子にはならないと約束するから、コハリィと結婚したい」と爆弾を投下した。

 権力しかものを言わない貴族社会の中で、「王太子にならない」と馬鹿なことを言って、ほぼ手中に治めている一番の権力を放棄した男と娘を結婚させる親なんているだろうか? そんな変わり者は、ポワティエ家の両親だけに決まっている。

 だからライムントは慌てて聞いたのだ。リュドヴィックがまともな人間か確認するために。

「未来の国王に相応しいのは貴方しかいないのに、国を国民を見捨てるのですか?」

「この国の王族は、私も含め私欲まみれだ。これ以上世襲が続けば、近い将来に国は滅びる。新しい風を吹き入れるべきだ」

 リュドヴィックはまともだった。


 最初は胡散臭い目で見ていたポワティエ公爵家だったが、リュドヴィックがコハリィを誰よりも何よりも大事に思っていることは明白だった。明白過ぎて引くくらいだ。

 そして、ポワティエ家の大切なお姫様であるコハリィが、深い深い底なしに深いリュドヴィックの愛情に飲み込まれていくのも、あっと言う間だった。


 正直に言ってリュドヴィックのコハリィに対する愛情は、常軌を逸していると思うことがライムントには多々ある。多々あるが、自分の価値を分かっていない妹を守るためにはリュドヴィックくらいでちょうどいいのではないかとも思う。

 そう思ったから、ライムントはコハリィを嫁に出したくない父親の説得に一役買ったのだ。

 リュドヴィックには感謝して欲しい所だが、今のところそんな素振りは見受けられない。

 

 ライムントはマルタが這って行った方向に目を向けた。

「分かっていると思うが、マルタはフェリクスの母である王妃の姪だ。王妃が実の息子を王太子にするのを諦めるはずがない。マルタで保険をかけるくらい、なりふり構っていられない状況ということだ」

 リュドヴィックは面倒くさそうにため息をつくと、ギュッとコハリィを抱きしめた。そして、五年前から何度も繰り返している約束の言葉をコハリィに伝える。

「俺は王太子にも国王にもならない」

「お前はそう思っていても、周りは放っておかないのは分かるだろう?」

 リュドヴィックはようやくコハリィから離れ、苛立って声を荒げるライムントを一瞥した。

 そして王の執務室を見上げ「全て一刀両断にしてやる」と、色とりどりの花々が一気に枯れてもおかしくないほどの冷気を放った。







 臙脂色の絨毯に焦げ茶色の重厚な家具が並ぶ王の執務室には、深緑色のカーテンから光が差し込んでいた。部屋の中央にある金糸の刺繍が施されたソファには、呼び出された者達が既に着座している。

 王は一人掛けのゆったりとしたソファに座り、その隣に王妃が座っている。向かいのソファには、顔の青いフェリクスとエドメ。その横にはエドメの父であるモンフォール侯爵と、王妃の兄であるタシュ侯爵とフェリクスの側近でタシュ侯爵の息子であるクレールが立っている。

 少し離れた後方に宰相であるポワティエ公爵がいて、今到着したライムントがその隣に並ぶ。公爵の後ろには姿勢の良い老人が立っている。

 リュドヴィックはソファを勧められたが固辞し、コハリィと共にソファの後ろに立った。


「これで全員が揃ったな」

 王が話の口火を切った。

 碧く冷たい目をした王は、自分以外には興味を示さない。そんな男が関係者を集めて話をするということが、婚約破棄騒ぎの影響の大きさを物語っている。


「さて、フェリクス、エドメ」

 王に呼ばれた二人とその家族は身体をビクッと震わせるのに合わせて、部屋の張り詰めた空気も揺れる。

「昨日の騒ぎで、何か申し開くことはあるか?」

 二人共何かを言いかけたが、これ以上騒ぎ立てない方が得策だと言いくるめられているらしく、ぐっと堪えると「ありません」と声を揃えた。


 王はモンフォール侯爵、タシュ侯爵、王妃と順に冷たく光る碧い目を向けた。

「誰のための、何のための駆け引きだったか私が知らないと思うな。自分達の評判を落とすだけならいいが、私にまで迷惑をかけるとは許せない」

 王の言葉は自分を貶めた者達への皮肉だ。

 王の激しい怒りを感じてフェリクス、エドメ、モンフォール侯爵、タシュ侯爵、王妃の五人がうつむき、きつく唇を噛みしめる。


 昨日の婚約破棄騒動は、フェリクスとエドメだけの醜聞では済まなかった。モンフォール家とタシュ家、そして王家までもが、愚かな権力争いを繰り広げ、せっかくの卒業パーティーを台無しにしたと、怒りと嘲笑の対象になっているのだ。


 そんな政治不信の中で、唯一の救いがリュドヴィックだ。

 王家を守る訳でもなく、自身が王太子に相応しいとアピールする訳でもない公平な態度であの場を見事に収めたことで、一気に『まどろみ王子』を返上させられていた。

 そのせいで見目麗しいリュドヴィックが王太子になることへの期待が高まっている。


「これほどまでに愚かなことをした理由はなんだ?」

 王は声を荒げたりはしないが、五人に対する失望と怒りを隠していない。

 自分が一番大事な王にしてみれば、自分の失態ではないのに自分の治世に傷がつくことが許せない。

 例えそれが自分が情勢を把握できていなかったがために起きた事件でも。自分以外には興味のない王にしてみれば自分の足を引っ張られたとしか感じられないのだ。


 王は何も言わない二人に痺れを切らし、保護者達に視線を移した。

「なぜこんな馬鹿な真似をさせた?」

 今度は大人三人に言葉をぶつける。

 もちろん誰も答えることはない。答えれば答えた分だけ、王の怒りを買うからだ。それだけ中身のない愚かな争いだった。

 王もそれが分かっているから我慢がならない。こんな下らないことで、自分の価値を下げられるなんて許しがたいことだ。


 王はまずフェリクスに怒りをぶつける。

「婚約破棄などという第三者の好奇心をくすぐる言葉をわざわざ使って、自分の浮気を宣伝する必要がどこにあるんだ? エドメを見返したいなら、他にやることがあったのではないか? その程度の能力で王太子が務まると、本気で思っているのか?」

 王のその言葉で、手にしていたはずの王太子の座が崩れ落ちて行くのが見えた。フェリクスは身体中から力が抜け、何も考えられない。


 次はエドメだ。

「王太子妃は王太子妃でしかない。女王になどなれるはずがない。何を勘違いしているのだ。フェリクスごときと比べて能力が高いと鼻にかけている時点で底が浅くて話にならんわ! ましてや、一芝居うって王族を嵌めようなど、思い上がるのも大概にしろ! 随分と多くの令嬢からお前の行いに対する苦情が届いているようだから、一人一人に詫びて許しを乞うてくるがいい」

 エドメはあまりのショックに涙も出ない。身体の機能が全て停止したのか、ただ茫然と何も考えられないまま座っているだけだ。


 最後の三人に行き着いた時には、王の怒りは留まることを知らない状態まで膨れ上がっていた。

「いい年をした大人が子供を使って権力争いをした結果がこれか? 子供の評判も王家の評判も落とした落とし前は、どうつけるつもりだ?」

 王を蔑ろにして自身の権力を増大させようと画策していたことがばれたのだ。三人の大人は、何も言えず固まったまま動けない。


「責任ある立場にある者が、子供と同じように扱ってもらえると思うな! どう落とし前をつけるつもりだ? 答えろ!」

 子供同様に何も言わない三人に、王の怒りが爆発した。

 タシュ侯爵が一番最初に動き出し、「全てを息子に任せ、私は隠居いたします」と床に頭をこすりつけて許しを請う。

「お前の隠居ごときが落とし前になるか! 王家に私の治世に損失を与えたのだ、もっとまともな対価を示すのが当たり前だろう」


 タシュ侯爵には、王の言っている意味が分からない。

 賠償金を支払うにも、フェリクスを王太子にするために随分と使ってしまった。金以外に何が対価になると言うのだろうか? まさか……。

「私の命で、陛下の怒りを鎮めることができるなら……」

 タシュ侯爵は首筋がうすら寒く、体中の水分が冷汗となり流れ出ていくのを感じた。


 しかし、王はタシュ侯爵の決死の覚悟を鼻で笑った。

「お前の命ごときで償えるか! 領地替えだ。北の山間部にある王領に移り、三年以内に豊かな土地にしろ」

 王は事も無げに言ったが、北の王領は人が住むのもままならない極寒の土地だ。夏でも雪が残っている場所があると聞く土地で植物が育つとは思えない。事実上、死の宣告を受けたようなものだ。


「本来なら爵位も身分も返上させたいところだが、王妃がいる手前それもできない」

 そう言われた王妃は隠れてホッと息をつく。兄には悪いが自分は今まで通り暮らせそうだと安心した。

「さっさと離縁したいところだが、離縁は私の経歴に傷がつくからな。タシュ侯爵に北の土地に離宮を作ってもらい、お前はそこで病気療養しろ。もちろん王家は、金など出さない。贅沢など二度とできると思うな!」

 王妃の手から滑り落ちた扇子が、絨毯の上で音もなく跳ねた。

「モンフォール家は爵位返上、身分剥奪とする」

 王はモンフォール侯爵を一顧だにせず言い捨てた。

 モンフォール侯爵は、声もなく崩れ落ちた。


「さて、リュドヴィック」

 王がリュドヴィックと向き合うが、リュドヴィックは表情を一切消し去っており、何を考えているのか全く分からない。

 底の見えない息子に、王は薄気味悪さを感じていた。


「お前は四年前の熱病で脳に異常をきたし、まともな状態ではなくなったと聞いていたが……。私を謀ったのか?」

 王はリュドヴィックに冷たい視線を送り威嚇したつもりだったが、リュドヴィックはそれを平然と受け流す。

「その話なら私ではなく、フェリクスとエドメに聞いたらいかがですか?」

 リュドヴィックの言葉に疑問を感じながら王は、フェリクスとエドメを見た。


 二人の顔色は土色で、ガタガタと震えている。エドメに至っては、目の焦点が合っていない。

 王は明らかに何かを隠している二人にうんざりしていた。

「話せ」

 どちらも王の声が聞こえていないのか、声が出せないのか、答えは返ってこない。

「話せ!」

 王の怒鳴り声に反応したフェリクスが、回らない舌でしどろもどろに話し出す。


「よ、よ、よ、四年、前……、わ、私が……、エドメに、見せた、薬、を、エドメが、あ、兄上に、のま、飲ませたのです……」

「薬? 何の薬だ? 副作用でも出る薬か?」

 フェリクスの目から涙があふれている。ガタガタと震えが止まらず、寒さに堪えるように両手で自分を抱きしめている。

 王は軟弱者が何の真似だと不愉快この上ない気持ちで、フェリクスを見下ろした。


 エドメがリュドヴィックに薬を盛って失脚させていたとは、国王は全く気付いていなかった。しかもフェリクスはそれを知っていて止めないだけでなく、秘して王太子になろうとしていた。

 そんな二人を見抜けず王太子と王太子妃にしようとしていた自分は棚に上げ、この二人の愚かさと逃げたリュドヴィックに王は立腹した。


 自分達の為にリュドヴィックを毒殺しようとは、当時十四歳の子供が犯したとは思えない大罪だ。

 フェリクスは今まで胸の内に隠していたその重い事実を、壊れたように吐き出し始めた。

「……は、母上、が、元王妃に、あ、兄上の母親に、のま、飲ませて、いた、薬を……エドメ、が兄、上に、飲ませた……」

 執務室にいる全員の視線が王妃に集まる。


 王妃は一瞬で十年分老けてしまったと思えるほど、小さくクシャっと縮んでしまった。それでも王妃のプライドなのか、歯がガタガタと鳴るのを必死に力を込めて抑えている。


 錆びて壊れかけのロボットが「ギギギ」と音をさせながら無理矢理首を回すように、王は横に座る王妃にゆっくりと驚愕の顔を向けた。

「お前が、お前が、フィリーネに毒を盛って命を奪ったのか?」

 到底信じられない言葉を口にしている自分の声を聞いて、王も激しく動揺する。もし事実なら、国を揺るがすこととなる。


 リュドヴィックの母であるフィリーネは、アルトワ国よりも遥かに強大な大国であるオルリアン国の王女だった。

 何としてもオルリアン国の後ろ盾が欲しくて、頼み込んで嫁いできてもらったのだ。その元王女に側妃が毒を盛って殺したなど……、絶対に知られる訳にはいかない。オルリアン国に知られれば、この国は破滅だ。


 王は手で口元を押さえ「……な、な、な、何てことを……」と、唾をゴクリと飲み込んだ。

「とにかく、このことは誰にも漏らすな! 少しでも漏れ広がったら自分達の首が飛ぶと思え!」

 王は不安を隠せず顔を真っ赤にして叫び、隣に座る王妃の椅子を蹴り飛ばし怒りをぶつける。


「どうして俺の足ばかり引っ張るのだ。何事もなく穏やかに国を治めてきたのに、その俺にどうして泥を塗るのだ」

 王の声は、最後は悲鳴に近かった。


 椅子を蹴り飛ばされ床に転がり落ちた王妃は、先に落ちていた扇子を拾い上げると王の顔めがけて投げつけた。

 バチンと大きな音をさせて王の顔に当たった扇子が、パサリと床に落ちた。


「何事もなく穏やかに国を治めた? オルリアン国に守ってもらっていただけじゃないですか! それだって、フィリーネを妻にと交渉を重ねた先代のおかげでしょう? おかげでわたくしは決まっていたはずの王妃にもなれなかった上に、側妃になんてされて……。どうしてわたくしだけが、こんな目に? どうしてですか? どうしてですかっ!」


 全てを失った王妃は、溜まっていた不満を爆発させた。顔に扇子の跡が残る王に詰め寄ると、王は痛む顔を押さえてうつむいた。

 ちょっと困れば、国王はすぐ逃げる。


「わたくしがフィリーネを憎むのは、当たり前じゃない! わたくしのことを少しでも考えれば、陛下にだって分かったはずよ。でも陛下は、わたくしだけでなく、フィリーネのことも見ていなかった」

 黒いレースの扇子を広げたり閉じたりを、王妃は何度も繰り返す。

「国を守るために手に入れた人質は、存在さえすれば国に利益をもたらすから放っておいて問題ないと思いましたか? おかげで孤独で寂しいフィリーネに薬を盛るなんて容易いことでしたよ?」

 扇子で国王の顔を上げさせた王妃は、甲高い声で笑い出した。

「あはははははははははは……陛下が大事なのは自分だけ。自分と自分の評判だけなのよ。自分以外は全て煩わしい取るに足らない些末なことなのよ。わたくしだって犠牲者よ!」

 まさかの王妃の反乱に動揺し恐れをなした王は、それを隠すために高圧的な態度を取った。

「……自分の犯罪を俺になすりつけるとは、見下げ果てた奴だな。私は王だぞ、国民だけではなく家族にだって目を配っている!」


 王のその言葉には、王妃だけでなくリュドヴィックも呆れた顔を隠さない。

「家族に、目を配っている? …………あははははははははははははははは」

と王妃がまた笑い出し、気が狂ったと誰もが思った。

「陛下が家族に目を配っていたら、そもそもフェリクスだってこんな馬鹿な真似をしませんでしたよ。リュドヴィックだって、気が触れた振りをする必要もなかったでしょうね!」


 王は王妃の言っている意味が分からず、何度も瞬きをする。

 それを見た王妃は、「ほら、貴方は何も分からない……」とため息をついた。

「わたくしはね、リュドヴィックを虐めていたのよ。

私だけではないわ! 母親の後ろ盾を失い、父親の関心も引けないリュドヴィックは、他の貴族からも馬鹿にされて踏みつけられていたわ!」

「……どうして、そんなことを?」

 本当に何も見ていない夫に、王妃は絶望した。

「フィリーネに似て美しく優秀なリュドヴィックが、何事につけてもフェリクスを上回るのが許せなかった。フィリーネを殺して、せっかく王妃になれたのに、国王の母になれないなんて冗談じゃない! だからリュドヴィックを虐げ続けたわ。リュドヴィックを守る使用人も全て辞めさせ孤立させたのに、陛下はそれさえも気が付かなかった。だからエドメに薬を飲まされたリュドヴィックは、自分を守るために気が触れた振りをしたのよ。これでも王は、家族に目を配っていたと仰いますか?」


 王は全く気付いていなかった。どれ一つも、全く気が付いていなかった。

 それでも王は、自分を独りよがり利己的な人間だとは思いたくなかった。だから否定の言葉を求めてリュドヴィックを見た。


 暗い海の底に誘うような冷たい目を王に向けたリュドヴィックは、口元だけを持ち上げ笑顔の真似事をした。

「私は陛下の無関心に感謝していますよ。そのおかげでコハリィを手に入れ、この国を去ることができます。それに気が触れた振りをしたのは、王妃や弟の愚かな行為の相手をするのが面倒だったというだけではありません。純粋に王太子になりたくなかったのです」

「王太子になりたくない? そんなはずないだろう!」

 国王にリュドヴィックの気持ちが、分かるはずもない。そう思いながらも「貴方は何も分かってない」とため息が出た。

「陛下にとって我々は、役に立つか、立たないかという目でしか見られないただのチェスの駒の一つに過ぎない。だから、私が陛下にとって役に立たない人間だと分かれば、すぐに私を切り捨てるのは明らかだった。簡単なことで助かりましたよ」


 王は自分がリュドヴィックとフェリクスを息子と呼ばないことも、リュドヴィックが自分を父と呼ばないことも気づいていない。血の繋がった子供でさえ家族としてではなく、自分の駒としてしか扱っていないことにも気が付けない。


「何を言っているのだ? お前がまともな状態であるのなら、お前の方が優秀なのだから、お前が王太子だ。これ以上混乱が長引けば、私の政治力が問題視されてしまう。オルリアン国との関係もきな臭くなってきているんだ。対策として別の国の王女を婚約者に据えなければ。今の何の役にも立たない地味な娘が婚約者では意味がない」


 オルリアン国から自国を守ってくれる花嫁候補の選考で、王の頭は一杯だ。

 リュドヴィックが敵意と殺意を剥き出しにして不穏な空気を放っているのに気が付けない。


「ココを冒瀆する者は、絶対に許さない!」

 穏やかな王子、まどろみ王子という作られたリュドヴィックしか知らない王には、想像すらできない毒々しい声だった。

「私は貴方の駒にはならない! 自分の評価を上げるために、人に頼ることしかできないとは、あまりにも無能!」

「この私が無能だと?」

「無能だ。既に王位継承権を放棄し王籍も抜け、この国の人間でもない私に頼るなんて……。愚かにも程がある!」


 リュドヴィックの言葉に、国王が目を見開く。

 王位継承を放棄して王族を抜けた? この国の人間ではない? 自分の知らぬ間にそんなことができる訳がないと、王は怒りをぶつけようと立ち上がったが……。

 ハッとして宰相であるポワティエ公爵を見る。いつもは無表情でため息しかつかない宰相が、満面の笑みで王の視線を待っていた。


「私は常々、陛下に申し上げ続けて参りましたよ? 自分の利益が絡む案件だけでなく、全てに目を向けて欲しいと。しかし陛下は家族や国民だけではなく、国や執務にも無関心でしたからね。興味のない書類は読まずにサインをするだけでしたね?」

 そう言った宰相は、ある書類を王に向けて掲げた。

「む、無効だ。その書類は間違いだ。無効とする。王の権限で無効とする!」


 激しく取り乱し大声を上げる王の前に、今まで微動だにしなかった老人が歩み寄る。

「それは無理な話だ」

 王より背の高い老人は、宰相の持っていた書類を王の目の前に突き出した。嫌でも目に入るそれを見た王は、床に崩れ落ちた。


 書類にはアルトワ国の王位継承権を放棄し王族を抜けたリュドヴィックが、オルリアン国の前国王であるレアンドル・オルリアンの後見を受けてオルリアン国で伯爵位を授けられる旨が書かれていた。

 オルリアン国王のサインの横に、アルトワ国王である自分のサインが昨日の日付で並んでいる。

 もはや自分の権限でどうにかできる状況ではない事実を、突きつけられたのだ……。

 しかも、突きつけてきた相手が悪い。国王ごときがどう足掻いても、元より叶う相手ではない。その上、国王は相手の逆鱗に触れている。


「私もお前に落とし前をつけてもらう必要があるな」

 老人が夜の色の瞳に憎悪を灯した。

 不安を誘う老人の低い声に、王は恐怖のあまりびくりと顔を上げた。


「お前と同じで、私もお前の命は不要だよ。お前ごときの命では、フィリーネの死を償うことはできない。手始めに、オルリアン国と隣接しているポワティエ公爵領をもらおう。もちろん土地だけではなく、領民もポワティエ家も一緒にな」

 レアンドル・オルリアンは、有無を言わせない態度で王を威圧する


 ポワティエ領を奪われるのは、アルトワ国にとって死活問題だ。

 ポワティエ家は農業が盛んな上に研究熱心で、土地に合った品種改良や新たな品種の開発する能力が突出している。

 その分野では、他国と比べても一歩どころか百歩先を行っている。そのために毎年のように領地を増やしており、作物を納める量と税金の額は他の領地とは比べようもなく抜きん出ているからだ。


 頭を抱える国王をギラギラと光る恐ろしい目で見下ろしたポワティエ公爵が、レアンドル翁の隣に立つ。

「我がポワティエ領で行っている作物の改良や新品種の開発は全て、私の娘であるコハリィが行っております」

 それがついさっき自分が「役に立たない地味な娘」と言った相手だと分かり、国王は慌てた。だが、もう、遅いのだ。


「ちなみに、昨年この大陸を襲った熱病の治療薬を研究開発したのもコハリィです。多くの者の命を救っただけでなく我が国の政治交渉にも大変貢献したのですが、陛下は覚えていますかね? 貴方が何の役にも立たないと勘違いしている我が娘は、数多の国が喉から手が出るほど欲する逸材なのですよ。ご存じなくて幸いでした」


 何も知らなかった王は縋る言葉も発せず、口をパクパクと動かすしかできない。

 ポワティエ領を取られても、あの薬の開発者がいるならどうにかなると算段していたところだった……。

 あの薬や新たな薬を盾に、オルリアン国から自国を守るよう他国に交渉しようと考えていた矢先にとんでもない事実を突きつけられた。


 国王が周りに目を向けていれば、優秀な王太子と非凡な王太子妃が自分の治世を盛り上げてくれていたはずだった。

 そのありもしない未来が、王を暗い底へと突き落としていく。

 王は助けを求めて周りを見渡すも、後の祭りだ。この愚かな国王を助けようとする者は、誰もいない。全員が「いい気味だ」と言わんばかりに頬を緩めている。


「後はこの国を支える、こちらの皆さんに任せましょう。関係のない他国の人間である私達は、さっさとお暇します。もうここに居ても私達に出来ることはありませんので」

 リュドヴィックは言い終わらないうちに、コハリィを抱えてスタスタと歩き去っていく。「お前等と同じ空気など吸いたくもない」と背中が語っていた。

 せっかちなリュドヴィックの後にポワティエ公爵とライムントが続く。


 最後に部屋を出たレアンドル翁は、晴れ晴れとした笑顔を国王に向けて立ち止まった。

「今まで行ってきた支援は、全て取り止める。借金の返済額については追って書面を送るから、何事もなく速やかに返済しろ」

 支援を止められ借金の返済を要求されたら、アルトワ国はやっていけない。

 血の気が抜けて、国王は背筋が凍った。

 だが、それだけでは終わらない……。


「王よ、死ぬことは許さない。フィリーネの何倍も、もがき苦しめてやるのが楽しみだよ」

 夜の瞳が、王の執務室に暗い闇を落とした。

 扉が閉まり執務室が絶望で塗りつぶされると、王の悲痛な咆哮が吹き上げていた。




 執務室でライムンドからの分厚い手紙に目を通し終えたリュドヴィックは、大きな窓からアルトワ国がある方角を眺めた。

 見渡す限り広大な畑と青空が広がっており、アルトワ国は微塵も見えない。


「名前もアルトワ国にこだわる必要はないしな……」


 あの後アルトワ国は、オルリアン国の属国となった。暫定的に国を治めているのは、ポワティエ公爵家だ。

 アルトワ国王が潰しかけた国を建て直せるのはポワティエ公爵とライムントだけだ。

 アルトワ国の貴族達に泣きつかれただけなら無視できるが、コハリィに「見捨てることはできません」と言われてしまえばやるしかない。


 ポワティエ公爵は手始めに、王族だけでなく、フィリーネやリュドヴィックを虐げるのに協力した貴族連中も全て罰した。

 その上で、新生アルトワ国として国の立て直しを図っている。そこには、もちろん、レアンドル翁の意向も大きく反映している。

 しかし、ポワティエ公爵はコハリィが国を離れたのが辛く、立て直しの見通しが立ち次第すぐにでも引退を考えている。

 後を丸投げされるであろうライマンとは、やることが山積みだと頭を悩ませている……。


 もちろんレアンドル翁は、王家・タシュ家・モンフォール家を許したりはしていない。

 夜の瞳の色を増して、宣言通りフィリーネ以上の苦しみを与え続けている……。



 リュドヴィックとコハリィは、予定通りアルトワ国を出た。

 オルリアン国にある、リュドヴィックの領地で暮らしている。

 オルリアン国がコハリィのために準備してくれた設備は完璧で、リュドヴィックは頭が痛い。


 時計を見ればお昼の時間を超えている。

「ココは、また昼ご飯を食べ忘れているな……」

 今日も研究に熱中しているコハリィを連れ出すために、リュドヴィックは研究等に向かう。


 リュドヴィックには二つ不満がある。

 一つは研究設備が充実しすぎて、コハリィが寝食を忘れて没頭することだ。

 まぁ、これはリュドヴィックが甲斐甲斐しく世話をしているので、よしとしよう。


 リュドヴィック最大の不満は、この理想郷にレアンドル翁夫妻も一緒に住んでいることだ。

 すぐに別居を申し出ようとしたが、コハリィに止められてしまった。

「これだけ広大なお屋敷の管理は、わたくしではできません。かといってリュド様だけに押し付けるのも気が引けます。お爺様とお婆様が手伝って下さるなら、とても助かります。それにリュド様と共に暮らせる喜びを、お爺様とお婆様から奪ってはいけません」

 とコハリィに言われてしまえば、リュドヴィックは受け入れるしかない。


 リュドヴィックの型破りな計画を、実現可能なものに変えてくれたのはレアンドル翁だ。大事な娘の忘れ形見であるリュドヴィックの頼みを、一も二もなく聞いてくれた温かい肉親だ。

 だが、同じ血を引いているせいなのだろうか? レアンドル翁夫妻もコハリィのことが大好きで、二人の時間の邪魔をしてくる……。


「リュド様」

 珍しくリュドヴィックが迎えに行く前に、コハリィが研究棟から出てきた。これは奇跡だ。

 コハリィはお腹を押さえて、リュドヴィックが一生守ると決めている笑顔を見せてくれた。

「お腹がペコぺコです」

「ココを研究室から引っ張り出す口実にしようと、温室に昼食の用意をしている」

「温室は大好きですけど、それが口実になるのですか?」

「以前に温度の変化で薬草の成長具合を確認すると言って、ルネリナ草を植えただろう? さっき赤い花が咲いた。見たいだろう?」

「赤ですか? 変異種です! 早く行かないと」

 コハリィは手を叩いて喜ぶと、リュドヴィックを置いて走っていく。


「俺がココの一番になるためには、まだまだ長い道のりが必要だ」

 声が聞こえたのか、コハリィが立ち止まって振り返る。

「リュド様と研究は別物なのです。どちらも大切です! 両方諦めなくていいと仰って下さったのは、リュド様ではないですか!」

 コハリィはリスのように頬を膨らます。


(ココと出会い、ココと共に生きると誓った。それが第一王子としてではなく、リュドヴィックとして生きる始まりだったのだと、今なら分かる)


「終わったのだな」

 長い長い王子としての十八年間が思い出される。

 コハリィは「これら始まるのですよ」と、リュドヴィックの手を握って笑顔を向けてくれる。

 この笑顔が一生自分に向けられる。それだけで、リュドヴィックは泣き出しそうな程の幸せを感じる。


「初めて会ったあの時にココを手放していたら、俺は王太子という鎧をつけ、色のない世界に生きていただろう。ココと共に生きる願いを実現させる為に全てをかけてきた。念願が叶ってこうやって隣で微笑むココを毎日見ることができ、一緒に暮らせる日々を手に入れて、俺は本当に幸せだ」

 そう言ったリュドヴィックも駆け引きのない純粋な愛情から生まれた笑顔を、コハリィだけに向ける。

「私も、幸せです」

 ココが流す涙を見て、こんな幸せな涙があるのだと初めて知った。


 この幸せを守りたい。俺に幸せを与えてくれるココを、一生かけて守り幸せにする。

 それが俺が手に入れた、夢であり希望だ。


読んでいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 婚約破棄させないように動くところ。 [気になる点] 短編として読むには話がとても長く感じました。 3〜5ページほどに分けた方が読みやすいのではないでしょうか。 [一言] 登場人物全員が等し…
[良い点] 読ませていただきました、面白かったです!
[一言] 社会生活を保つための義務と権利とのバランスをとりながら、自分の求める最大限の幸福のために努力するのが人間だとすれば、この元王子けっこう頑張ってますよね。 まず非公式ですが王女を殺され、武力…
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