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赤いカーテンの向こう  作者: 西松清一郎
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2 事の顛末⑤

 リビングでもまた別の匂いが漂ってきた。しかし、今度のは薬品などではなく、ごく親しみやすいものだった。

「いい匂い」嗅いだ柳はすぐに子供のような声を出した。

 カウンターキッチンの向こうで、エプロン姿の女性が洗い物をしている。女性は我々の姿を認めると、「あら、いらっしゃい」と言いながら、愛想良くほほ笑んだ。


 私と柳がそれぞれ名乗ると、青人が横から補足するように言った。

「こちらは家政婦の俣野(またの)果歩(かほ)さん。大体いつも四時くらいまで、家事全般をやってもらってる」

 それを聞いて、私と柳はそれぞれ感心しながら、「家政婦さんがいるんだ」「すごい」と言った。俣野さんは働く手を休めなかったが、我々の声にくすぐられたように小さく笑い声をあげた。


 見るとキッチンにはすでに、サラダやパスタが盛られた皿がいくつも並んでいる。コンロでは火にかけられた鍋が、蓋をかたかたと揺らしながら湯気を立てている。


 新たな匂いの正体は、この鍋に入ったデミグラスソースである、と私は判断した。食べる前から美味しいとわかるそれらの料理を前に、私の食欲は大いにそそられた。そしてそれは、唾液でも垂らしそうにして横に立つ柳も同じらしかった。


 ただ、最終的に誰がそれらを食べたのかは、今でも私は知らない。勿体ないことに、きっと事件後に捨てられたのかもしれない。少なくとも我々二人は、その豪勢な食事にありつく栄誉に浴することはなかった。


 ぱらっ、と新聞をめくる音がし、振り返ると、ソファーで一人くつろぐ年長の男性の姿が見えた。私が「お邪魔してます」と言おうとすると、それより先に「おお、よく来たね」と(ほが)らかに声をかけられた。


「親父の正一」青人はぶっきらぼうに言った。男性が青人の父親であるという直感が正しかったことを確認し、私は改めて適切な節度により名と肩書きを伝えた。それに続いて柳も、私の言動を模倣するおもちゃのように簡易的に自己紹介をした。


 我々が言い終えると、正一はからかうように青人に視線を向けた。

「莉緒と鉢合わせするかもしれないから、マナミちゃんは来ないか」


 見ると青人は、再び出たその女性の名に顔を紅潮させていた。

「青人くんの彼女ですね」柳が仕入れたばかりの情報をそのまま口にすると、正一がさらに付け加えた。


「そうそう。いつもどんよりした莉緒とは違って、はきはきしたいい子だよ。まあ、何と言っても、莉緒と仲が悪くて、いつだったか彼女、うちに遊びに来たとき、莉緒と口喧嘩して、飛び出すように帰っていったからな。下手にあの子を混ぜて、パーティをぶち壊すこともないしな。莉緒の奴はさっき外出したから、君たちも外で会ったかもしれない」


 私たちが黙ってうなずくと、横から青人が「今日はこの二人の就職祝いだから」と吐き捨てるように言った。


 正一は話したあとも笑顔でいたが、対照的に青人は明らかに居心地悪そうにしていた。青人の性格からして、その(いさか)いについてすぐさま詳しい説明がされるはずはなかった。よって我々は、その父子のやり取りを苦笑いしながら黙って聞いているしかなかった。


 その後、我々二人は、二階の青人の部屋を簡単に見せてもらってから、リビングに戻り、キッチンの前のテーブルについて、しばらく談笑にふけった。


 青人の部屋については、特に取り上げる必要のあることはないように思われる。小学生の頃からの使い古しであろう勉強机、学術書がぎっしり詰まった本棚、金属製フレームのシングルベッド、そしてオーディオ類がシンプルに配置されていて、これらもまた整然とした印象を与えた。

 三階の莉緒の部屋には、やはり暗黙の男子禁制が敷かれているのか、結局最後まで拝見させてはもらえなかった。


 話題は、学生時代の思い出から近況報告に近い形へと移っていった。私と柳はそれぞれ一般的な製造系企業から内定を受けていた。それに対し、特待生として大学院に進む青人は、大手製薬会社の研究部門をも視野に入れていて、必然的に我々の羨望(せんぼう)の対象となった。


「いいなあ、創薬なんて化学系の人間の夢だよな」と柳が言うと、青人は「創薬ができるのは一部のエリートだけだよ。まだ俺がそっちに進めると決まったわけじゃない」と謙遜(けんそん)した。


 とりとめのない会話をするうち、私は何気なく、テーブルの隅に置かれた雑誌を手に取った。それは女性向けヘアカタログで、すっかり男だけの世界になってしまったその場に花一輪でも添えよう、と私自身思ったのかもしれない。それをぱらぱらめくりながら私は尋ねた。

「これ、莉緒さんの?」

「そう」

 答える青人の声を聞いているときも、私はまだページを乱雑にめくっていた。飽きて雑誌を戻そうとしたとき、切り抜かれた箇所のあるページに気付き、私はそれを二人に見せた。


「多分、莉緒が美容室に持ってくために、切り抜いたんだ」ページを見て、青人はそう言った。柳は面白がって私の手から雑誌を奪うと、その切り抜きのすき間に自分の顔を当ててふざけ始めた。

 すると私も、すき間に人差し指を突っ込もうとするなどして、柳の戯れに付き合った。このような和気藹々(あいあい)とした時間は、それから三十分ほど続いた。

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