相馬颯~200年の時を超えて
お気に入りさんの相馬颯さんへの誕生日ギフト小説です。
「すみません。席を代わってもらえませんか?」
そこに座っていた若い男は怪訝な表情で僕を見上げた。
「なんで? 席ならいっぱい空いてるじゃないですか」
「この席でなければだめなんです。だから、お願いします」
僕はそう言って頭を下げた。若い男はぶつぶつ言いながらも席を開けてくれた。自分でもどうしてこの席にこだわるのか判らなかった。ただ、今日、この時間にどうしてもここに座っていなければならないような気がしたのだ。初めて入ったこのカフェのこの席に…。
1819年。文政2年。
当時の江戸は“火事と喧嘩は江戸の華”と謳われるほど火災が多かった。
颯は相馬家の嫡男として家督を継いだ。齢15だった。颯には幼いころから思いを寄せている娘が居た。彼女は茶屋で働く颯と同い年の娘だった。娘は気立ても良く美しい顔立ちをしていて、この界隈でも評判の娘だった。そんな彼女に颯は密かに惹かれていた。しかし、身分の違いから彼女と添うことは叶わないものと諦めていた。そんなある日、近所の廓から火の手が上がった。
「なんだか表が騒々しいですね」
母親が問うと、ちょうど勤めから戻った父親が脇差を預けながら母親に言った。
「川向こうの廓から火の手が上がったそうだ」
「すぐ近くじゃないですか」
「なあに、川からこっちへは火の手も回ってこないさ」
「そうですか…。それならいいんですけど」
そんな会話を聞きつけた颯は心の臓が締め付けられる思いに駆られ、父親に訊ねた。
「その火事の具合は?」
「ああ、あの辺りはみんな燃えちまうかもしれねえな…」
父親の言葉尻を聞くか聞かないかのうちに颯は家を飛び出した。彼女が働いている茶屋は廓のすぐそばにある。
颯が川べりまで来ると火の手は既に向こう岸の川べりまで達していた。橋からの延焼を防ぐために火消したちが橋を落とそうとしているのを目にした颯は急いで橋を渡った。対岸に着くと、火消がぶら下げていた桶を奪い取ると頭から水を被り、更にもう一つの桶を手に取って業火の中へ駆けだした。
「旦那、どこへ行くんですか? そっちは火の海…」
そう呼び止めた火消しの言葉も颯の耳には入らなかった。火消しが言った通り、辺りは既に火の梅だった。あちこちで業火から逃れるために川へ飛び込む人々の姿が目に入った。そんな人々の中に彼女が居ないかを確認しながら、茶屋のある場所までたどり着いた。母屋は既に焼け落ちていた。辺りに人影はない。
「無事に逃げ延びてくれていればいいが…」
その時、焼け落ちた母屋の奥でうごめく人影が見えたように思えた。颯は脇差で焼け落ちてまだ赤みを帯びている材木を払いながら奥へ進んだ。
「誰かいるのか?」
颯が叫ぶと奥から声が聞こえた。
「助けてください。足が挟まって動けないんです」
そこに居たのは彼女だった。焼け落ちた梁の下敷きになって動けずにいた。颯は持っていた桶の水を彼女に掛け、傍にあった材木を手に取った。材木は焼けるように熱かったのだけれど、颯はかまわずに両手で掴むとそれを梃にして彼女の足にかぶさった材木を撥ね退けた。そして、彼女を抱えて川べりまでやって来ると、彼女を抱えたまま川に飛び込んだ。すると、後を追うように数人の男たちが川に飛び込んだ。
「旦那、大丈夫ですかい?」
先ほどの火消したちが颯の後を追って来たのだ。
「俺は大丈夫。それよりこの子を頼む」
颯は彼女を火消したちに預けると、川の流れに身を任せた。
「旦那―」
「旦那様―」
火消したちや彼女の声を聞きながら颯は意識を失った。その刹那、こんな声が聞こえた。
「またここで。いつかまたここでお会いしとうございます。いつまでもお待ち申しております。きっと会いに来てくださいな…」
2019年…。
僕の後ろを通り過ぎたカップルが話していた声が聞こえた。
「ここって、江戸時代に火事で焼けた茶屋があった場所なんだよね」
その瞬間、知るはずのない光景が僕の頭の中を駆け巡った。
「お隣、いいですか?」
若い女性に声を掛けられた。彼女は僕を見て柔らかな笑みを浮かべた。そして、静にこう言った。
「やっとお会い出来ましたね」