夜に爪を
「ん、起きたの?」
「ちょっと夢見が悪くて…たまに、死ぬのが怖くなる」
「そう」
「俺はあんたと、そういうの、どうでもよくなりたい、っていうか、うんと…」
「なに?」
「俺がまた寝入るまで、ちょっとだけでいいから、その、いい?」
「別にいいよ。寂しがりだね」
「うるさいな」
そう言って腕に抱きついて、俺の寝間着にぴったり顔をくっつけると、ゆるやかに深呼吸をし始めた。その度に、俺の中の大事なものが、呼吸のリズムに合わせて、揺れては戻り、戻りは揺れて、ちょっとむず痒いような気持ちになった。
こういうとき、どういう寝顔してるんだろう、なんて思って、暗い部屋とはいいながらも、もう、少しだけ、朝が遠慮がちに窓から俺たちを見てたくらいだから、少し首を傾けた。けれど、少しの隙間もなく、顔と俺の腕が接着していて、短く切りそろえた髪の毛がやわらかく上下している様子しか見えなかった。
部屋には、少しだけ荒くなった呼吸音と、秒針の規則的な音と、「薄明」みたいな音とが充満していた。俺は少しだけ、鼻をすするみたいな音がきこえたのを感じて、あくまでひとりごとのように言った。
「泣いてるの?」
あくまでひとりごとだから、なにもそのあとに続かず、ちょっとだけ腕に絡みつく熱が上がったような感覚だけが、部屋の中に残った。
「夢、怖かったんだ。」
俺はそう言って、偶然、空いていた方の手を伸ばして、偶然、髪の毛を撫でた。気づかないうちに、朝が俺たちの足元に立っていたのに気づいたのは、その時だった。
「おーい、朝、朝ですよ、今日一限あるんでしょ」
狭いアパートの一室の中は、朝が駆けめぐるには十分だった。快晴の日の、いかにも清浄な光が部屋の至るところに転がっていた。フライパンの油がバチバチっと、俺を急かすように音を立てた。
「えっ、もうそんな時間?ね、寝すぎた」
俺が大慌てで服を着替えている間に、要領よく朝食の準備をしている後ろ姿からは、いかにも大学生の一人暮らしで、ちゃんと自炊もそれなりにはしてます、といった強い主張が見てとれた。一瞬だけ、昨日の夢の話をしようかと思ったけれど、あまりに意地が悪いのでやめた。
「なんか後輩に朝ごはんまで作ってもらっちゃうの、申し訳ない。今度なんかおごるよ」
「別に、てか俺の家ですからね?朝飯くらい自分で作りますよ」
「俺の家でもある!」
「あんたは来すぎなんだよ…」
いかにも呆れました、という風にすくめてみせると、俺が身支度をほぼ済ませたのに合わせて、簡単な朝食を運んでくる。
「てか、お前ないの?今日」
「俺はお休みっすねえ」
スマホをみながら、どこか余裕ありげに答える姿は、少し羨ましい。俺は、その顔のどこかに、明け方にみた夢の横顔を重ねた。とりとめもない夢だったのだろうか、それとも深刻な?
「あの」
俺の思考を遮って、珍しく、遠慮がちな目で語りかけてきた。
「夢、みたりしないんですか」
口の中に箸を突っ込んだまま、ぐるぐる記憶を手繰り寄せる。
「夢、ねぇ。みても忘れるから。あ、友だち刺し殺す夢とか覚えてる!」
「うわ、さっぱりした顔で病んでること言わないでよ」
「そっちこそ、なに、夢よくみるの?」
朝の快晴に似合わない、どんよりとした瞳が目の前に映った。俺はベーコンの最後の一切れを口に放り込んで、雑に噛み砕いて飲み込んだ。そのまま、両手を伸ばして、雑に頭を包み込むようにして、撫で回した。突然の攻撃にびっくりしたようだけれども、特になにも言わなかった。俺は白々しく咳払いをして、言った。
「不安なときは、先輩に頼るんだぞ!」
頭をぐしゃぐしゃにされながら、スマホに目を落として、平坦な声色で言う。
「時間、やばくないですか?」
遅刻が決まるか決まらないかのギリギリの電車が、あと七分で行ってしまうのに、このアパートは駅まで徒歩八分だった。俺は最低限の荷物だけを拾い集めて、勢いよく部屋を出た。玄関の扉を閉める力がいつもよりも強くて、我慢していないと、笑いが顔から溢れてきそうだった。アパートの階段を駈け下るときに、足がもつれて転びそうになって、手すりにもたれかかって、
「あいつ、あんな顔するんだ」
と言葉に出すと、文字通り破顔しそうになった。音を聞きつけたのかわからないけれど、後ろからドアの開く音が聞こえた。目線を合わせずに呟く感じで、
「遅れますよ」
と聞こえて、振り返った。お互いの、笑いがすぐ近くに迫っている表情が耐えられなくて、結局笑い合った。一限は、遅刻した。
夢で泣いたりすると、泣いた事実にショックを受けたりします