31.クラージュの気持ち
何か大きな音が聞こえたような気がしてクラージュは一人目を覚ました。
「臭い……」
なんだこの匂いは……。
部屋に充満する甘ったるい匂いに顔をこれでもかと歪める。思考にまで影響を与えそうだ。
ふと、顔を上げあの見慣れた銀髪を探す。意外と過敏なあの方ももしかしたら目を覚ましているかもしれないと備え付けられたベッドを探してみるのだが、彼女の姿はなかった。
「ナタリア様……?」
名前を呼ぶが返事もない。探しに行こうかと立ち上がり、部屋を出てみようと思ったが隣の部屋から音が聞こえ扉に聞き耳を立てる。
「まさか書類を持ち逃げられそうになるなんて思わなかったわ」
「気の抜けた貴族だと思ったけど案外頭は回るみたいだねぇ」
二人とも聞き覚えのある声だ。
「ここまでするつもりはなかったけど、風属性持ちだと私のギフトは効かないし……」
「どうする?このまま置いておくつもり?」
「……朝には港へ連れて行きましょう。部下にそう頼んでおくわ」
足音が遠くなり音が聞こえなくなったのを確認してから隣の部屋へ向かう。慎重に扉を開ければ暗い。目を凝らして中を見てみればクラージュが探していた人物はそこにいた。
「ナタリア様……!」
クラージュは倒れている彼女に慌てて駆け寄るとその痛々しい姿に顔を歪める。縛られ、腕には樹状の火傷があり、しかも首輪がつけられていた。
「クロエ様起きてください…!」
急いで隣の部屋に戻ったクラージュはクロエを叩き起こすがなかなか起きないので氷魔法を使う。
突然の冷たさに飛び起きるクロエの口を毛布で塞ぐ。完全に目が覚めたクロエはすぐさまクラージュを睨みつけた。
「あんた本当に調子乗ってると……!」
「急いでナタリア様を診てください!」
「え!?ナタリアに何かあったの!?」
ナタリアという言葉にすぐさま顔色を変えるとクロエはクラージュと共に隣の部屋に向かう。部屋に入るとその傷ついた姿に目を見張り、口を両手で覆う。
「なによこの火傷…!それに首輪まで…!」
「原因はあの男です。なのでいま治療出来る人間は貴方しかいません」
「アルゴルが!?でもそうは言ったって私もあの時少し教えて貰ったくらいで……」
「う、うん……?」
しどろもどろになるクロエの隣で身動ぎをすると彼女はパチリと目を覚ました。
「ここは……?え、なんかすごいにおいいいたたた!!」
目を開ければ一度見たことのある部屋で鼻を衝く匂いに詩音は周りを確認しようと起き上がろうとしたが全身に痛みが走る。
「ナタリア!」
「一体何があったんですか……?」
痛みに声を上げれば二人がすぐ傍にいて詩音は少し驚いた。クロエが泣きそうになりながら救急箱を持って横に寄り添い、クラージュが真剣な面持ちで事の顛末を聞いてきたので詩音は痛みに耐えながら意識がなくなる前までの記憶を辿る。
「────それで……窓から外に出ようと思ったら光が……あれは雷……?雷が落ちてきて……直撃は避けたけどそこから記憶が……」
「……いまの話と……僕自身が捕まった時のことを思い出した限り、あの男の祝福は匂いによる催眠でほぼ確定ですかね。恐らく僕たちがさっきまで寝ていた部屋にも目を覚まさないように一応祝福を使っていたのでしょう。しかし僕は雷の音で、クロエ様は僕が強制的に覚醒させられた」
「でもどうして私には効かなかったんだろう?」
「ナタリア様は風属性ですから無意識に風で匂いが届かないようにしていたんだと思います」
「じゃあ今、こんなに匂いがするのは……?」
何かに気づいた詩音は自身の両手を握ったり開いたりすると参ったと言いたげに眉を下げた。
「魔法が使えない……」
「……失礼。少し髪を上げてもらえますか?」
クラージュはその一言に驚いていたが詩音についていた首輪に目をつけるとそう指示する。詩音が後ろ髪を持ち上げると近づいて触れないようにそれをよく観察すると告げた。
「これ制御装置みたいです」
「せ、制御装置?そんなのあるの?」
「しかし元々よっぽど魔力が多く力の制御できない子供や犯罪者に使用されているもので使用される場所もかなり限られている代物です。普通はこんなところにある物ではありません。後ろに鍵穴がありますが鍵は……あの男が持っているでしょうね」
「そうなんだ……」
「本当に貴方って人は……」
クラージュのため息に詩音は肩を揺らした。
あぁ、またクラージュくんに呆れられてしまった。
詩音は唇を噛んで俯いた。
頑張っているのにどうしても上手くいかなくて、二人を出して上げることが出来なくて自分の不甲斐なさに詩音は視界が滲む。二人がどんな顔をしているのか見るのが恐くて顔が上げられない。
「ごめん……」
静かな暗闇の中、震える声でその言葉が零れた。しかし先程のアルゴルとのやり取りを思い出し首を振る。
「でもやっぱりそうやって許して貰おうとしてるだけなのかな……」
甘い匂いがする。
私がやってること全部意味なんてないのかもしれない。ここで大人しくしていたほうがいいのかもしれない。
「でも私、やらないと……迷惑かけないようにするから……。一人で頑張るから……ごめん……ごめんなさい」
でも二人がここがいいと言うなら……。
匂いが頭の中をどろりと溶かす。上手く考えられない。
私ってこんな弱音ばかりの人間だったっけ?でも悲しくて苦しくて大事なことをまた……
『───ン様。最後は────────』
■■は──
「うぅ……」
「こんなに必死になってるナタリアにそれでもあんた何も言わないの?」
「……」
俯く彼女を見つめ、怒りだしそうになるのを耐える様な声音でクロエは彼女の前に立つどうしようもない男に聞いた。
「いい加減にしなさいよ。あんたたち両方とも本物の馬鹿だわ。こんな狭い所にいるのが悪いのかしら?陰湿なあんた達にはお似合いだけど私には悪影響ね。二人でそこで仲直り出来ないまま一生いなさい!」
「……子供達を置いていけないのでは?」
「そんな優しさより怒りのほうが上回ったわよ!!本当に有り得ないわ!!」
「……奇遇ですね。僕もです」
そう言って膝を着いた。
俯く彼女の顔を覗き込めば今にも泣き出しそうでそんな表情をさせた自分が何故か無性に腹立たしい。
周りに言われてとっくに気づいていた。だけど恐ろしくて言い出せなかった。
自分の心の内を明かすのは怖い。家族のように他人である彼女に自分の気持ちなんて打ち明けたら同じように馬鹿にされて笑われるのではないかと思ったから。
そんなことをするわけがないと知っていたのに。
直情的で嘘のつけない人で自分から最も遠いところにいる人だ。彼女を眩しく思う。だけど暖かく離れ難い。そんな人の近くにいるには難しいことを考えず自分もそうであったほうがいいのかもしれない。
クラージュはその綺麗な人を真っ直ぐに見つめた。
「でも私の自己満足でしかないから……」
「そんなことはありません」
「!」
クラージュの言葉に顔を上げる。目を丸くしていたが更に悲しげに眉を下げた。
「でも、クラージュくんは自分に迷惑が掛かかるから私が自由になるの嫌でしょう」
そうではないのだ。自分に迷惑が掛かるのが嫌なのではなくて
「僕は……心配なんです」
「え……?」
「一人で飛び出していく貴方に置いていかれるのは勘弁なりません」
直ぐに遠くに行ってしまう人だから、一つひとつ彼女に届くように言葉を紡ぐ。
「僕を頼っては貰えないんですか……?」
すとん
クラージュの中でも何かが嵌る感覚がした。ずっと分からなかった。どうしてこんなにも焦れったく、どうしようもない気持ちに襲われるのか。
厳重に囲ったつもりでも春風に吹かれる花びらのように手から逃れていく彼女を──
「貴方が怪我をしても僕の責任ではありません自業自得です。というか身一つで突っ込んでいくのどうしてなんですかねぇ?おかしいでしょう」
「う゛っ」
「貴方が飛び出す度に僕がどんな思いをしているか知らないでしょうね」
「ご、ごめん」
しゅんとする彼女を見て息を吐く。これは呆れているのではなくて緊張からだ。
「……ですが百歩譲って事前報告なら許します」
「事前報告……?」
「名前を……」
「ただ、名前を呼ぶだけでいいです。そうすれば僕なりの最善を尽くしましょう」
問題はどうしたらよかったのだろうかではなく、どうしたかったか、なのだ。
どんなに最適な答えを出しても彼女が浮かない顔をしていればいつだって胸に靄が残るのだ。
彼女に頼ってもらえなければ自身に出来る範囲でしか留まれない。それでは駄目なのだ。
「貴方の力になります。貴方は僕の力になってくれるのでしょう?」
届け、届けと願う。言葉を時々曲解してしまう人だから。だけど届かないのなら何度だって伝わるまで言ってやる。
暗く沈んでいたはずの青い瞳がいつものようなきらきらと光が差し込んだ。
「────」
濁りのない美しい紫苑色がなぜか懐かしい気持ちになった。
珍しく打算のない微笑みを浮かべ透き通った瞳がこちらを真っ直ぐ見つめている。
心配しているのだと。クラージュはそう言った。
どうして気づかなかったのだろう。傷ついて欲しくないと同じことを願ったのに。
呆然としていた詩音の目が潤む。
「わ、私は……クラージュくんに怪我をして欲しくない」
「流石に怪我をするほど付き合ったりはしません。そうなったら構わず逃げます」
詩音はそうしないだろうと知っていた。クラージュは最後まで付き合う男だ。
「いいの…?」
恐る恐る尋ねると
「そちらこそ……僕は第二王子でも神官の息子でも、騎士でもありませんが?今更代わりは効きませんよ」
皮肉めいたその言葉に詩音は思わず笑いだした。
「……ぷふ」
クラージュは怪訝そうに眉を顰める。
だっておかしいでしょ。
「私が無茶しても危なくなってもずっと傍にいてくれたクラージュくんとがいいの。心配かけてごめんね。ありがとう」
「─────」
クラージュはその言葉に詩音の手を取って強く握る。不思議そうに首を傾げた。
「え?どうしたの?」
「……あのですね……」
何かを言いかけるクラージュの顔を隠すように綺麗な手が割り込んだ。
「もういいかしら?というかそこまでしてる余裕はないのよ」
「クロエ様も心配させてごめんね!」
「本当よ!帰ったら毎日私に付き合ってもらうんだから」
「当然だよ!」
「安請け合いはしないほうがいいですよ」
「自分が上手くいったからって余計なことを言わないでくれる?……さて、これからどうするのかしら?」
詩音とクロエはクラージュを見た。
もう心は決まっていた。そこにはもう何も入る余地はない。まやかしだって恐るるに足らないのだ。
「皆で出ますよ。こんなところ。作戦を立てましょう」




