24.鏡に映るのは誰?
心配するミラに取り繕うも余裕もなく、詩音はすぐに一つお願いをする。詩音の必死さを感じとったのかミラは頷いて部屋を出るとそれをすぐ持ってきてくれた。
頼んだのは一冊の鍵付きの手帳だった。その手帳を早速開くと一心不乱に文字を綴り始める。
それは私だけしか読めない私の国の文字。何千回何万回と書いてきたからこれはまだ覚えていた。しかし万が一のことを考え重要なところだけこの国の文字で書くことにした。これで少しはマシだろうか。
自身の名前、家族の名前、友達の名前、好きな物、大切な思い出。
自身の記憶をメモをしているうちに気づいたことはマジスピの記憶はもう殆ど朧気だということ。家族や親友以外の人のことは忘れていること。
それを今まで全く気づいていなかったということ。
名前を思い出すことはできた。けれど……もう、あの人たちの声はもう思い出せない。
信じられない。認められない。
悲しい。苦しい。辛い。寂しい。虚しい。
「お母さん…お父さん…お姉ちゃんッ…!」
そんな思いもうしたくなくてただただ文字を書いた。
夜が明けるまで文字を書いていたがどうやら詩音は寝落ちていたらしい。気づけば手帳に突っ伏して寝ていた。
目が覚めた時、詩音の心はとても穏やかだった。
それがとてつもなく怖かった。
記憶が、あの時感じていた焦燥が絶望がほろりほろりと痛みも苦しみもなく崩れていくことが自分には止められないのである。
鏡に映る自分は一体誰なのか。
◇
「……ナタリア。もしかして元気ない?」
「え!?どうしたのクロエ様!?」
そう言われて紅茶を見つめていた目をクロエへと向ける。目が合ったクロエは詩音を心配そうに伺っていた。
「だってずっと上の空だし…」
「……」
「でも、言えないならいいわ。だって私たちそんな仲じゃないものね!……」
自分で言っておきながら自分の発言に落ち込むクロエを面白いなと思いながらそれと同時に本当に心から詩音を心配しているそのクロエの優しさに甘えてしまおうかと思った。
言っても信じられない話かもしれないけれどもしかしたら少しは力になってもらえるかもしれない。
この数日遅くまで起きていたせいで鈍くなった頭でそう考えた詩音は少しだけの期待を込めて口を開く。
「……あのね────」
発しようとした言葉が音にならず吐息だけが霧散した。詩音は驚いて自身の喉を抑え下を向く。
「ん?」
「……やっぱりなんにもない」
「何よ!」
言いかけてやめた詩音にクロエは脱力して不満げに声を上げた。そんなクロエにごめんと呟く詩音。
しかし詩音は言わなかったわけじゃない。言えなかったのだ。
喉が干からびたようにカラカラで音にならなかった…。まるで魔法を掛けられたみたいに。
どうして…。情けなく呟いた言葉はクロエには聞こえなかったらしい。困惑している姿を見せて更にクロエに心配を掛ける訳にはいかないと詩音は喉を撫で、しっかり口角を上げてからクロエにその表情を見せる。
「クロエ様心配してくれるの?ありがとう」
「ばっ、違うわよ!いつにも増して貴方が間抜け面してるから笑いを堪えるのがもう嫌なの!」
よく分からないツンを見せるクロエに詩音は可笑しそうに微笑むがそれが無理に笑っているようにクロエには見えた。
今日は珍しくクロエ、詩音の二人っきりでのお茶会だったのだ。クロエは邪魔者がいないので最初は心から楽しんでいたが流石になんだかおかしいと眉を顰めた。ナタリアは元気がなく、クラージュはたぶんクロエが来るとわかっていてナタリアと一緒にいない。
「あいつと喧嘩でもしたの?」
そこから考えることなど当然一つしかないことだがクロエに直球で聞かれ詩音は苦笑する。
詩音の今のもう一つの問題だった。あの事件の後からクラージュとはまともに会話出来ていないのだ。
あの時のクラージュの表情を思い出して気持ちがまた沈んでくる。
「たぶん、そうなのかも」
「随分曖昧じゃない」
「喧嘩というか、私がクラージュくんを怒らせちゃったの。立ち回りを考えて下さいって言われちゃった。…私がすることがクラージュくんまで巻き込んじゃうのは良くないよね」
「それは……」
思い出してはため息を吐く詩音をなぜか眉を顰めて何か考える仕草を見せるクロエ。
「自分でもダメってわかってるんだ。だけど……」
「大人しくしてなんかいられない。貴方はいつだってそうだったじゃない。貴方ほどのお節介で出しゃばり見たことないわ」
「うん……」
「それをあいつは……」
ぶつぶつ呟くクロエにどうかしたのかと問いかけるが何でもないと一蹴されてしまった。
「どうしたらいいんだろう……」
クラージュは今はリアムと一緒に授業を受けているがたぶん終われば顔を合わせずに帰ってしまうだろう。
それがなんだか寂しい。
「…それを解決する方法が一つあるけれど──…私もそこまでも酷い人間じゃないからそれは言わないであげる。だってあんたもあいつも勘違いしてると思うし」
「え?」
「なんでもないわ。……ね、五日後私の家に来ない?」
突然のクロエの提案に詩音はきょとんとする。クロエの家に招待されるなんて初めてだ。
「クロエ様の?いいの?」
「いいの。前から誘いたいと…コホン!実は殿下も来るの。でも殿下っていつも二人従者連れてくるのよ?そんなの卑怯じゃない。私もと…とも……下僕を連れて行こうと思って!」
クロエの可愛らしい理由に詩音は悩むことなく二つ返事で引き受ける。
「それじゃあ五日後!……まぁ、もし…もし一緒に連れていきたい人がいれば連れてきてもいいわ。私もその時くらいは喧嘩しないであげる」
「?」
「あ、もう時間じゃない!名残惜しいけどまた会えるものね!」
足軽に出て行ったクロエの背中を見送った詩音はもう一度冷めた紅茶に映る自身を見て、ため息を吐いた。
そんな詩音には気づかずにクロエはご機嫌でマノンと共に部屋を出る。と、何の巡り合わせか丁度違う部屋からクラージュが出てきた。
「うげ」
「げ」
二人同時に出た嫌そうな声。そのまま足早に去ってしまおうと思った。しかしクロエは先程のナタリアの落ち込んだ様子を思い出してその場になんとか踏み止まって既に背中を向けているクラージュに言葉を投げる。
「ナタリアと喧嘩でもしたの?」
「……クロエ様には関係の無い事だと思いますが?」
足を止めクロエの方をめんどくさそうに振り返るクラージュ。相変わらずの態度の男にクロエはど突いてやろうかと思ったが咳ばらいをして腕を組む。
「まぁ、それはそうね」
顎を上げて高圧的な態度で笑うクロエに怪訝そうに片眉を上げるクラージュ。
「惨めで情けない貴方に助言くらいはして上げようと思ったけれどやっぱやめたわ。だって、私には関係ないことですから」
「そうですか。……なら、早くお帰りになられては?」
クロエはグッと口を固く結んで耐えるように目を閉じていたが大きな舌打ちをした。
「ナタリアが言ってたわ。これ以上あんたに迷惑を掛けないにはどうしたらいいかって」
「……」
「そんなの簡単よ。婚約解消すればいいの」
婚約解消という言葉にぴくりと反応を見せるクラージュ。そんな彼の反応に笑いだしてしまいそうだった。
どうしてこうもあの子の周りにいるのは自分を含めて素直じゃない人間ばかりなんだろう。
「わかりやすいのよ。あんたはともかくナタリアは。あんたたちが婚約してるのは親に言われたからだけなんかじゃないでしょう」
クラージュがクロエの方に向き直る。二人が正面切って対峙する。
「打算の為にナタリアと付き合ってるなら別れなさい。大人の事情云々なんて関係ない。あんたなら出来ないわけではないでしょう」
互いが互いに大嫌いだからこそ良いところは絶対に目に入らなくて、嫌なところだけは目に入る。
クラージュという人間が頭と口先が誰よりも回る奴だと騙されて取り残されそうになったクロエ自身が一番知っていた。
だからこそそうしていないのは…
「誰よりも他人のことを優先して周りに迷惑をかけてしまう。そのことを自分でもよくわかっていながらそれでも止まれない。あんた、私よりも長くあの子と付き合っていながら未だにそれをわかってないの?」
目の前に瞳が揺れる。それに本人は気づいているだろうか。
「そんなことないわ。あんたはそれを分かっていながらどうすれば分からないのでしょう。私は優しいからたくさん問いかけてあげる。あんたが本当に気にくわないのはあの子が自分に迷惑をかけること?あの子が自分の思い通りにならないこと?あんたはあの子にどうしてほしいの?」
「……」
「それがわからなければ早く婚約解消でもすれば?そうしたらあんたが迷惑を被ることなんてないじゃない。あんたのことは知らないけどナタリアには良い人紹介するし」
クラージュは何も言わなかった。どうやらまだ分かっていないようだ。しかしそれ以上はクロエは教える気はなかった。あくまでナタリアの為なのだ。クラージュが気づかなければそれこそ別れた方がいい。
「いつまでお子様気分なのかしら」
今言いたいことは言ったのだ。いつまでもこの男と同じ空間にいたくない。
クロエはさっさと歩きだす。振り返りはしなかった。だってあんな奴どうでもいいのだから。
「クロエ様…このマノン。感動しましたわぁ」
「……もう二度と言わないわ。婚約やめてほしいのは本当だし。どうしてあんな男がナタリアの…」




