12.愛を知らない悪役令嬢
頬を叩かれたクロエがその場に尻もちをつく。左頬を押さえ何が起こったのか全く分からないという顔をして詩音を見つめた。
詩音はそんなクロエを怒りに満ちた顔で見下ろし拳を強く握り直す。彼女はあまりにも何も知らな過ぎた。
「もう勘弁ならない。はっ倒す!」
「わー!ちょっと待ってください!もうはっ倒してます!!」
怒りに身を任せて一歩踏み出そうとすれば、叫びに近い声を上げたクラージュに羽交い締めにされクロエから引き離される。
「ちょっと止めないでよ!!」
自分を止めるクラージュにムッとしてその非力な腕から逃れように藻掻くが、いったい身体のどこに溜めていたのかと聞きたくなるくらいの力で抱きしめて詩音は動けない。
クラージュは必死に冷静ではない詩音を何とか止めようと耳元で咎めてくる。
「いくらなんでも相手が悪すぎますよ!!すぐに謝りましょう。いまならまだ間に合います。間に合わせます」
詩音はクラージュの表情を見るために首を捻った。
「僕と接するのとは訳が違うんですよ。彼女はこの国の宰相の娘でこの国の王の息子の婚約者です。彼女になにかあれば私たち首が飛びますよ!最低でもお父上から絶縁を言い渡されてもおかしくないです。……今すぐ謝りましょう。僕が何とかしますから」
目が本気だった。自分が大人しく頷けば本当にすぐにでもクロエを説き伏せてしまいそうなそんな真剣さが感じ取れた。そんなクラージュを見て詩音は深い深い溜息を吐いた。
「そうだね。わかった……」
「!」
「はっ倒したりはしない」
しかしこの女、これだけ必死に止めてもはい、わかりましたと素直に止まるような女ではない。暴走バイクよりもタチが悪いのである。
詩音はクラージュの肩にぽん、と手を置いた。目を伏せて、分かってると言いたげな表情にクラージュは安堵する……が、
「私に何かあったら家族を見返すためにした婚約が白紙になる。計画が水の泡になっちゃう。それは確かに困るよね……」
「は?」
「クラージュくんに迷惑かけないようにお父様にいろいろ口添えしておくから!クラージュくんの才覚ならもっといい人見つかる………ていうのはあまりにも無責任か……。私、絶縁とかされても絶対にクラージュくんの隣に這い戻って立派にプロデュースするから!!だから私は好きにさせてもらう!」
「は……?」
勢いだけはある宣言にクラージュがこの女、何を言ってるんだ……?と言いたげな表情をして呆気にとられているうちに詩音は踵を返してクロエへと向かっていく。
詩音も鈍い訳では無い。クラージュは自身の為ではなく、本気で自分を心配して止めてくれていることは分かっているのだ。初めて会った胡散臭さそうな姿と違う必死に詩音を止める姿はクラージュの変化を感じられて無碍に扱ってしまったことに少し後悔する。だけど、ここで止まる訳にはいかなかった。
目の前に座り込む少女の前に立つ。
クロエ・ダルティフィスはこの世界において悪役令嬢なのだから。この子をこのままにしておけるわけなかった。
「あ、貴方いったい誰に手を出していると思っているの!!この国の宰相、ダルティフィス公爵の一人娘で次期国王の正妃になる者ですわよ!あなたがやったことは不敬罪にあたるのわ!こんなことをしてただで済ませないわよ!!」
クロエは目の前にいる詩音に扇子を向け、凄むように大声でそう言うと睨みつける。しかしそんな脅しめいた言葉にもう怖気つかない。今、クロエは微かに詩音に怯えていた。
背筋を伸ばして胸を張り、びしりとクロエに指を差す。
クロエ・ダルティフィスは悪役令嬢だ。そんな相手に脅えた姿など見せてはならない。
「タダでは済まないことなんて重々承知の上!覚悟は決まった!!お父様にでも誰にでも言ったらいい!今の私に怖いものなんてないから!」
「ッ──」
詩音の勢いにクロエは一歩慄く。詩音の毅然とした態度に嫌悪する目が、得体がしれないものを見る目に変わる。
「この際はっきり言わせてもらうわ!マノンさんを解雇なんてどういうつもりな訳!?」
それを気丈に隠していつものように扇子で顔を隠し、相手を馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「どういうつもり?どうもこうもないわ!前々から使えないと思っていたの!鈍臭くて余計な口出しをして邪魔をする。使えないものに価値等ないわ!使うなら新しくて従順な物のほうが良いに決まっているでしょう?私の家柄であれば手に入る!だから捨てて何が悪いの?」
「……クロエ様の言い分はわかった。……一言言わせて……バーーーカ!!!」
クラージュは卒倒しなかった自分を心の中で褒めた。
まさかそんなことを言われると思わなかったクロエは耳から首元まで怒りで真っ赤に染めてわなわなと震える。
「馬鹿ですって…!?」
それぞれの様子を目の当たりにしても詩音の態度は変わらない。
「そうよ!だって誰かに好かれたいと愛されたいと思いながら、自分に手を伸ばしてくれる人を自分で捨てたんだから!ほんっとバカ!」
「なっ……何を訳の分からないことを!」
ほんとに訳が分からないのだろうか。クロエがやってきた嵐の一週間を振り返る。
「見てたらわかるよ!ク、私の婚約者のことこの人は自分に優しくしてくれて、自分に逆らわず肯定してくれる。何をしたって自分の味方をしてくれるってそう思った!だから一週間も着いて回ったんでしょ!鬱陶しい私から引き離したかったんでしょ!」
「違う!」
「何が違うの。我儘で傲慢、気に入られなければ首を切られる。ダルティフィス家の暴君令嬢には近づくな。そんな風に言われてるクロエ様に他に味方してくれる友達がいるの?それとも他の理由で私の婚約者に引っ付いて回ってたわけ?」
「ッ……」
「思ったんでしょ!この人は婚約者には構って貰えなくって、悪い噂ばかり流れて友達がいない嫌われ者の自分を好いてくれる唯一の人だと!」
クロエ・ダルティフィスは悪役令嬢だ。だからこんな言葉に耳なんて貸さないだろう。
耳を塞いでしまいそうなクロエの右手首を握って一言も聞き逃させまいとする。大事なのはこれからだ。
「貴方は全く気づいてなかったけどマノンさんがその一人だったんだよ」
その言葉にクロエはありえないと首を強く振る。
「そんなわけない。あの子はいつも私のすることに反抗してた」
「反抗したのは貴方に知ってもらうためでしょ!悪いことをすればそれだけ周囲は貴方を軽蔑する。そんなことがないように止めていたの!貴方がそれに耳を傾けていれば周りの環境も変わっていたのに」
「うるさい……」
覚えが少しでもあるのだろう。唇を噛んで皺になるくらいスカートを強く握りしめる。これ以上聞きたくもないのに止まることのない詩音の口はさぞかしうざったらしいだろう。
だけどうざったらしいだけでクロエ・ダルティスは悪役令嬢だから心を痛めてなんかいないだろう。
「マノンさんは言ってた。貴方に誰よりも幸せになって欲しいって。その気持ちに微塵も気づかないなんて。…自分に口煩い人には愛されていると思えない?自分が目に留めない人に愛されていても価値がない?愛しもしないで傷つけるだけなのに愛情の選別までするの?」
「うるさい!」
「それならなんて身勝手なの。そんな自分の都合のいいことだけしか受け入れないでそんな奴が未来と国民を背負う国王の妃?笑わせないで」
「ッ────!!」
「気づいてよ!まだ間に合うんだから!」
クロエ・ダルティフィスは悪役令嬢だから──
クロエが左腕を振り上げた。鋭い音ともに走る痛みに握っていた右手首を離して一歩退く。
右頬が痛い。でもこんなの自分がクロエを叩いた時に比べたらきっと可愛い痛みだったのだろうと詩音は頬を押えてクロエを見据える。
「わからないわよ…」
クロエは左手を押え、肩で息をしながら、声を震わせて詩音の言葉を否定する。その目は僅かに潤んでいた。
「貴方はそんなふうに言うけど私にはなにも、なんにもわからないわ!あの子は私にあんなふうに接してくれたことなんかなかった!お父様も婚約者も使用人も私の頭を撫でてはくれない!」
詩音の言ったことが一つも理解できないと髪を乱して首を振り、こちらを睨みつける。憎くて憎くて堪らないとその瞳が語っている。
「貴方、知っているんでしょ!私がお父様に何を言っても取り合ってくれないこと!だからそんな風に好き勝手言ってるんでしょう!」
クロエから出た言葉に詩音は目を丸くする。クロエの父親はクロエの傍若無人の振る舞いに我関せずな態度をとっていると思っていたが、どうやらクロエ自身にも関わりを持とうとしていないようだ。
今までのクロエの脅迫めいた言葉は虚言だ。父親の力が無いクロエなんてただの女の子だ。
そうだ。クロエはただの女の子だったのだ。
そこで詩音はようやく気づいたのだ。
クロエは愛情を欲しがる普通の女の子だと。
「貴方に分かるわけないわ…貴方がいなければ…こんな…こんな惨めな気持ちにならなかった…」
悔しそうに顔が歪むとボロボロと泣き出していた。
「婚約者に愛されて、両親に愛されて、兄に愛されて、侍女にまで愛されて!私にはそんな風に私を見てくれる人なんていない!」
溢れる涙を拭うこともせず詩音に嫉妬の眼差しを向けて胸の内をさらけ出す。
「なんでわざわざこの私が来ているのに貴方の家行くのよ!なんで貴方の話は聞くのよ!なんで貴方には優しく微笑みかけて抱きしめて髪を撫でるのよ!どうして!どうして……」
ぐっと耐えるように口を結んで、吐き出した。
「みんなみんな大っ嫌いよ!!」
そう言うが否や部屋から飛び出して行った。
走り去る背を見て、その後に続くクロエの使用人を見て、呆然としているクラージュを見て、扉を指差す。
「……クラージュくん。行って!」
「え?」
「さすがに私が追いかけるわけにもいかないし、泣かせたまま帰すわけにはいかないでしょ!馬車はいつも通り用意してあるから!……あと任せにしてごめん!!」
「は、はい!」
詩音の言葉に頷いて慌てて部屋から出ていった。
自分しかいなくなった部屋で思いっきり自身の額を殴る。
「ッ──!……私、クロエ様のことただの悪役令嬢としか見てなかった……」
ゲームの悪役令嬢。クロエ・ダルティフィス。彼女の振る舞いは人の心を顧みない、まさに非道。
だから無意識に彼女が悪いのだと思っていた。はっきり言って止めないといけないと考えを改めさせないといけないと思ってた。
だから彼女のことを考えるのを少し疎かになっていた。どうして彼女は誰かにあんなに好かれたいと思っていたのに与えられた愛情に気づくことが出来なかったのか、それはどれが本当の愛情なのか分からなかったからだ。
愛情を与える両親が傍にいない。信頼する友達がいない。正しいことを教えてくれる身近な人間がいない。クロエを懐柔して父親に取り入ろうとする打算的な大人はいて、環境がクロエを我儘で愛し方を知らない令嬢に変えるには十分だった。
本当の彼女は普通の女の子でしかなかったはずなのに。
「バカだ」
明日、クロエ様に謝ろう。言ったこと全て撤回はしなけど頬叩いたことだけは謝ろう。そしたら話を聞かないと。あんなことをすればもう会いに来ないかもしれない。その時は自分が会いに行こう。
空は雲がかった灰色でもうすぐ雨が降りそうだ。




