10.彼の胃痛が止まらない
「ちょっとクラージュくんどう言うことなの!」
クロエの登場に激しく動揺しながら彼女を客間に通した詩音は部屋の外で待っているクラージュの元へ早足で詰め寄り、右手をクラージュの顔の真横に音を立てて勢いよくついた、いわゆる壁ドンの体勢だ。
しかしその状況に顔を赤らめることなくむしろ青くしながらクラージュは慌てて答える。
「僕が聞きたいですよ!ナタリア様の家に向かっていたら馬車が通り掛かってそこからクロエ様が出てきて街に連れていこうとしてくるし、あの人なんなんですか!?」
偶然出会うにはクロエの家は二人の家と随分と距離がある。馬車を走らせクラージュを待っていなければ会えるはずがない。
「……クラージュくんめちゃくちゃ気に入られちゃったんだね」
「まさかこんなことになるとは……」
二人同時にため息を吐く。しかしこのままではいられない。クロエはあの部屋の中で待っているのだ。詩音は気持ちを入れ替えるように強く拳を握った。
「……よし、こうなったのも何かの縁。昨日のは何かの間違いと思ってクラージュくんのためにもクロエ様と信愛度を深めてみせるわ…!任せて私の本気見せてあげる。砂を投げられようが殴られようがかかってきなさい!」
「穏便に頼みます。ほんとにお願いしますよナタリア様」
不安そうなクラージュを安心させるように親指を立てながら笑顔で部屋に入る。そんな呑気な詩音にクラージュは胃痛を酷くさせた。
部屋に入ればちょうどクロエは優雅に紅茶を飲んでいた。しかし一口飲んだかと思うと無表情で紅茶のカップを持ち上げ、手を離す。カップは中身が入ったまま重力に引かれて落ちていき、派手な音を立てて割れる。その行動に呆気に取られているミラを見上げて告げる。
「不味いわ。貴方こんなものを呑ませるなんて何を考えてるの。入れ直して」
「え……?」
「ちょ、ちょ、ちょーっと!何をしてるんですか!」
クロエの突飛な行動に詩音は急いでミラとクロエの間に飛び込む。 クロエは詩音の姿を見るなり嫌そうに顔を歪めた。
「なにかしら」
「あんな風にカップ割ったら中身とか破片が飛び散って危ないでしょう!」
え、そこ?とクラージュは口に出したかったが既で耐えた。
自身を咎める詩音にクロエは鋭い視線を向け、気に食わなさそうに腕を組む。
「なに、私に指図するの?」
「いいえ。でも危ないので……」
「私の勝手でしょう」
「えぇ………」
ツンと顔を背けるクロエに困惑する詩音。それを後ろから見ていたクラージュは思わず詩音と代わるようにしてクロエの前に立つと頭を下げた。
「大変申し訳ありません。ですがこれも令嬢に身を案じての行為。どうか慈悲深いお心を」
「……ふん!なら、早く片付けなさい!」
その言葉に呆気に取られていたミラは我に返り、破片に手を伸ばしかけていた詩音を制して手早くカップを片付け部屋を出た。
「マルスが一体どこに行くのか興味本位で着いていけば……。やっぱりあのまま街に向かえばよかったわ」
先程までの出来事をなかったかのようにクラージュとナタリアを見てクロエはため息を吐く。
「クロエ様にそのようなことをして頂くわけには……」
「それにしても」
クロエはクラージュの言葉を遮って喋り始める。視線の先には詩音。クロエは品定めするように見て、笑う。馬鹿にするような蔑むような視線。詩音はそれに気づいて不快そうに眉間に皺を寄せた。
「まさかマルスの婚約者があのミストラル家の長女。ひきこもり令嬢のナタリア・ミストラルなんて」
「……」
「名乗りたくないわよねぇ。貴方の存在自体が家の恥なのだから。身上の者に名乗るなんて。私なら恥ずかしくて死んでしまいそう」
「……」
言い返してやろうと開いた口は、クラージュの焦った顔を見てしまったことでまた閉じてしまった。握った拳もゆっくりと開く。
「……ただの庶民なら私に名前を偽る無礼、一家共々打首にしてやったけれど…、貴方の両親の可哀想な身の上に同情して今回は見逃してあげるわ」
「……………寛大なご配慮に感謝いたします」
気に食わない詩音が頭を下げたことでクロエはとても満足そうに笑った。
クラージュは大人しく頭を下げたことに拍手の一つでも贈りたかった。
機嫌が良くなったクロエの傍に昨日見た使用人が近づいた。クロエに耳打ちをすれば笑顔は一気に煩わしそうな表情に変え、立ち上がる。
「時間みたいだから帰るわ。残りの紅茶はあなたが全て飲みなさい」
わざわざポットを持ち上げて詩音に渡したクロエはそのまま部屋から出ていく。慌てて二人が見送りに外に出ると既にそこには朝でも分かりやすく光り輝いてそうな派手な馬車が一台。そのセンスに詩音は頬を引き攣らせた。
クロエは既に馬車に乗り込んでおり、目が合った詩音を鼻で笑えば見計らったかのように馬車は走り出した。
「な、何しに来たのあの人~!?」
嵐のようにやってきて去っていったクロエ。本当に何しに来たのだろう。ただ自分をいびって帰っただけな気がするが気の所為だろうか。まさかそんなわけない。忙しい身であるはずの公爵令嬢が自身を虐めるだけ虐めて帰ったとかそんなわけないと無理やり自分を納得させる。
「きっとただの気まぐれでしょう。まさかまた来るなんてありえません」
一番精神を擦り切らせていたクラージュは疲れたように息を吐いて言った。それフラグ立ててる?と聞きたかったが本当に来たら困るので何も言わなかった。
次の日、青ざめた顔でクロエと共にやってきたクラージュに詩音は頭を抱えたくなった。
クラージュくんがあんなふうにフラグ立てるから!
◇
「クラージュくん、私、喜ばしいことだと思ってるよ。クロエ様は公爵の娘だから今のうちに仲良くしておけば輝かしい将来を約束されるかもしれない。それはクラージュくんの目標が早々と達成できるってことでしょ?良いことだと思う。ほんとよ?婚約解消とか言わないし、クラージュくんの家にも何も言わない。だから、うちの家を集合場所にするのやめてくれない?クロエ様をうちの家に連れてくるのやめない?ね?」
ミストラル家の玄関にて、詩音は相手を家の中に通さないように僅かに扉を開けてなるべく優しい声でそう伝える。その相手はクラージュだった。
クロエは自分のことを褒め称えるクラージュのことをそれはもうこれ以上ないくらい気に入ったようで毎日会いに来るようになった。その度に二人で交流すればいいもののクラージュはナタリアの家に来た。詩音のことは一切気に入らないクロエはミストラル家に来る度に目に見えて不機嫌になるのだ。そんなクロエのご機嫌取りをしなけばいけなくなるのにどうしてクラージュがうちに来るのか詩音は分からなかった。
……はっ、もしかしたらクラージュくんは私が他の女と遊んでいることに機嫌を損ねてクラージュくんの家になにか言うのではと心配しているのでは?心外な。懐の広さは大海原並の自信があるのに。しかしそれならば不安を取り除いてあげればいい。
そう思った詩音は早速、玄関の扉を開けてうちのことを心配に思うことは無い。今日は二人で他所に遊びに行ったらどうだと直球に伝えてみた。その言葉にクラージュはにこりと笑い、
「嫌です」
「嫌です!?」
即答だった。
しかし今回は詩音も譲れないそろそろ詩音は限界なのだ。自分を目の敵にして何かと嫌がらせと嫌味を言うクロエに今は引き攣った笑顔で対応しているがもう脳内では何回か殴っている。クロエがミストラル家を潰すのが先か、詩音がクロエの横っ面を張り倒して家を潰されるのが先かのどちらかの瀬戸際なのだ。こんなの詩音のデメリットしかない。
玄関の扉を閉じようとするが、クラージュも譲れないのか扉を閉めさせまいと体を捩じ込む。
足を入れてこないで。本気で扉閉めるから足挟んだりしたら絶対痛いから。
「四日目!これでうちに集まるの四日目!五日連続で会ってわかったの!クロエ様私のこと嫌い!」
「知ってます」
「知ってます!?」
え、なに嫌がらせ?
クラージュはそんなことをする奴だったのかと信じられないものを見る眼差しを向けるがクラージュは落ち着いた声でナタリアを諭すように告げる。
「ナタリア様。一週間過ぎた頃から本番です。もしかしたら運良く仲良くなれる可能性もなくはないのです」
経験者は語ると言いたげな目をするクラージュに一体彼に何があったんだと詩音は思った。
自分が同じようなことをしていたことはすっかり忘れているようだ。
「なので二人っきりにはしないでください」
「二人だと緊張して上手におしゃべり出来ないわけ?」
それはきっと恋なのでは。ちょっと茶化してやろうと思ったが、
「そうですね。あの方の機嫌を悪くしてはいけないと考えてしまうって震えが出てきて、眩暈と吐き気と胃痛がが止まりませんね。」
「それは……恐怖なのでは……?」
思ったよりも重症なクラージュの肩を慰めるように叩いた。顔をよく見れば隈が少し出来て、心做しか痩せた気もする。
「う……、また眩暈がしてきたので入れてもらってもいいですか?」
「嫌」
しかし、それとこれとはまた話しが別である。そうなるに至ったのはクラージュの自業自得なのだから。詩音はすぐさま扉を閉じようとする。
「……」
「ちょっとちょっと!無理矢理入ってこようとしないで!」
扉の前でそんな押し問答を繰り広げていると、
「マルス」
その声に二人は同じ顔をして同時に振り向く。望んでいなかった客人は燦々と照り付ける太陽の下で日除けの傘を使用人に差してもらい、玄関から少し離れた位置で立っていた。太陽すら霞んでしまうような美しく煌びやかな赤の髪色とは対照的に落ち着いた笑みを浮かべ、彼の偽名をもう一度呼ぶ。
「それどうにかしていただいてもよろしいかしら?このままでは日に焼けてしまうの」
まるで置物のように詩音を指すクロエに詩音は眉を寄せる。
「あのですね……、ちょっと……今日は……」
「早く」
急かすクロエにどうしたものかと眉を下げるクラージュ。それを見た詩音はしょうがないと扉を開けた。
「……どーぞ。ミラ、飲み物を用意してもらってもいい?」
「かしこまりました!」
扉を開けたにも関わらず少し離れたところで詩音に声をかけられるのを律義に待つクロエに詩音は愛嬌のある笑みを湛えて、頭を下げる。
「御機嫌よう、クロエ・ダルティフィス様」
「あら、ナタリア・ミストラル。御機嫌よう。随分と客人を待たせるのね。」
「今日も客人が来る予定はありませんでしたから。わざわざ、準備していたんですよ」
わざわざを強調する詩音、心底気に入らないと言いたげな顔をするクロエ。互いに挨拶もそこそこに客間に向かう。クラージュは二人の一歩先を歩き、詩音とクロエはその後ろを横並びで続く。
「相変わらずで約やかで貴方に相応しいお家ね」
「そうですか。クロエ・ダルティフィス様のお家はさぞかし大きくて無駄に派手なんでしょうね。貴方のその姿を見ていればお家がどんな風なのか簡単に想像できます。」
「……」
「……」
クラージュは背後から感じる刺々しい雰囲気に身震いした。玄関から廊下までの道はギスギスとした雰囲気だが客間に入れば少し雰囲気が穏やかになる。紅茶を飲みながら詩音は二人の会話を聞いて、クラージュが時々振る話題に相槌を打つ。話の内容は基本的にはクロエの自慢話だが、この国の状況や彼女の周囲の人間についても聞くことが出来るので悪くはない。
「──だからマルスはこの女よりも私の方が優れてるって分かるわよね?」
時々こんな風にクラージュくんに話を振るのは辞めてほしいとは思うが。
「……え?えっと、僕は……」
「……なに?まさか私がこの女よりも劣ってると言いたいわけ?」
「いや……」
クロエを褒め称えることは余裕なのにクロエが詩音と比べる発言をすると何故かハッキリしなくなるクラージュ。そんな態度のクラージュに苛立つように声を荒らげていくクロエ。咄嗟に詩音はクラージュの脇腹を肘で突く。
「痛っ」
「公爵令嬢のクロエ様と私、比べるなんてそんなの結果は目に見えてるんだから聞くまでもないでしょう。彼は私の婚約者なんですから私を傷つけないようにしてくれてるんです。聞かれなくてもクロエ様のほうが優れてるよね?ね?」
「………そうですね」
「それもそうよね。……紅茶がないわね。ナタリア・ミストラル」
「はいはい」
詩音に見えるようにカップを軽く持ち上げ紅茶を持ってこいと合図するクロエに適当に返事をしながらポットを両手に持ち大人しく部屋から出る。なにかと名指しであれを持ってこい、何をしろと命令されて部屋を追い出されるのにももうすっかり慣れたものだ。
しかしあの我儘なお嬢様にいったいいつまで振り回されるのかと考えると詩音は自然と眉を寄せため息を吐いた。
ぽよん
「あ、すいません」
何か柔らかいものとぶつかった詩音はポットを守りながら一歩下がる。ぶつかった相手は胸に手を当てゆったりと微笑む。
「こちらこそ申し訳ありません。大丈夫かしら?」
「マノンさん…!」
その人がクロエの使用人マノン・アベニールだとわかった詩音はさっきとは一変して輝いた瞳で駆け寄る。苛烈なクロエの攻撃を受ける詩音にとってマノンは唯一の癒し、回復ポイントだった。
「いつもお世話になってしまってごめんなさいねん」
「いいえ!全然大丈夫です!」
詩音の頭を撫でるマノンに笑みが零れる。この五日間、クロエが傍若無人を働いた分だけマノンは詩音に良くしてくれた。お菓子をくれたり、こうして頭を撫でてくれたりと。間延びした口調に全てを包み込みそうな柔らかな体型。クロエの態度にも我慢出来るのはマノンのおかげだ。
これならまた頑張れそうだと意気揚々と二人のいる部屋の扉を開けた。
「遅いのだけど、この窮屈な建物で何をしていたのかしら?」
「温いわね。入れ直してちょうだい」
「礼儀知らずで紅茶一つも入れられないなんて貴方、逆に何が出来るの?」
「この……!」
肩を震わせ握りこぶしを作った詩音の前にクラージュが勢いよく飛び出す。
「はい!僕、今日は胃痛と眩暈と吐き気と頭痛と寒気と胃痛が止まらないです!」
「あら、大変ねん!今日は皆お家でゆっくり休んだ方が良いわ~!」
「帰りの馬車は既に手配してますよ!しっかり療養してください!」
「ありがとうございます!ということで解散!」
クラージュの合図と共にミラは扉を開け、マノンはクロエを連れて部屋から出ていく。三人の連携によってクロエの横っ面を張り倒さずに済んだ。詩音の不満を吐き出すようにため息を一つ吐いた。




