P.15 「表か裏か」
その獣は怒りに支配されていた。
ズキンッと、腕に激痛が走る。
「Ga……GAAAA!」
あの虫が!
餌如きの虫が!
止まらぬ痛みに耐え切れず左腕を掻き毟ろうとするが、その左腕は存在せず空を切る。
それが尚更怒りを増幅させる。
『────!─────ッ!』
……ああ、煩い…………。
頭の片隅で何かが囁いたような気がする。
これだ、先程からのこの音もそうだ。
この音が永遠と頭に響いている。
以前は春の微睡のように心地よい物ではあったが、今となっては不愉快でしかない。
こちらの怒りを削ぐかのように囁き、しかし、怒りなど治るはずがない。
「Ga、AAAAAAAA!」
囁きに塗りつぶされなよう、慟哭をあげる。
…………殺す。
殺す殺す潰して殺す殺す食い殺す腕を食らって足を潰して悲鳴を上げさせてゆっくりと殺す殺す殺す殺してコロシてころす殺す殺す殺す───殺してやるッ!
激情に任せ、標的を探して歩き回る。
……必ず殺して絶望を───、
「────ファイヤーボール!」
クリムゾンベアの右側頭部に火炎球が当たり、ボンッと小さな爆発が起きる。
◆
ハジメは息を潜め、十二分に周りを確認をしてから、
「ファイヤーボール!」
放った魔法はクリムゾンベアに着弾した。
しかし、これといったダメージは全く見えず、毛を少し焦がすだけで終わる。
ギラリとクリムゾンベアがこちらを睨む。
殺意の込められた血眼にゾワリと身体が震えるが、後退りはしない。
「Gaaaaaaaaaaaaaaaa!」
「そうだ!追いかけて来い!」
ハジメはクリムゾンベアに背を向け、全力でダッシュ。
背後から牙剥く破壊音が急速に近づいて来るが、ハジメは振り向かない。
逃げる。逃げている、だが、最初とは違う。
恐怖に駆られての目的無き逃走ではない。
……絶対ェ打ちのめす!
ステータスの差は歴然。
あれ程あった差はものの10秒で縮まり、ドス黒い血の臭うクリムゾンベアの荒々しい吐息を背後から感じ取れる。
「Gagagagagaaaaaa!」
涎を撒き散らし、クリムゾンベアの爪がハジメへ伸び、
「────冒険の書!」
声に呼応し、ハジメの目の前で本が現れたかと思えば、
『Kueeeeeeeeee!!』
「Ga!?」
グリフォンのラプラタの幻影が2人の間に出現。
幻影とは分かりながらも突然の出現に面食らったクリムゾンベアは思わず足を止め、その隙にケールから貰った煙玉を爆発させる。
使い所は慎重に使う。
ハジメの手に握られている煙玉は残り一つ。
白煙の中、ハジメは走って距離を再確保。
そして、左に曲がり、開けた場所から木々が生い茂る林へと入る。
「────ッウ!」
掠めた枝が頬を裂く痛みが走り、現実と遜色ない痛みに思わず顔が引きつる。
……【 冒険の書】のデメリット……!
【冒険の書】の説明テキストに痛覚100%と記載されていた。
つまり、痛覚に関しては現実とほぼ同じ。
身体に無理を言わせて動かしているが、この能力が発現してから尚更全身が悲鳴を上げている事実を突きつけられている。
もし、もしも……。
クリムゾンベアの爪が、剛腕が、牙が数多に頭を過ぎ、次に自分の腹から臓物を撒き散らす景象が頭を支配しかける。
その映像が頭を埋め尽くし足が竦みそうになるが、自分の頬を殴る。
口を切ったのか血の味が広がり、結構痛い。
だがそのおかげで気合が入った。
木々と岩に囲まれた狭い雑木林を駆ける中、背後から大木を破壊しながら突進して来る音が。
……付いて来たか……!
「GAraaaaaa!」
ハジメを見つけ、追いかけて来たクリムゾンベア。
突撃するクリムゾンベアに触れた木々は冗談のように破砕されていく。
ハジメをそこで、又も勇者の書を発動。
『Kueeeeeeeeee!』
3度目のラプラタ。
しかし、時間稼ぎにはならない。
クリムゾンベアは止まらず、そのまま突進。
クリムゾンベアは真っ直ぐ突っ込み、巨体なラプラタの幻像と重なる。
そのまま突撃して、追いかけるハジメに接近しようとし、
「今だ、ポン太!」
「わふっ!」
幻影を抜けた先でクリムゾンベアを出迎えたのは、一本の矢であった。
ハジメの走る先、そこに3匹のコボルトが居た。
それはさながら騎馬戦であった。
ハチとポチによる馬の上にポン太が乗り、ポン太はクリムゾンベアに狙いを構えていた。
下の2人が足となり逃走し、上の1人が弓を構える。
その弓から放たれた一矢は牙となりクリムゾンベアに噛み付いた。
通常であれば。
難なく躱せたであろう。
しかし、騙されたことによる怒り。
幻影という油断。
障害物による範囲の制限。
作り出された隙を縫うように、ポン太によって放たれた矢はクリムゾンベアの右眼を穿った。
「Ga、Gariaaaaaaaa!!」
クリムゾンベアは痛みにより悲鳴をあげる。
……顔を狙わせたが、目に当たるとは運が良いぜ!
クリムゾンベアの叫びにハジメは内心ガッツポーズを取りながら、走り続ける。
その先でコボルト達もハジメと共に走る。
◆
「G、GAAAAAAAA!」
……また、またか、まただ!
またもしてやられた!
右眼が火かき棒を捻じ込まれたかの如く、熱い。
目に異物が入っている事への不快さに暴れそうになるが、
『──────』
追いかけろ、と誰かが囁いた。
……そうだ……何よりもあの虫に報復をしなくては……!
残った片目で前を見る。
そこには虫が遠くへと逃げていく姿が。
距離は開けられ、しかし、追いつけない訳では無い。
「GRuUUuuuuuuu!!」
クリムゾンベアは痛みに呻きながらも駆けるが、
「ポン太!」
追いかけようとすると、またも矢が飛んで来た。
それも一本ではなく、数本の矢が。
狙いはブレブレ。
先程の目のように、弱点以外ならば致命傷にはならない攻撃。
しかし、目を貫かれた故か、
「──────Gua!」
クリムゾンベアは思わず腕を前に出し、防ごうとする。
………………
「Ga?」
だが、衝撃は来ない。
見れば矢は全て幻影であり、己の身体を通り抜けている。
そして、クリムゾンベアは見た。
自分から逃げる虫が、首だけで振り返ってこちらを見ており、
「………はっ」
────嗤ったのだ。
前を走って行く獲物が、呆けていたクリムゾンベアを見て、嘲笑っていたのだ。
──────────プツッ
それを見て、クリムゾンベアの中で何かが切れた音がした。
クリムゾンベアはもう避けなかった。
矢が、火の玉が此方に飛んでくる。
だが、クリムゾンベアは回避を捨てた。
時折、幻影に混じって本物の矢が耳を千切り、鼻をえぐるが、関係ない。
それがまやかしだろうが、本物であろうが関係ない。
純粋たる殺意。
ただ殺さんと、獣は血眼で追いかけてくる。
クリムゾンベアに接近され、あと10m。
あと少しでやっと虫を潰せる。
その事実に歓喜の感情が湧き上がるが、しかし、クリムゾンベアは不愉快極まる物を見た。
前の虫が、こちらを見た。
その逃げる虫の、ハジメの顔には、怯えの色が全く見えなかったのだ。
◆
ここだと、ハジメは決心する。
所定の場所に辿り着いた。
ハジメは後ろを確認し、奴がそこにいるのかを視界に入れる。
条件は揃った。
「覚悟しやがれ、この野郎!」
……こっから最初で最後の反撃を喰らわせてやる!
◆
ハジメはアイテムボックスに手を入れる。
そこから、取り出したるは、ケールから渡されていた最後の煙玉。
それを叩きつける。
ボフンッ!
瞬時にクリムゾンベアの視界が白煙で塞がれる。
だが、
「──────GuRaaa!」
何度も目眩しを食らい学習したのか、クリムゾンベアは腕を地面へと振るい下ろすことで風を起きる。
生じる爆風。
ブワンッ!と豪腕で煽がれたことで、ものの数秒で全ての白煙は土ごと上へと舞い上げあられる。
クリムゾンベアは内で優越に浸る。
馬鹿めと。
馬鹿の一つ覚えだと。
そしてこれからの惨劇を想像し顔を歪め、すぐさま遠くへ逃げた獲物を殺さんと追いかければ、
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「───Ga!?」
俺はここだと宣言するように、鼓舞するように。
大声を上げ、クリムゾンベアへと向かって駆け抜けていた!
その目には逃げの意志がない。
ハジメの目からは力強く、そして決死の覚悟が見て取れる。
遅まきながら、そして、ある事に気づく。
ここが大きな岩や木々に挟まれ、狭い一本道となっていることを。
ハジメがこの状況を、この場所を狙っていた事を。
ハジメの右手には、クリムゾンベアに致命傷を与えたあの籠手が嵌められている。
クリムゾンベアの驚愕は一瞬。
だが、すぐに湧き上がったのは愉悦。
……遅い、遅すぎる!
迫って来る虫は己に比べひどく遅い。
気をつけるべきは、あの右手のみ。
自分からやって来た憎悪の対象を潰さんと、疾走する。
それはさながら馬上槍試合か。
互いに己が敵目掛けて、真っ直ぐに突進。
すぐに距離は縮まる。
「うおらああああッ!」
ハジメが右腕を後ろへ振りかぶる。
しかし、後出しでもハジメよりクリムゾンベアの攻撃の方が速く当たる。
クリムゾンベアはこちらへ接近する獲物を潰さんと剛腕を振りかぶり、
『──────』
──────クリムゾンベアは、180度グルリと後ろへ急転回した。
視界の先、その後ろには、
「…………!」
右手を振りかぶった状態のハジメがいた。
「GAGAGAGAAAAAAAAA!」
……虫如きが!
決まったとでも思ったか!
歓喜が心の淵から湧き上がる。
クリムゾンベアを涎を撒き散らし、ハジメに向けて力を蓄えた渾身の一撃を放つ。
ハジメも右手を突くが、答えは当然。
パワーもスピードも圧倒的に獣が上。
クリムゾンベアの攻撃が先にハジメを捉えるのは、避けようの無い真実であり、
───────スカッ
「……Ga?」
クリムゾンベアの腕がハジメをすり抜けたのも、真実である。
こっちが偽物であるならば────なら、本物は?
クリムゾンベアは思考が停止する中。
後ろで、強く、踏み込む音が聞こえる。
◆
ハジメはこの一瞬こそ狙っていた。
正しい殴り方など知らない。
ただ力任せに、しかし、必殺の意志を込めて!
体を捻り、渾身の力を込めた一撃と共に引き金を引いた。
「アクセル、ブーストオォォォォォォォォッ!」
ズドンッッッ!
凄まじい衝撃がハジメの右腕を走る。
「────────ッッッ!?」
腕の内側から焼き菓子を粉々に砕いたような音が伝わってくる。
想像も絶する痛みが脳を支配し、意識が飛びそうだ。
だが、ハジメは歯を食い縛り、意地で腕を振り抜き、
「────ッらああアアアアアアアアアアアア!」
クリムゾンベアの後頭部を捉えた一撃は、轟音と共に頭を粉砕した。
◆
クリムゾンベアの首から先が、ザクロのように割れて破裂している。
頭を失ったクリムゾンベアの首から血が吹き出て、その巨体がゆっくりと倒れる。
それと同時に、ハジメの脳内でアナウンスが流れる。
『クリムゾンベアの討伐を確認』
『クエストが完了しました』
『"ハジメ"のレベルが10上がりました』
『称号【ジャイアントキリング】を習得しました』
その光景を見て、充足感と安心感に包まれたハジメはニッと笑顔を浮かべ、
「…………イッテェエェェェェ!!?」
右腕の痛みにより、涙を流して転げ回った。
見ればダブルエッジは真っ二つに壊れて原型がなく、装備していた右腕は破片が刺さっているだけでなく骨が粉々だからかアーチを描いている。
「────やっばいこれ」
……ああ、見たら割増で痛みががががが!
しばらく転げ回り、叫び回る。
だが、痛みはちっとも引かない。
「わんわん!?」
心配してかポチ達が寄ってくるが、こればっかりはどうしようも無い。
でも、優しさに心はホッコリ。
気のせいか痛みが弱まって来たような、これがアニマルセラピーか…………あ、やっぱり気のせいだった、全然変わんねえ。
涙ぐみながらも利き手ではない為おぼつかないながらも、左手でアイテムボックスからポーションを取り出す。
"ケモノのそうこ"の店主モッフィーさんから渡されたポーション。
ケールにほぼ使っていたが、その残っていた分を全部飲み込む。
傷口に注ぐだけじゃなく、飲むことでも効果が発揮するらしい。
「……お、おおう?」
次第にだが、まだ痛みこそするが大分引いた。
凄いなポーション。
……まだ腕が変な方向向いているけどな。
しかし、何とか立ち上がれるくらいにはなった。
そして右腕を有り合わせの物で固定しながら、倒れたクリムゾンベアを見る。
「……賭けには勝った、か」
あれ程恐ろしかった獣は、今では物言わぬ骸と化している。
最後の奇襲。
本来、勝率が高かったのは背後からの奇襲であっただろう。
しかし、ハジメはそれを選択せず、正面からの突貫。
そして、クリムゾンベアを見事倒した。
何故、ハジメは背後からの奇襲を選ばなかったのか。
そして何故、クリムゾンベアは背後にハジメ(幻影ではあったが)がいることを知っていたのか。
この考えに至ったのは、最後まで諦めなかった事と、そして正しく運が良かったという他ない。
「様子がおかしい」というケールの言葉。
本来いる筈の無いモンスター。
ケールの奇襲を避けたこと。
そのことから、途方もない発想だが『クリムゾンベアは操られているのでは無いか』という考えに至った。
しかし、トライエムで見た時、テイムモンスターではないことは分かっている。
しかし、不可解な点があるのも確かだ。
色々な仮説を立てては検討する為、ハジメはクリムゾンベアの周りを見渡している時、それを見つけたのだ。
────鳥だ。
一羽の黒い鳥がいた。
考えて見れば少し奇妙な話であった。
クリムゾンベアがいるせいか恐怖で逃げ、全く他の生物を見ていなかった。
だが、あの鳥だけが、クリムゾンベアの近くにいた。
思い出してみれば、コイツはクリムゾンベアを様子見している時にもこの時が現れ、その後クリムゾンベアに追いかけられたのだ。
幻影に気を取られている内に、すぐさまトライエムを装備。
そこに映し出された鳥の情報は、
━━━━━━━━
風見鴉のピータ
契約主:ガラン・トカカ
※詳細不明
━━━━━━━━
名前だ。
鑑定した際にテイムモンスターならば、名付けられた名前と契約主の名が表示される
現れたテキスト、この鳥には契約主の名前があった。
つまり何者かに使役されたテイムモンスター。
シオンは言っていた。
『レベルが上がれば、パートナーとの視覚共有も可能なんだ』
テイムモンスターならば、名付けられた名前と契約主の名が表示される。
そしてクリムゾンベアがいる場所に、あの鳥が、テイムされたモンスターが鉢合わせ続ける事が、偶然な訳がない。
以上のことから、ハジメはある仮説を立てた。
『あの風見鴉で現場を中継し、何らかの方法でクリムゾンベアは操られているのではないか?』
この仮説は穴だらけという事は、ハジメ自身でも分かっている。
何で2体のモンスターを使う面倒臭い方法を取っているのか?
テイムされてる訳でもないのに、どのようにクリムゾンベアが操作されているのか?
そもそも、その論を証明する証拠が足りない。
しかし、それでもだ。
半ば俺の願望に違いなかったとしても、この状況を打開出来るならば、自分の命を賭けるに値する考えだった。
最後の奇襲、もしも鳥が上空から見ているのならば。
本当の敵が、相手が野蛮な獣ではなく、狡猾な人間ならば。
クリムゾンベアを、敵を騙し、隙を生むことができるのではないか。
そして、目の前には倒れたクリムゾンベアが。
最後の煙幕を張る寸前、少し離れた枝にとまる鳥の姿を確認し。
そして、接敵する前に撮っておいた走って殴る動作を出現させる。
最後、あんなに早く煙幕が無くなるとは思わず、焦ったが、
「やってやったぞおおおおおお!」
「「「わっふー!」」」
賭けに、見事にハジメは勝ったのだ。
ガッツポーズをして強敵を倒した喜びに浸っていた3匹と1人だが。
「……って、そうだ。あの鳥は!?」
鳥のことをすっかり忘れていたのを思い出す。
小さいながらも、モンスターだ。
まだ近くいたのならば、攻撃される可能性もある。
アイテムボックスから短刀を取り出して警戒をしながら見回し、しかし、周りを探せどどこにも見当たらない。
「……逃げた、のか?」
脳内に響いた言葉もクエスト完了とは言っていたら、
こちらはボロボロなので逃げてくれた方がありがたいが。
しかし、退きが良すぎるような。
「わっふ、わっふぅ」
「お?……そうだな、隠してきたケールが心配だし、移動しよう」
判らない事ばかりだが、今は何よりもケールや俺らの身の安全だ。
「後でシオンさんにでも相談すれば良いか……」
◆
ハジメ達が去っていく中。
ハジメも含め、コボルト達も気づかなかったが、風見鴉はまだ森にいた。
しかし、その姿は見る影もない。
────蜘蛛の巣がそこにはあった。
その蜘蛛の巣には糸で形成された球があり、その球の近くには何本もの黒い羽根が落ちていた。
そして、その近くには大きな蜘蛛が。
そこから動かず、蜘蛛はただハジメ達の去って行く姿を眺めるだけだった。




