P.10 「理解してるようで意外と分かってないもん」
「逃げるぞ!」
ケールの判断は瞬時であった。
ハジメが向いた時には既に弓に矢をつがえていた。
刃の代わりに先に白い球体が括り付けられた矢はすぐさまクリムゾンベアへと放たれた。
しかし、飛翔した矢はクリムゾンベアには当たらず手前の地面に着弾し、
ブワンッと白い煙を巻き上げた。
「Garaaaaa!?」
「何やってる!?走れハジメッ!」
ケールはハジメにそう言い、一目散に駆け出した。
ハジメはケールの言葉が発破となり、やっと動き出す。
"走れ"
「………え?」
反芻される。
………走れ
走れ、走れ走れ
走れ何故走れッ走れ走れ走れ走れ!
走れ!走れ!走れ!何故!走れ!何故⁉︎走れ!走れ!走れ!走れ!危険!走れ!走れ!走れ!何故?何故!何故!?
「あッ────えぁ、ぅぉあ?!」
気づいた時には足が動き一目散に駆けていた。
鼓膜が振動を感知し、
文字に置き換え、
意味をなす言葉に当てはめられる
────それらの行程をかっ飛ばして、ハジメの脳が本能的に体へとその指令を送っていた。
「はぁっ、はっ、・・・がッ!」
ハジメは我武者羅に森を駆けていた。
飛び出た木の根に引っかかりつまずく。
だが、倒れるよりも先に足を前に出し、無理矢理でも走る行為を続行する。
"走る"という言葉が思考を埋め尽くし、ゲシュタルト崩壊が起こる。
それでも。
足を前へ、足を前へ、足を前へ。
ただそれだけを、ハジメは愚直にただそれだけを繰り返す。
恐怖で震える足、酸素不足による胸の苦しみ、時折肌をかすめる枝による痛み、胸から壊れんばかりに打ち鳴らされる早鐘。
現実と寸分違わぬ再現なのだろうが、この苦しみを、これ程までの恐怖を、ハジメは知らない。
経験したことが無い。
ハジメの前には自分と同じように、ひたすらに走り抜けるコボルト達とケールが。
この中でステータスが最も低いハジメは、集団のケツの方を必死についていく。
走ったのは1分にも満たぬ短い時か、それとも何時間と気が遠くなるほどか、ハジメの体内時計の針が無闇やたらに動き出し、意味をなさなくなりつつあった。
しかし、それは突如に終わりを告げた。
「────止まれ、ハジメ!」
いきなり先頭を走っていたケールが制止の声をかけた。
その言葉を皮切りに機械的に動かしていた足を止めると、なんとか倒れまいと膝に手をつき、全身から汗がブワッと吹き出した。
バクバクとうるさく騒ぎ立てて主張し続ける心臓を、深呼吸をして無理矢理落ち着かせるハジメ。
対して、息は乱れていれどハジメほどではないケールは自分達が走ってきた方向を睨む。
その顔には逃れたことへの安心─────ではなく、疑問に彩られていた。
「………おかしい。追いかけて来る気配がない」
「はぁ、はぁ、はぁ………ふぅっ、逃げっ、切れたんじゃないのか?」
「いや、そんなうまい話が………………まさか?ハジメ、ここで待ってろ!」
「お、おい!どこ行くんだケール?」
ケールはハジメの言葉に止まらず、慣れた手つきで近くにあった木を登って行き、自分達が逃げてきた方向を睨みつけている。
その顔は次第に険しくなっていく。
「………ケール?」
「まさか、まさかかよおいッ!ふざけんなっ!」
髪をガシガシと搔きむしり焦り出し、木から降りたかと思えば元来た道を戻ろうとしだした。
突然の不可解な行動にハジメは慌てて引き止める。
「どうしたんだ?何か見えたんだ!」
何を取り乱したのかハジメには分からず、ケールを問いただす。
「あの野郎、俺の村の方へ向かってやがる!このままだと村の皆が危ない!」
「何だって!?」
このままクリムゾンベアを放置などしてみろ。
阿鼻叫喚の地獄絵図の想像なぞ容易くできる。
プレイヤーであるハジメは倒されても、時間が経てば生き返る。
だが、ケール含む村人達はハジメとは違って生き返らない。
まだ、恐怖はある。
未だ脳内に頭をくす玉のように破られたゴブリンの一瞬がフラッシュバックする。
だが、俺はここで動くべきだ。
動かなければ後悔する。
ポチ達に目をやればハジメの意思を汲んでか、己の武器を構えやる気に満ちている。
いつもは可愛らしいのに、今はとても心強い支えである。
力尽くで恐怖を飲み込み、意を決して囮の提案をする。
「俺らで何とか時間稼ぎをする。ケールはその間に村人を避難させ」
「俺も行くぞ」
だが、決意した言葉を遮るようにケールが言った
ハジメはケールの言葉に耳を疑った。
「なっ、馬鹿なこと言ってんだ、ケール!?お前は死んだら後が────」
「言っとくがな、ハジメ!これはお前に無駄死にしないで欲しいとかじゃねえ。現実的に考えて、お前だけじゃ全く相手にならないからだ。それに今から避難させても、間に合わない。村には足腰の悪い年寄りや、最近産まれたばかりの乳飲み子だっている。避難を選べば少しの犠牲で済むかもな………けどな、そんなの糞食らえだ!だったら、当然倒すしかねえだろ」
「けどっ………お前は死んだら後が無いんだぞ!」
「何言ってんだ。そんなのは生きてりゃ当たり前のことだろ」
ハジメは一瞬にして何も言えなくなってしまった。
それは気付かされたからだ。自分のマヌケさと共に。
改めて────いやこれは正しくない────今更ながら初めて目の前に立っている人物がこのゲームで生きているのだと、そんなずっと自分の目の前にあった当然の事実に。
人は脆く、壊れやすい。
獣に襲われなかろうと、病気で、寿命で、事故で、転倒で、それこそ風が吹くだけで人は死ぬかもしれない。
だからこそ、彼らは今日という時間を無駄にせぬよう生きている。
自分と彼らに何の違いがあろうか。
その言葉には「覚悟」という重みが込められていた。
それはまだ見ぬ明日へと進もうとする者にしか持てぬ想いであった。
「…………分かったよケール。でも、そこまで言うからには作戦があるんだろうな。道連れで倒すなんて悲劇は御免こうむるぞ」
俺は参加させることこそ折れたが、ケールを死なせる選択は絶対にしないし、させない。
特攻精神なぞ、ここでは意味をなさない。
「考えがある。そして、その要はハジメ。お前に掛かっている」




