610話 失ったものの多さ
玉蟲の業魔による被害は極めて甚大であった。サンドラ帝都は壊滅し、生き残った者はいない。当然ながら都市機能など残っていない。歴史ある街並みは更地となり、あらゆる記録すらも根こそぎ奪われたのだ。立ち直るのは難しいだろう。
空より降ってきた滅びの黒が、全てを消し去ってしまった。
「アイリスか。ああ、こっちは処理した。魔物も魔族も始末しておいた」
『封魔王国も同じなのですよ。戦場はどうするのです?』
「それは放っておけ」
『でも吸血種が……』
「カーミラに何とかさせる」
アイリスの心配は大陸東部の混乱が全土に及ぶのではないかということだった。封魔連合の盟主アポロヌス、またサンドラ帝国の炎帝ヘルダルフは共に死んだ。だがサンドラの吸血種たちはこの事実を知らない。
大陸を統べよという炎帝の命令はまだ生きているというわけだ。
戦いを止められる唯一の人物が死んだ今、大火が自然消滅するまで待つほかない。その間、炎があらゆるものを燃やし尽くすとしてもだ。
「『黒猫』がどうにかする。俺たちは西を守ればいい」
『また怒られますよー』
「さっき怒られた」
『ほらやっぱり』
通話の向こう側で小さな笑い声が聞こえる。どうやらセフィラも会話を聞いているらしい。
「セフィラ。今日はよくやった。お陰で俺たちは目的に大きく近づいた」
『うん。でもママの助けがないとまだ難しいよ』
「練習だな。だが今日のところはお前を褒めないといけない。島に帰ったらお祝いもしよう」
『やった! 楽しみにしてるね! イシュヴァルにも今日は帰らないって言っておかないと』
「時差でプラハの方はまだ夜中だ。後でな」
サンドラの空は既に明るくなり始めている。
長い長い、夜は明けようとしていた。ただこれは終わりではない。乱世は始まったばかりだ。
「アイリス、聞いているか?」
『はいはい聞いているのですよ』
「アトラク・ナクアの魔力を解析するのと、これを扱うための人材を見つける。ミリアムの代わりが必要だ。魔力の研究は任せるが、勝手に触るのだけはやめておけよ。まだ未知の部分が多い虚無の魔力だ」
『シュウさんかセフィラちゃんが一緒にいるときだけにするのですよ』
「ああ。普段は厳重に封印してくれ」
『分かっているのですよ。先に帰ってアトラク・ナクアの魔力を保管しておきますねー。シュウさんもすぐに帰りますか?』
「いや、少し確認してから帰る」
通話は途切れ、シュウもそれと同時に立ち止まる。
眼前には巨大な穴が広がっていた。光すら飲み込むとされる神奥域の大穴である。覗き込んでも全く底が見えず、誰一人として深奥に到達した者はいない。
「……面倒な置き土産を残してくれたなミリアム」
そんな呟きだけを零し、足元に転がっている目的のものを拾い上げた。
土や血で汚れているものの、少し拭き取れば特徴的な黄金の色が現れる。この戦いの元凶ともいえる神器、聖杯であった。
◆◆◆
ルークは目を覚まし、まず自分の置かれた状況に混乱した。一目で高級品と分かる調度品が揃えられた部屋にいたからだ。寝かされていた寝具も肌触りがよく、実家にあったものにも劣らない。
体を起こすと部屋の隅で香が焚かれていることに気付いた。その香りが気分を落ち着かせてくれる。
「ここは……?」
起き上がろうとして体の違和感に気付く。左腕がなく、身体を支えることができなかったのだ。それを見て思い出した。
(そっか。戦いで無くなったから)
不自由ながらベッドから出て気になったのは二か所だ。
まずは扉。そこから部屋を出て人を探すこと。そしてもう一つは窓だ。ルークは少し迷った後、まずは窓に近づく。
「庭、か。やっぱりいいところの家なのかな」
残念ながら見覚えのある景色は見えなかった。
だが少しだけ見上げていると、淡い白の空が広がっている。その特徴的な空模様はルークも知っているものだった。
「ここ迷宮か」
迷宮は地中に存在しているが、暗闇ではない。どういった仕組みなのかは分かっていないものの、地上の昼夜と同様に明るくなったり暗くなったりと時間変動する。
そして迷宮内にある屋敷ということは、ここは地下都市リベラストラでほぼ確定だった。
どういうことだろうかと悩んでいると、後ろで扉が開く音がした。
「ルーク……」
振り返ると、茫然と立つネオンがいた。
彼女は何も言わず駆け寄り、ルークを抱きしめる。鼓動、温かさ、そして安堵。様々なものが込み上げてきた。
「よかった。目が覚めて」
「ネオン……ここは? あれからどうなったんだ?」
「あ、すみません。ここはスウィフト家の屋敷です。カーミラが炉と連絡を取り、ここを手配してくださいました。起きられたならこっちに。カーミラも待っています」
少し離れながらネオンは、移動しながらこれまでのことを説明する。
それはルークにとって衝撃的な話も含まれていた。
「え? 俺死んだの!?」
驚くのも無理はない。
今こうして生きているのだから、とても信じられない話だ。彼女の話が真実だとすれば、蘇生という奇跡のような魔術をカーミラが使っていたことになる。
だがそれと同時に、小さな恨みも生じた。それはごく自然に、思わずといった調子で口から漏れ出てしまう。
「……だったら他の皆をどうして生き返らせてくれなかったんだよ」
「ルーク。その言い方はいけません。カーミラが言うには条件を満たす必要があるようでした。死者の蘇生は奇跡です」
「悪い。そう、だよな」
どこか気まずい空気が流れる。
それからの二人は口を閉ざしたまま屋敷を歩き続ける。やがて目的の部屋に辿り着き、扉を開けると二人の人物が待っていた。カーミラと一人の老人である。老人には見覚えがあるものの、ルークは一瞬思い出せなかった。
(あ、そうか。アルマーニ・スウィフトって人か)
壁にかけられた空飛ぶ城の描かれたタペストリーが記憶を喚起させてくれた。彼はサンドラ帝国への手引きをしてくれていた人物だが、別れはすぐだった。だから思い出すのに時間がかかった。
アルマーニは真っ先にルークへと声をかける。
「目覚めたかね。君が無事でよかったよ。何せ六日も眠っていたのだ」
「そんなに!? あ……その。あの後、大丈夫だったんですか?」
「私はこの通り。だがアリヤの……孫の裏切りは堪えたよ。あの子の処分はこれから考えなければならない。次期当主にと考えていたのに。それとサンドラのこれからのことも」
「それってどういうことですか?」
「サンドラに生き残った者はほとんどいない。リベラストラにごく少数、地上は壊滅的だ。吸血種ですら多くが死んだ」
それは実質的なサンドラ帝国終焉の知らせであった。
ところがルークの顔は浮かない。見えずとも感じ取ったカーミラが問いかける。
「あまり良い気分ではないようですね。故郷を滅ぼされ、家族を奪われた国だというのに」
「……ああ。なんて言ったらいいんだろう。でもこんな形は望んでいなかった。そんな気がするんだ。戦争はどうなるんだ。終わったってことか?」
カーミラはただ首を横に振り、彼の質問に答えた。
◆◆◆
四日前のことだ。
リベラストラに滞在するカーミラは、情報を集めるため『黒猫』のもとを訪れた。魔神教団に乗っ取られていた探索ギルドはすっかり取り戻している。あの騒動を利用して事を起こしたらしい。お陰でギルド長の立場は再び『黒猫』のもとに戻っていた。
「や。待ってもらって悪いね。僕も色々と忙しくて。ギルドは今や町の顔役だ。吸血種の統治が崩れた今、色々とやることが多いんだ」
「いえ」
「それで何を知りたいのかな?」
「炎帝のことです」
明確な問いかけに、『黒猫』は一瞬だけ詰まる。それから少し、どうするべきか悩んだ後に口を開いた。どこか言葉を選んでいるような、慎重な物言いだった。
「炎帝は、討たれた。そう、もうこの世にいない」
「あの人が? 誰にですか?」
「君のお師匠様が言うにはアポロヌス王。つまり封魔連合王国の盟主様だよ」
「ということはこの戦いは封魔連合の勝利、ということなのですか?」
「それがそうとも言えない」
驚くべきことは様々だ。そもそもどうやってこれほど素早く情報を集めたのかも疑問であるが、それはシュウからの情報であるとすれば納得もできる。転移で世界中を飛び回れると知っているからだ。それにこの戦争の勃発にも裏からかかわっているようなことを匂わせていた。
ただ炎帝が討たれたという情報は何よりも衝撃的である。ただこれは始まりに過ぎなかった。
「アポロヌス王も死んだ。そして封魔王国も壊滅的な被害だよ。都市そのものは残っているけれど、数えきれないほど多くの市民が亡くなった。まさしく相討ちだね」
「そんなことが……」
「戦争も終わったわけではないよ。両国の王が共に、同時に斃れた。つまり彼らの手足となっている軍隊は止まるという命令を永遠に受けることができない」
「戦う意味もなくしたまま戦い続けているということですか?」
「そういうことだね。特にサンドラ軍は危険だよ。吸血種や魔族兵が制御不能なまま暴れ出すことになる。でも、想像通りだよ」
そして恐ろしい予測を『黒猫』は続けた。
危機感を煽るような大げさな口調で。
「いずれ軍もこの事実を知るだろう。時間はかかるかもしれないけど、戦争そのものは止まる。でも次に始まるのは乱世だ。王が倒れた今、サンドラ帝国は分裂する。かつて帝国に飲み込まれた都市国家たちは、今こそと独立を宣言するだろう。吸血種たちも自分こそが炎帝の後継であると自称し始める。次なる覇者を決めるための争いが始まるのさ。それは盟主を失い、分裂するであろう封魔連合も同じくね」
悲観的な予測にカーミラも口を噤んでしまう。決して誇大妄想だと言い切れない。どこか確信めいたものを感じさせられたからだ。
だがここで彼の雰囲気は一変し、柔らかな声音になる。
「カーミラ。君が王となればいい。君は吸血種の始祖だ。炎帝なんかよりも王に相応しい血筋だろう? それに吸血種も君にならば逆らわないし、人間にも正しい統治ができるはずだ」
「……いえ、私は」
カーミラは考える。
『黒猫』の言葉は合理的だ。今、王として最も相応しいのはカーミラ=ノスフェラトゥに他ならない。
(そんな資格、私にあるのでしょうか。炎帝の横暴を諫めきれず、吸血種による支配構造を容認してしまった私が。そんな私に本当に務まるというのでしょうか)
ただ無力さだけを思い知らされる戦いだった。カーミラは少なくともそのように認識している。最初から最後まで思い通りに進まなかった。
弱さが悪でない、そんな世界を作りたい。
そう思っていたのに、戦争はただ弱者を淘汰した。弱さは悪。強さこそが正義を為す。ただそんな凄惨な戦いしかなかった。
「悩んでいるようだね。ともかく考えてみるといい。ただ忘れないでくれ。まだ戦争は終わっていない。そしてこれから戦いは大きく、複雑になる。世界は王を必要としているんだ」
その言葉はカーミラの耳に強く残った。
◆◆◆
「そう、だったのか。まだ続いているなんて」
ルークは俯いて、カーミラの言葉を反芻した。
アポロヌス王が死に、封魔王国も壊滅的被害を受けたということも衝撃であった。そしてこのままでは最悪の乱世が訪れるという予測も決して楽観してよいものではない。高い確率で起こり得る未来だとルークも思った。
目覚めたのは六日ぶり。
既に多くの時間を浪費してしまっている。
「行こう。急いで封魔王国に戻らないと。アーガス殿下のことも気になる」
「いえルーク。私たちはシュリットに帰国したいと思っています」
「あ、悪いネオン。お前はそっちだもんな」
「違います。あなたも一緒に来てくださいませんか?」
思わず怪訝な目を向けてしまった。封魔連合はサンドラの南部に位置する。一方でシュリットは遥か西方だ。そこを経由して封魔王国に戻るとなれば、相当な回り道になってしまう。
ネオンはそのような反応も予想していたので、続けて理由も述べた。
「焦る気持ちも分かりますが、まずは私たちも態勢を整えなければなりません。サンドラ帝国は崩壊し、各地に残党が散っている状態と言えるでしょう。もはや賊と何ら変わりありません。それは失礼ながら封魔連合も同じです。だからこそ、秩序のしっかりとした第三国からの介入が必要です。この事態を治められるだけの介入が」
「……そうか! シュリットに取り持ってもらうってことか!」
「暫定でも何でも構いません。シュリット神聖王国としてサンドラと封魔連合にそれぞれ王を擁立します。そして戦いを収めさせるのです。カーミラとも相談し、アルマーニ様のご意見も併せて私はこう結論を出しました」
ルークもそれに理解を示すことはできた。
これでも彼はレビュノス家の跡継ぎとして、アスラン王国イルデラント地方を治めるはずだった。武器を振るよりもそのための勉学に注ぎ込んだ時間の方が長い。
「確かに、そうかもしれない……のか」
「ごめんなさいルーク。もしも私たちの考えを受け入れることが難しいなら、止めません。ルークにはルークの戻るべき場所があるのですよね?」
「……少し。少しだけ考えさせてくれないか?」
理解はできる。
だがまだ納得し切れない。情報を整理しきれない。
ネオンもルークの思いを汲むことにした。
「分かりました。どちらにせよ、あなたは回復するべきです。お腹が空いているのではありませんか?」
そういえば、とルークは酷く空腹であることに気が付いた。
主張するように腹が鳴り、思わず皆で笑ってしまう。
「さぁさぁ。食事にしましょう。用意させますので、少しお待ちください」
アルマーニが目配せすると、部屋の隅に待機していた使用人たちが動き始める。ルークはそれを待っている間、ただ思いに耽った。これからどうするのか、ではなく過去へと。
(ロニ将軍、戦士団の皆、バジルの民、ルゥナさん、術師の皆、それにスルザーラ。もう、誰もいないんだな。本当に、いないんだな)
失ったものだけを次々と想起していた。




