608話 ミネルヴァ
玉蟲の業魔は、その中心にある女性体は巨大な光に包まれた。淡い青を放つその光は、少しずつ広がっていく。やがて女性体の全てを飲み込み、収縮するようにして消失した。
後に残っていたのは聖杯を手にしたルークだけ。
あれほどの猛威を振るった玉蟲の業魔は、ただの花となって残骸を残す。
(終わった、のか……?)
気が抜けたのか、ルークの手から聖杯が零れ落ちる。しかし焦る必要はなかった。聖杯と同化することで現れる光の天秤は消失しつつあったからだ。空の亀裂も消え去り、静寂な夜が戻ろうとしている。
ずっと咥えていた嵐唱を手に取りつつ、軽く左肩を抑えた。
そこにあった腕はもうない。
あれだけいた仲間も、もういない。
ようやくの思いで勝利したというのに、心の内にあるのは喪失感だけだった。
「ルークッ!」
ネオンがウェルスに乗せられ、近づいてきた。それでルークはそちらに浮遊し、ウェルスの背に着地する。嵐唱との同化を解くと疲労が押し寄せたのか前のめりに倒れてしまった。
「そんな! ルーク!」
「大丈、夫……多分。疲れたよ」
「驚かせないでください。それよりもカーミラとスルザーラを迎えに行きましょう」
「だな」
まずはカーミラだ。
彼女は空の亀裂を潰して、そのまま力尽きて落ちていった。しかしそんなことで死ぬはずがない。ウェルスも彼女の居場所は分かっているのか、ゆっくりと下降していく。
その途中、ネオンは玉蟲の業魔だったものへと目を向けていた。
「……あれが人の成れの果て、ですか。とても信じられません」
「それだけの執念だった。そういうことだろ?」
「意外です。ルークはもっと……こう、ミリアムを侮蔑するものとばかり」
「……まぁ、な」
ルークは仰向けになって、自分の右手を眺める。
玉蟲の業魔の魔石を砕いたのは、確かにこの手だった。しかしルークの意思は如何ほど乗っていただろうか。
「魔石を破壊する瞬間だった。俺、ミリアムの思いに触れたんだ。あいつがどういう人生を歩んで、何を経験してあんな風になったのか。全部見せられた」
「同情してしまったのですか? ですが彼女は」
「分かっている。あいつは許されないことをした。俺の故郷を焼き、家族を魔族に変えた。仕方ないことだったって赦す気はない。でも、感じたんだ。ミリアムって少女は、ただの悪じゃなかった。世界に翻弄されて、ああなるしかなかったんだって」
「ルーク……」
「情けないよ。魔石を砕いたのは俺じゃない。嵐唱だった。俺の手が緩んだことを叱って……いや、ごめん。変なことを言った」
「いえ」
少しだけ、お互いに気まずくなってしまう。あれだけの巨悪を討ち、世界を救ったというのに気は晴れない。後味の悪い戦いだった。
ネオンは不意に玉蟲の業魔だった巨大花へと目を遣り、そしてあることに気が付く。
「ルーク、見てください」
「え?」
「残った花が……とにかく見てください」
すっかり力の抜けているルークの身体を支えて起こし、見えるようにする。
もはや蟲を生み出すこともなくなった玉蟲の業魔の残骸は、地の底へと沈みこもうとしていた。それもそのはずである。この形態となった玉蟲の業魔は、神奥域の大穴を塞ぐようにして咲き誇っていたのだ。あれほど地を覆い尽くそうとしていた根も枯れて、巨体を支えることができなくなったのである。
「そっか。終わった。終わったんだよな」
それでようやく実感した。
何度も感じた絶望も、戦いで負った痛みも、失う苦痛も全てが終わった。
崩れて大穴へと落ちていく巨大花は一瞬震え、蕾のように閉じてしまう。まだ生きているのかと勘違いして一瞬身構えてしまうも、そういうわけではなかった。一回り小さくなったことで深い神奥域の穴の底へ落ちていった。吸い込まれるように。
「カーミラです。見つけました」
地上にはカーミラがいて、同じように花が神奥域へ引きずり込まれていく様子を眺めていた。彼女の傍に降り立つと、ネオンは真っ先にウェルスの背から降りる。ルークも転がり落ちるようにして彼女に続いた。少しだけ回復したので、無様ながら着地する。
「二人とも、よく無事で」
「あなたも。スルザーラはどこでしょうか」
「……」
問いかけにカーミラは答えなかった。その代わり、ある方向へと顔を向ける。目は隠れているが、そちらへと視線を送っていることは明らかだ。
「……分かりません。手分けして探しましょう。私があちらを。二人は別方向を探してください。まだ魔族や魔物が残っています。ウェルスを預けますのでお気をつけて」
そういうや否や歩き始めてしまったので、議論の余地もない。ルークとネオンは互いに顔を見合わせ、仕方なくカーミラとは別方向へと移動を始めた。
◆◆◆
玉蟲の業魔が討たれ、大穴へと落ちていったことで、シュウも魔術による攻撃は止めた。蟲も蟲魔族もこれ以上は増えない。それにかなりの数を滅ぼした。禁呪級の魔術で大味に掃討する意味もない。
「とはいえサンドラ帝国は滅亡か。また東側は戦乱の時代になるかな」
サンドラ帝国に封魔王国という二つの大国が頭を失った。これからどれほど世が乱れるか、容易く想像できる。何より恐ろしいのは、この二国の戦争はまだ止まっていないということだ。現時点で四か所以上の戦場が残っている。またヴァルナヘルに向けても帝国軍は進行中だ。
戦による被害も増える。
「紡ぐ叛威の力を手に入れるためとはいえ、ミリアムが想像以上にやってくれた。こちらの思惑を超えてここまで。本当ならそのまま部下にしたかったが……惜しいことをした」
宮廷魔術師として動きつつも魔神教に傾倒していることは分かっていた。それでも本人のやる気を維持するため、そして魔神教内部の情報を知るために見逃していた。それがここまでの事態になるとは思わなかった。まさしく第二の魔神として大成してみせた。
思った通りにならずとも、予想を超えた成果には驚嘆せざるを得ない。
『やぁ。こっちもどうにかなったよ。蟲魔物の侵入は食い止めたし、探索ギルドも取り戻した』
「そうか。お前自身で動いたのか?」
『多少はね。リベラストラの民はまだ状況がよく分かっていないみたいだ』
「日が昇れば仰天するだろうな。帝都は滅び、炎帝も死んだ。お前はどうするんだ『黒猫』」
『勿論、復興に尽力するよ。そうすれば次の国により深く食い込める。どんな国になるのかな。できれば魔族や吸血種の国じゃない方がありがたいね』
「そうか。俺たちはこれからアトラク・ナクアの力を分析する。しばらくは手伝えない」
『残念だけど仕方ないね。でも後始末くらいは手伝ってくれないかい?』
「地上の魔族くらいは消しておく。心配するな」
『頼むよ冥王』
「そっちもな『黒猫』」
シュウは一度立ち止まり、周囲を見渡す。そしてある場所に視線を固定した。
激しい戦いが起こっていることを音と魔力で感じる。
(カーミラか)
見知った魔力を見つけ、そちらへと歩を進めた。
◆◆◆
「やはりここにいましたか。スルザーラさん」
カーミラは足を止めた。
彼女の前にいるのは鎧の貴人であった。鎧と呼ぶには体表に密着していて、寧ろ外骨格にも見える。どことなく気品があって、騎士らしい。歪な角が幾つもあって、手に持つ両刃の槍も黒い霧を帯びている。そのせいで神性と邪悪の両方を兼ね備えているようであった。
そんな貴人をカーミラはスルザーラと呼んだ。
「あなたはスルザーラさんですか? それとも違う何かですか?」
『我が名はミネルヴァ。大いなる主の眷属』
「ミネルヴァ。それはスルザーラさんの神器と同じ名前です」
『然り』
声はくぐもって、スルザーラともう一つ別の声が混じっていた。そして彼は無造作に槍を回転させる。すると周囲の景色に擬態していた蟲が切り刻まれていた。幻覚を操る紫の蝶だ。
彼は切り刻まれたその蟲へと手をかざすと、光の粒子を吸収していく。カーミラには魔力を奪い取っているように見えた。すると身体全体を覆う外骨格へと魔力が集まり、より硬く、そして鋭く強化される。
「スルザーラさんの魂は……」
『力には代価が必要だ。あの男は願った』
「では私はあなたという存在を倒さなければなりません」
『くく……』
「何がおかしいのですか?」
『くくく。くはッ!』
ミネルヴァは肩を震わせて、笑いが堪えきれない様子だ。
だが突如として威圧的な魔力を放ち、刃の先をカーミラへと向ける。
『奇妙な縁ではないか。我が始まりの使い手は貴様のために死んだ。そして今の使い手も……あの男の系譜もまた貴様によって殺されようとしている』
「……私を動揺させようとしても無駄です。私には分かっています。そこにスルザーラさんの魂はない」
『その通りだ。しかしこの体はスルザーラそのものだ。我には分かるぞ。貴様の心の動揺が手に取るように分かる』
「何を、知ったように……」
いきなりミネルヴァは姿を消し、次の瞬間にはカーミラの背後で槍を振りかぶっていた。寸前で反応したカーミラは霧化によって攻撃を逃れる。だが実体化しようとしても攻め立てられ、機会がない。
『貴様は今、弱っている。本来の魔力からすれば羽虫ほどの弱々しさだ。相当な魔力を使い尽くしたらしい。我とて貴様を殺し、その全てを奪える。それこそが偉大なる主の望みだ』
踏み込めば地は割れ、槍を振るえば暴風が巻き起こる。そして距離を取ろうとも魔力の矢が正確に心臓を狙う。
『知っているぞ。吸血種は無敵にも思える不死性を持つが、心臓を破壊すれば弱体化する。弱い吸血種ならそのまま死ぬこともあるだろう』
ミネルヴァはずっと見ていた。スルザーラの武器として、そして歴代の使い手たちの武器として、全ての戦いを見てきた。経験した全ての戦いを記憶し、あらゆる知識を積み上げた。ミネルヴァは使い手たちの戦闘経験の全てを使い、組み合わせ、時に下地として新たな創造までもする。
カーミラは感じていた。
(巧い。そして厄介です)
常に間合いを管理され、嫌なところに位置取られる。また劔撃の特性もまた健在だ。すなわち攻撃力を蓄積し、解き放つ能力である。ミネルヴァの一撃は決して無視できない威力を誇る。
『驚くべき進化だ、始祖よ。魔族より分岐した大いなる主に連なる者……いや、そうなるはずだった者か。しかし今や忌まわしき冥王の末端に堕ちた。ならば始末し、その力を回収するまで』
「大いなる主……? どういう意味ですか。まるで魔族と神器の起源が同じであるような」
『ふむ。語りすぎたか。まぁ些細なことだ』
「死ぬつもりはありません」
『我を殺すと言えないところが貴様の本性を現している。人の在り方に近づきすぎたのだ。それが貴様を弱くした』
振るわれる槍には容赦がなく、的確にカーミラの急所を狙う。一方でカーミラの動きは鈍かった。速さでも攻撃力でも圧倒され、反撃の隙も無かった。それ以前にカーミラからは攻撃の意思すら感じられなかった。
『始祖よ。偉大なる主の門下に加われ。吸血種の全てを率いて我が軍となれ』
「始末するのではないのですか?」
『方法は何でもよい。我がものとなるならばより良いということだ。我は軍神ミネルヴァ。戦を以て世を治めることを是とする。その手足となるならば、貴様を生かそう』
「この世を乱すつもりですか」
『神器はただの武具ではない。意思を持つ偉大なる主の民だ。我らは欲望を持つ人間に力を貸し、その代価を戴く。その果てまでも捧げた人間は我らのものとなる』
「民? 武器が?」
『その疑問は凝り固まった思想だ。滑稽であろう。人間は我らを使っているつもりで、我らに使われているのだからな』
カーミラは大きく後退し、手元に血を集める。その隙にミネルヴァは魔力矢を同時に三つも生成し、即座に放つ。その矢はカーミラから外れて三方向に散ったが、その途中で軌道を変える。それらはカーミラへと集まろうとしていた。
だが彼女は手元に蛮骨を召喚し、三つの矢を同時に弾く。
『面白い。鞭のような剣か』
「そちらも、スルザーラさんとは異なる使い方をしているようですね」
『戯け。我が本来の力を引き出しているだけのこと。始まりの使い手も、鍛えればいずれはこの領域に至ったであろうに。あの肉体は実に惜しかった』
「……ッ! あの人の身体を!」
『くは。やはり心を乱す。血に飢えた化け物が人のように』
猛攻は止まらない。消えたと見紛うほどの速度でカーミラを翻弄し、そして言葉で攻め立てる。
『貴様は弱くなった。いや、停滞していると語る方が正しい。強者としてより高みを目指していれば、我を凌駕していただろうに。弱者を餌とし、その血肉を啜って力を得る。それが吸血種という種であろう。炎帝の方がよほど正しい在り方をしていた』
「弱さを持つ者を捨て、あまつさえ食い物にするなどあってはならないことです。強き者による搾取を私はなくしたい。弱さがあっても受け入れられる世界を作りたい。そのために私は……」
『愚かな娘だ』
ミネルヴァの刃がカーミラを貫き、素早く引き抜いて十字に切りつける。霧化も間に合わない速度が、遂に彼女を傷つけた。
『力は正義だ。より大きな力こそが支配を完全なものとする。そして支配こそが安寧を生む。正しい世の在り方とはそういうものだ』
もはやカーミラでは動きを追いきれない。
ミネルヴァは己の能力を完全に制御していた。神器・劔撃の能力は蓄積だ。魔力を溜め込み、究極の一撃を実現する。しかしより深く踏み込めば、あらゆる行動にそれを適用できる。
脚に魔力を蓄積すれば、爆発的な速度を生む。腕に蓄積させれば絶大な腕力を生む。つまり少々溜めを必要とするが、怪物の如き身体能力を実現できる。
『弱い者を守る? それは傲慢だ。弱者が強者を搾取することを是とする、理に反した法だ』
刺され、切られ、矢で貫かれる。カーミラの霧や血の刃ではとても追い切れない。心臓から狙いを逸らすだけで精一杯だった。
『力だ。力こそが全てを決める。戦いこそが生命の在り方故に!』
右、左、背後、そして正面。消えては現れてを繰り返し、決定的な隙を作り出す。ミネルヴァは再び背後へ回り込み、三つの魔力矢を放った。短時間ながら蓄積された威力が時間差でカーミラの左足を射抜く。膝を吹き飛ばされ、倒れそうになった。カーミラは蝙蝠分裂を使って退避する。
するとミネルヴァは両刃槍を掲げた。そこから放出される黒い霧が渦巻き、風となって周囲一帯を切り刻む。血の蝙蝠は一斉に切り裂かれ、霧となって掻き消されてしまった。
「それは……ミリアムの黒い風」
『少し違う。星の加護だ。我は加護に導かれ、大いなる主を仰ぎ、その支配が実現する日を願っている。そのために戦い続ける。軍神ミネルヴァはそうあり続ける』
実体化するカーミラは自然と逃げ腰になっていた。どんなものも切り裂き、すり潰す黒い風がミネルヴァを覆っている。あれが存在する限り近づくこともできない。
そして鈍っていく思考もまた厄介だ。
(渇く、血が……血を……集中しなくては)
少しずつ回復しているが魔力は枯渇気味。血への渇望は強まり、集中力も欠いている。蛮骨を操る手にも震えが乗り、いつもより精度が悪かった。
『さぁ降れ。我が軍門に降れ。死は怖いだろう。それとも血を暴走させ、獣となり果てるか?』
カーミラは傷を負うたびに再生し、魔力を失っていく。覚醒魔装の恩恵で回復しているとはいえ、それも追いついていない。いずれは理性を失い、血を求める怪物に堕ちることだろう。
それは彼女にとって死よりも厭うことだった。
『恐れることはない。我はサンドラの地を治めよう。炎帝に代わり、この地をよりよくしよう。それは人間のためにも、吸血種のためにもなる』
そう語りかけながらもミネルヴァは苛烈に攻める。カーミラは血を小さな粒として固め、それを散弾として全方位に放った。しかしミネルヴァは槍で弾き、あるいは回避し、無傷で乗り切ってしまう。
(まさかスルザーラさんの祝福までも?)
前かと思えば後ろ、右かと思えば左。蛮骨の不規則な軌道すら見破り、カーミラの懐まで踏み込んで刃は振るわれる。
劔撃の刃が心臓を刺し貫く。それを理解したカーミラは、ただ運命を受け入れた。




