607話 意思なき刃
迫り来る刃を目の当たりにして、玉蟲の業魔も座して待っているわけがなかった。だが言葉一つで歪めた空間も引き裂かれ、その勢いは止まることがない。蟲や蟲魔族を盾にしても、勢いは決して削がれない。
――主は星となって去り、私のもとにはいない
――野は焼け果て、地の実りは苦みを生み出した
――正しい者は虐げられ、清い者は踏みつけられる
――主は去った
――星は遠く
――私は呪い、私は叫ぶ
――滅びあれ、破壊の大門よ開け
だからこそ玉蟲の業魔は歌った。滅びと呪いの旋律を口ずさみ、黒い暴風が吹き荒ぶ。この世の全てを断ち切る黒い風だ。それがルークを粉砕するべく迫った。
(そのままですルーク!)
しかしそれを見てネオンは決して静止を望まなかった。余計なことは口にせず、ただルークのために歌う。それは光のような柔らかい旋律となり、彼を守る輝きとなった。
――主は星々すらも動かし私を救われる
――野の雫は喉を潤し、花の蜜は舌の上で甘い
――正しい者には恵み深く、清い者には力が与えられる
――大いなる主
――星の力
――天も地も褒めよ、全霊を以て褒めよ
――私は歌う、星の威力を歌う
――天の門は開け、栄光の戸の閂よ外れよ
その歌がある限り、黒い風はルークに届かない。そしてネオンの慈しむ思いだけが彼へと届く。旋律が生み出す共感はルークの心を奮わせ、光の守りが黒い風を弾く。
「セフィロトに接続。第十、第九、第八、第七、第六、第五、第四、第三、第二、第一を解放」
カーミラはルークに賭けた。
《聖印》の魔力封印は先に解放したばかり。今の蓄積も充分とはいえない。
「彼方より流出する有界の無限。光より始まり、光に終わる」
失敗すれば、もうこの戦いでは使えない。カーミラにとって最大の攻撃であり、一回限りの切札。それを今、切る時だと判断した。
両手を伸ばし、その射線上にルーク自身をも捉える。
「ルークさん。背を押します。《無限光》」
精霊秘術セフィロト術式における最大の術が解き放たれる。最低限の魔力で威力を担保させるため、一方向への放射という形に改変した。通常では全方位に放たれる光の解放を、一方向に限定する。
物質世界の魔力を等しく消滅させる、聖なる光の奔流。青白い残光の軌跡が先行するルークに追いつき、飲み込んでなお直進する。
だがルークは痛みもなく、己の失速も感じなかった。
(一瞬ビビったけど、凄い。背中を押されているみたいだ)
ネオンの歌は《聖捌》の加護そのものだ。元は聖なる光であるが、少々変質もしている。それが守りとなり、《無限光》を届かせない。寧ろ光の奔流に乗せられ、加速する。
光の奔流は先導となって行く先の蟲も蟲魔族も滅ぼし尽くし、道を切り開く。
――その日、全地が震える
――真実の救いを見よ
――草も、獣も、鳥も、沼も
――罪の身体は滅びた
――新しくされた私
――花のように色づく
玉蟲の業魔が歌えば世界を断つ黒い風が吹き荒れ、無尽蔵の蟲魔物が湧き出る。蟲たちは花のように色づき、玉蟲の業魔の手足となる。
まるで壁だ。
密集する蟲には隙間一つない。
『私は歌うのですわ。世界が救われるその瞬間まで、絶えず歌い続けますのよ!』
彼女の思念で訴えつつも、歌で世界を作る。
蟲で満たされた、彼女にとっての救いの世界だ。それを引き裂こうとする刃は拒絶し、決して受け入れない。黒い風を竜巻として作り出し、殻として身を守る。
――私は歌う、星の威力を歌う
――――私は呪い、私は叫ぶ
――天の門は開け、栄光の戸の閂よ外れよ
――――滅びあれ、破壊の大門よ開け
ネオンはただルークを守るために。
玉蟲の業魔はただ羽蟲を叩き潰すために。
互いの旋律は重なり合うが、その詞によって反発する。黒い風が光を切り裂き、光が黒い風を打ち消す。しかしその割合は徐々に偏り始めた。
『なぜ……ッ! なぜですの? 私はより大きな力を持っていますわ。誰よりも、どんな魔族よりも。それがただ一人の塵蟲に!』
(俺が一人じゃないからだよ!)
光に守られ、光に背中を押され、ルークは己の全てを任せる。彼は刃。音すらも置き去りにする究極の一振りとなって黒い風を貫き、目前まで迫る。
『この私を――ッ!』
ほんの一瞬のことだった。
それにもかかわらず、ルークは時が引き延ばされたかのように感じていた。
嵐唱の刃は確かに玉蟲の業魔へと届き、そのまま魔石を貫こうとしている。だがこの瞬間、彼を強い感情の波が襲った。
『憎い、憎い、憎い。人間共が憎い』
『醜い、醜い、醜い。人間共は醜い』
『恨む、恨む、恨む。人間共を恨む』
その声、その言葉、ミリアムのものだった。
同時に流れ込んでくるのは彼女の記憶。黒い炎に包まれる忌まわしい思い出だ。全てを奪われ、全てが憎らしくなったエルムレアの在りし日だった。
(なんだよ、これ)
彼女の記憶に出てくる人々が、次々と蟲に変わっていく。その姿は魔物よりも悍ましく、目にするだけで吐き気すら催す。彼女の見る景色全てがこの汚らわしい蟲に置き換わっていき、やがては記憶の中にすら浮かび始めた。
この世の人間全てが蟲に見える世界だ。
『こんな蟲共が蔓延る世界を、私は救う。私が正しく導く!』
あの悍ましい蟲共に比べれば、魔物も魔族も全てが美しい。だからミリアムは魔神教団に傾倒し、魔族という存在に憧れた。魔物にはなれないが、魔族になる方法は存在している。いずれくる楽園のためならば、この蟲だらけの忌まわしい今を受け入れることもできた。
何もかも、いずれ来る楽園のため。
『哀れな蟲共を救済するために私はこの力を得た! そして冥王アークライト様に選ばれたのですわ! 穢れたものを壊し、救い、清浄なる世界を作るために……私はどんなことでもしますの!』
どこまでも強い覚悟が、声となってルークの中に響いた。彼女は一切の悪意を持たない。ただ純粋に、本当に、心の底からこの世界を憂いていた。そして救済したいと思っていた。
そしてルークはミリアムという一人の人間が経験したものを感じ取り、その決意に共感してしまった。
間違ったやり方だと理性で断じても、感情を動かされてしまった。
(俺は……正しいのか? ミリアムを殺す方法しかないのか? 彼女に救いはないのか?)
嵐唱の刃は玉蟲の業魔へと突き立てられ、その魔石を貫こうとしている。スルザーラの矢が抉じ開け、更に魔石へと傷も付けた。今ここで刃が触れれば亀裂は広がり、魔石を砕くことだろう。
それでもルークは迷ってしまった。
(残酷な世界を変えようとしているのに。でもミリアムのやり方は間違って……だが俺は彼女の思いと努力を切り捨てようとしている。いや、でもこいつは俺の故郷を焼き、家族を殺した仇で)
濁った思いは刃を鈍らせる。
まさに究極の一振りと呼ぶに相応しい切れ味だったにもかかわらず、今のルークにはその鋭さがない。たとえ魔石に食い込んでいる今からでも、その切れ味では貫くことなど叶わないだろう。
迷いは鈍らせる。
『愚かな。このような冥王の手先でしかない女、滅ぼすべきだというのに』
だから『刃』は己の意思でその鋭さを研ぎ澄ませた。
風を呼び、雷を歌う。嵐唱という刃は鈍らとなった己を、己で操った。
(え? 腕が、魔力が)
ルークは全身が力んだ気がした。そして意思に反して大量の魔力が嵐唱に流れ込んだ。気の抜けた右腕に、確かな技が宿る。
『このような茶番は終わりだ。魔神はただ一人。一つの時代にただ一人。それが大いなる意志であるが故に』
(待――ッ!)
違う、やりたくない、止めてくれ。そんなルークの言葉にならない叫びとは反対に、身体は玉蟲の業魔を貫くために最適な動きをする。もはや嵐唱の切先は魔石に食い込んでいる。ルーク本人の意識がどう抵抗しても、決定事項は動かない。
刃は更に食い込み、雷光が侵食する。
魔石の亀裂は広がり、そこから黒い魔力が噴出した。
『わた、し……は……』
悲鳴のような雑音の中に、強い心残りの念を感じる。
だがルークの身体はその意思に反して彼女の胸を貫いた。花開く玉蟲の業魔の、その中心にある女性の胸部。そこに大きな穴が空く。
次の瞬間、玉蟲の業魔へと黒い流星が落ちた。瞬時に闇へ飲み込まれ、周囲の蟲ごと焼き尽くす。
「ルーク!?」
ネオンは驚き、歌を止めて叫んだ。
黒い爆発に飲み込まれてしまったのではないかと危惧したからだ。しかしそんな懸念は不要で、白い軌跡を描きながら飛翔するルークを発見する。ほっと安堵したのも束の間、鳥の形をした爆弾が殺到した。
それらはルークの速さに追いつけていないが、その数を活かして包囲するように逃げ場所を奪ってくる。
――謳え、星盤祖を称える歌を
その導きが声として聞こえた瞬間、彼女は再び歌い始めた。鐘の音のように歌は響き、まるで空から降ってくるような心地にさせる。
星の守り歌はルークに近づこうとする鳥を失速させ、不発のまま墜落させた。
『聖杯よ――』
勝った、と安堵した。それが大きな隙となった。
まだ玉蟲の業魔は息絶えていなかったのだ。ルークは確かに魔石を切り裂いたが、完全破壊には至っていない。破壊的な闇に呑まれてもなお、原型を保っていた。確定した崩壊まで残った猶予を使い、彼女は最期の足掻きを見せる。
『どうか……どうか我が後継を用意なさい。私の命を糧として、世界を救うに足る後継、を……』
玉蟲の業魔は最期の願いを告げた。同時に魔石は砕け散り、光の天秤は限界まで傾く。これ以上の質量はないと言わんばかりだ。そして少しずつ、本当に少しずつだが平衡へ戻ろうとしていた。
聖杯は支払ったものに相応しい返礼をこの世に現す。
「ルーク! カーミラ! 聖杯を奪取してください!」
ネオンは咄嗟にそんなことを叫んでいた。
それと同時に星盤祖の声も同じことを預言する。またルークもカーミラもその必要性はすぐ理解した。
「ルークさん! 狙うべきは第三の眼です!」
「カーミラはどうするんだ!?」
「あれを潰します!」
カーミラが指差したのは、玉蟲の業魔の頭上であった。光の天秤が平衡を取り戻そうとするにつれて、空間が裂けようとしている。傷口のように裂けた空の奥は暗く、ただ覗き込もうとするだけで怖気が走った。
(よく分からないけど、嫌な感じがする……ッ!)
空の亀裂は天秤の動きに合わせて広がっている。そして天秤が完全に平衡を取り戻したとき、すなわち玉蟲の業魔の願いが叶ったとき、何か恐ろしいことが起こる気がする。
ただの予感でしかなくとも、ルークは真に迫った様子で己の身に鞭打った。
「最後の仕事だ嵐唱!」
どっと押し寄せる疲労を気力で補い、再び魔力を込める。既に全身全霊は出し尽くした。先の一撃と比較すれば二割にも満たないだろう威力だ。それでもルークは諦めなかった。
一方のカーミラはまだ体力に余裕こそあれど、決して状況的に余裕とは言えなかった。あの空間の裂け目をどうにかする方法として、彼女はたった一つの手段しか持っていない。
「《聖印》も解放し尽くしましたし、この一度で確実に当てなければなりませんね」
状況は悪い。
今も《暴食黒晶》は絶え間なく降ってくるし、空に上がりすぎれば《死兆群》の餌食となる。
カーミラは瘴血の霧を使って長いトンネルを作る。魔力を阻害する霧は魔物にとって毒そのものだ。蟲たちは退き、道はできあがる。
「星盤祖よ。私の祈りをお聞きください。リィア、どうか私に力を貸してください」
血翅を胸に寄せ、ネオンは祈る。
そして剣を掲げると、そこに光が集まり始めた。
「始まりの光よ。偉大なる主の光よ。どうかここに顕したまえ」
狙うべきは空より降ってくる障害だ。ルークは玉蟲の業魔を、カーミラは空の裂け目を、そしてネオンは鳥にも似た爆弾を撃ち落とす。
「《秩序星廟》!」
光は流星群のように解き放たれ、空を塗り潰していく。次々と屈折するそれらは時に分散し、時に束ねられ、嵐となって一掃した。《死兆群》は光にすり潰され、爆発すら許されず塵となって消える。後には星々のような煌めきだけが残り、まさしく神話の体現となった。
空は晴らされ、道は完全に開ける。
「いい支援です」
カーミラは霧のトンネルの中で、そう呟いた。これで《死兆群》の爆発で霧が吹き飛ばされる心配もない。
空の裂け目より滴る透明な『ナニカ』に向けて、右の手を伸ばしす。するとその腕から指先までを黒い術式が覆い、蠢いていた。それに近づけば近づくほど悍ましい気配は強まり、すぐにでも踵を返したくなる。しかしカーミラは己を奮い立たせ、『ナニカ』に立ち向かった。
「万物に、死を。《万象貫通》」
黒い光線が空の亀裂に吸い込まれる。
それは冥王アークライトより与えられた死の法則だ。この世のもの、この世ならざるもの、区別なく死を与える。閃光が空を穿ち、亀裂すらも破壊した。
そこから這い出る透明な何かも、亀裂の消滅と同時に雫となって落ちていく。
「ルーク、さん……後は頼みます」
全ての魔力を一気に使い果たしたことで、カーミラは飛行すらも維持できなくなる。落下しながらも、ルークの方を見遣った。
「俺たちは勝つ。勝って帰る。俺は……お前とは分かり合えない」
もはや刃に憎しみなど乗っていなかった。
ただ相容れなかった。それだけのことがこれほどの犠牲と悲劇を生んだ。
「だから、終わらせる。今度こそ」
ルークは焼け焦げた玉蟲の業魔の、額に輝く第三の眼を射抜いた。嵐唱の刃を突き立て、肉を裂き、頭蓋を砕き、その奥で肉や筋に覆い隠された聖杯を見つける。
ただそれを破壊することはできなかった。
ここまでで嵐唱の力を使い尽くしてしまったからだ。強引に引きずり出した残りの力では、これが限界だった。
『全てを明け渡すならば、力は泉のように湧く』
「そんなことするかよ。要はこいつを引き抜けばいいんだろ!」
甘言に惑わされることなく、ルークは嵐唱の柄を口に咥えた。左腕はすり潰されてしまったのだから、右手で引き抜くしかない。手を伸ばし、泥のようなものを溢れさせる聖杯へと触れる。そして指を引っかけ、しっかりと手に取った。
「ううう、おおおおッ!」
癒着した聖杯を引き抜いて、力いっぱい転身しようとする。しかし玉蟲の業魔は死にかけでも肉体の再生力は残っていた。現にルークが引き裂いた頭蓋は元の姿を取り戻そうとしており、再生する肉によってルークの身体は拘束されていく。
そして未だ、聖杯は玉蟲の業魔のものだ。光の天秤が軋む音は止まっていない。
(どうする……? どうすればいい。動けよ俺の身体!)
必死に身を捩っても、徐々に動けなくなる一方だ。聖杯は既にルークの手の内にあるというのに、所有権は奪えていない。それどころか玉蟲の業魔は再生力によりルークごと聖杯を取り込もうとする。
まるで死んでも尚、聖杯は己のものだと主張しているかのようだ。
(だめだ……息、が……)
圧迫され、目の前が真っ暗になっていく。身体から力も抜けていく。感覚がなくなり、心臓の音だけが鐘のように大きく聴こえた。それだけが生きているという確信だった。
一気に疲労が押し寄せ、聖杯を握る指の感覚すら薄らいでいく。
(こんな、最後、で……)
深い闇へと沈んでいくその時、ルークは声を聞いた。
いや、それは歌声であった。
――魔の手が私の魂に触れるとき
――主は星々すらも動かし私を救われる
瞼の奥に星のような小さな輝きが現れる。その一番星を皮切りとして次々と光は現れ、ルークの心から恐怖や無力感を拭い去った。次第に星のような光は輝きを強め、やがて眼を焼くほどの強烈なものとなる。
――どうか戻ってきて。ルーク。
歌に混じり、ネオンの呼び声が聞こえた。
「ああ。必ず」
心の繋がりを感じて、ルークはただそう答えた。
歌声は共感を呼び、共感はルークの魂にも影響を与えた。ネオンの持つ《聖捌》の力が歌となって届き、ルークの魂が反響させた。
太陽のような、強い光として。




