604話 花、あるいは蟲
玉蟲の業魔は根を脚のように使い、少しずつ移動して神奥域の真上に到達した。大穴へと落下しないよう、根を張って大穴に覆い被さったのだ。
色づいた花びらの表面でもぞもぞと何かが動く。それらは朝露の雫にも似ていて、するりと地上に滑り落ちた。だが地面へと叩きつけられるより早く、空中で形を変える。その色に応じた蟲の魔物へと。
『さぁ生まれて。私のために。世界のために。正しさのために』
歌うように、祈るように。
玉蟲の業魔は尽きることのない蟲の群れを生み出していく。それらは一切の共食いをせず、ただ一つの意思に従っていた。まるで一つの軍隊のように統率され、世界へ解き放たれる瞬間を待っていた。
『変革の時が来たのですわ。人間共を滅ぼし、世界を生まれ変わらせる時が!』
花の根は大地を這いまわり、地中すらも掘り進めていく。
その狙いはこの戦いを目の当たりにして帝都から離れようとしている人間たちであった。彼らは主に地下都市リベラストラから逃げ出した民である。南や西に、思うままに逃げていた彼らは恐怖したことだろう。地面を引き裂くように這い寄る無数の根を目の当たりにして、死の恐怖に怯えた。
『恐れることはありませんわ。ただ受け入れるのです。私の救済を! 滅びゆく世界から拾い上げられたことを喜ぶのですわ!』
人々は根に絡めとられ、空中に高く掲げられる。そこに一つの軍隊となった蟲の群れが殺到し、逃げ場を奪うようにして取り囲む。辛うじて根から逃れた人々もそのせいで機を失い、やがてすぐに根で捕らえられてしまった。
「嫌だ! 嫌だ! 助けてくれ!」
「お願い。いやあああ!」
「何でだよ! 死にたく……ッ!」
「助けて! お願いだからあの子だけは!」
人々の悲鳴は蟲たちによって覆い隠されてしまう。彼らを助けることはできない。誰にもそんな余裕はないのだから。その中には帝都を守るはずだった吸血種すらいる。特権者である彼らもまた、助けを求め恐怖で顔を歪めていた。
根は脈打ち、悍ましい色へと変化する。
同時に彼らを囲む蟲たちが、玉に見えるほど密集し始めた。人々の悲鳴が響き渡る中、根から滲みだした液体のようなナニカが蟲玉を覆っていく。
『喜びなさい、生誕を。それが救われた姿ですわ!』
花として咲く玉蟲の業魔の周りで、繭のようなものが大量に実った。それらは根から釣り下がり、見るに堪えない悍ましい色合いを放っている。
それらは次の瞬間、一斉に弾ける。
繭の内側より現れたのは、蟲の特徴を持つ化け物たちだった。燃える翅、鋭い針、鎌のような腕、百足の下半身、靄のような鱗粉が覆う身体、黒い外骨格、蜘蛛の顔。特徴のあり方は一例に過ぎないが、その全てが蟲の一部を備えている。
『賛美なさい。喜びの歌を奏でなさい。魔神様へと奉げる歌を!』
すべて魔族だった。
玉蟲の業魔は己の力で蟲を生み出し、聖杯の力で人と融合させる。本来であれば魔神にしか許されない所業を、一介の業魔族が可能にした。
それらは全て玉蟲の業魔の支配下に入る。
本来はミリアムが保有していた、魔物を魅了し操る魔装だ。支配されていた蟲の魔物を使って魔族化させられた結果、蟲魔族は等しく彼女をこそ王と仰ぐ。命令されるがままに歌い、人形のように喜びを表現していた。
――主は星となって去り、私のもとにはいない
――野は焼け果て、地の実りは苦みを生み出した
――正しい者は虐げられ、清い者は踏みつけられる
――主は去った
――星は遠く
――私は呪い、私は叫ぶ
――滅びあれ、破壊の大門よ開け
――その日、全地が震える
――真実の救いを見よ
――草も、獣も、鳥も、沼も
――罪の身体は滅びた
――新しくされた私
――花のように色づく
呪いの歌に合わせて玉蟲の業魔は根を広げ、サンドラ帝都にまでも及ばせる。聖杯に魂を奪われた帝都臣民たちは次々と蟲魔族に変えられ、同じように歌い始める。
まさしく終焉の始まり。
その自覚はなくとも、玉蟲の業魔はもう一体の魔神に進化していた。
◆◆◆
神奥域に咲いた巨大な花。
それすなわち玉蟲の業魔は根を広げ続け、無尽蔵に蟲の魔物と蟲魔族を生み出していく。それはこの世の全てを蟲で埋め尽くすまで止まることがない。
「冗談だろ……こんなの」
ルークの言葉には重苦しいほどに絶望が乗せられていた。
見渡す限りの蟲。
そして地上を覆い尽くそうとしている玉蟲の業魔の根。それぞれ七色の花びらを有する玉蟲の業魔は呪いを歌い続け、蟲魔族もそれに続けて絶唱する。
もしもカーミラがいなければルークもまた、あの中の一部になっていたことだろう。
「ありがとうウェルス。重くはありませんか?」
「グァ……」
「ごめんなさい。もう少し頑張ってください」
竜にも似た赤い獣、ウェルスのお陰で助かった。カーミラが血より生み出した相棒とも呼べる獣だ。ウェルスはできる限り巨大化して全員を乗せ、空へ皆を逃がしてくれた。ただしウェルスもこれまでの戦いでかなりの力を使っている。
かなり苦しそうだった。
「私は……失敗したのでしょうか。私は世界を――」
そしてネオンは自責の念に圧し潰されそうだった。魔族の手から人を守るための聖守だ。だが実際にはそれを為せず、寧ろ魔族によって世界が滅ぼされようとしている。
人間という種族の時代が終わろうとしているのだ。
「いや……まだだ。まだできることはある」
スルザーラはそう言いながら、何とか這って地上を見下ろせる位置まで来た。落ちないようしっかりとウェルスの体毛を掴みつつ、スルザーラはある場所を指差す。
「あそこだ。あそこに奴の魔石がある」
「魔石?」
「ああ。魔族の心臓にある弱点の魔石。ミリアムの弱点だ」
ルークの疑問は、それがなぜ分かるのかということだった。花のように変身した玉蟲の業魔の中心にある、女性の上半身を指差しているようだ。それは黒曜石よりも黒く、祈っているようにも見えた。
「あの胸の部分に聖守様の聖王剣が埋まっている。更にその奥で奴の魔石と繋がっている」
「何でそんなことが分かるんだよ」
「よく分からない。突然分かるようになった。おそらくは祝福が進化したのだと思う」
「スルザーラの祝福は……確か目が良くなるんだっけ? そんなことも分かるようになるのか?」
「さてな。先ほど私も気が付いたが、祝福が第九位階に到達していた」
スルザーラが右手の甲を見せた。
始原母の祝福を受けた者は、皆そこに印が浮かぶ。この印を介して祝福の位階を知ることが可能だ。
「祝福のことはどうでもいい。重要なことは、まだ奴を倒す方法が残っているということだ。あれは放置すれば世界を滅ぼす。この世の人々を全て魔族に変えてしまう。止めることができるのは私たちだけだ」
「弱点が分かっているなら簡単だ。俺が嵐唱で貫いてやる」
「ああ。やるべきことは簡単だ。だが問題はミリアムが使う黒い風だ。あれのせいで私の足はこの通りだし、ルークも片腕を失っている。防御のできないあの攻撃を掻い潜り、奴の魔石を貫く。それが難しい」
こうしている間にも花の根は広がり続け、蟲魔族も増え続けている。たとえ玉蟲の業魔を倒したとしても、生まれた蟲魔族が増えすぎればそれもまた世界が滅びる要因となりうる。とにかく時間が残されていない。
何か手はないのか。
全員が口を噤み、その方法を模索する。
そうしてしばらくの後、ネオンが手を挙げた。
「私の歌……歌が役に立たないでしょうか」
そう、提案するために。
◆◆◆
玉蟲の業魔は歌を繰り返す。
星を呪う歌を何度も繰り返す。天に浮かぶ光の天秤には代価が乗せられ、それに相応しい結果が与えられる。そのたびに蟲魔族が誕生し、支配下へと加わった。
「準備はいいですね? ネオンさんに全てがかかっています」
「はい。少し緊張しますが」
ウェルスの上にはカーミラとネオンの二人しかいなかった。ルークとスルザーラは別行動をしている。
耳を覆いたくなるほどの大合唱が世界を震わせる中、ネオンは何度も深呼吸していた。呪いの歌は数千、あるいは数万もの魔族が発するもの。それにたった一人で切り込もうというのだから、緊張もする。
「ルークさんが動きました。間もなく合図です」
「はい!」
それからすぐ、強い光と共に轟音が響き渡った。恐ろしいほどの音が呪いの歌を引き裂き、光はまっすぐ玉蟲の業魔へと落ちる。
ルークによる嵐唱の一撃だ。
光が晴れ、轟音が消えたとき、玉蟲の業魔はまるで堪えた様子がなかった。その余波で花びらより生み出される蟲系魔物を幾つか消滅させるほどの威力だったにもかかわらず、玉蟲の業魔本体には傷一つ付けられていない。
「今ですネオンさん! 彼らの歌が止まりました!」
だが呪いの歌を中断させるには充分だった。
この一瞬の静寂に、ネオンは大きく息を吸い込む。そして歌い始めた。
――主は力、主は砦
――私の避けどころとなる御方
――褒め称えられるべき方
――死の網は取り除かれ、滅びの川は枯れ果てた
たった一人の歌声だ。しかしながらどうしてか、彼女の声はどこまでも響き渡る。その歌を耳にした蟲魔族たちは心を動かされ、反響させる。
歌は魂を動かし、世界をネオンのものに塗り替えた。
神々しい光によって満ちていく。その光を浴びた蟲魔族は苦しみ悶え、蟲の魔物も地に落ちる。《聖捌》の光はあらゆる魔を滅ぼす救済だからだ。
――魔の手が私の魂に触れるとき
――主は星々すらも動かし私を救われる
ネオンの歌はこのまま魔族や魔物を制圧してしまうかに思われた。だが玉蟲の業魔とてこれを見過ごすわけがない。嵐のように黒い風が吹き、歌声ごと《聖捌》の光を引き裂いたのだ。
「ウェルス、引いてください」
危険だと感じたカーミラはすぐに場所を移動する。ウェルスは急制動を何度も繰り返し、そのせいでネオンも歌を中断せざるを得ない。
歌が止まれば共感による術の拡散も止まる。
そして今度は玉蟲の業魔が歌い始めた。
――魔の手が私の魂に触れるとき
――主は星となって去り、私のもとにはいない
――野は焼け果て、地の実りは苦みを生み出した
――正しい者は虐げられ、清い者は踏みつけられる
――主は去った
――星は遠く
――私は呪い、私は叫ぶ
――滅びあれ、破壊の大門よ開け
呪い歌に合わせて黒い風が吹き荒れ、しつこくウェルスを狙う。今のネオンの歌によって玉蟲の業魔も危険性を認識したらしい。
黒い暴風は触れるもの全てを粉砕していく。
仕組みも性質もよく分かっていない今、無闇に防御するわけにもいかない。
「味方の魔族すら構わずですか。ネオンさん、しっかり掴まってください」
「う……これでは歌うことも」
「ですがミリアムも嫌がっているようです。効いています。どうにか歌を再開したいところですね」
玉蟲の業魔が歌うたびに、黒い風が網目のように絡み合いながら放たれていく。触れるもの全てを破壊する風は魔物や魔族すらも粉砕し、死と破壊を振り撒いていく。
「あれでは近づけませんか」
「どういうつもりでしょう。魔族を自分自身で殺してしまうなんて」
「同胞ですら気に留めないとは、いよいよ心を失ってしまったようですね。あのようなものが世界を変革すれば、世も終わりです。必ず止めましょう。予定通り、気を引くことはできましたから」
「ええ。託しましょう。スルザーラに」
黒い風は近づけば密度も高く回避不能だが、離れてしまえばその余地もある。ウェルスには負担をかけてしまうが、派手に動くほど気を引きやすい。
(しかしこの黒い風……どこか異質なものを感じます。この世の魔力ではないような。それこそシュウ様の魔法のような)
回避の最中、カーミラは玉蟲の業魔の力の正体について考察を重ねていた。
◆◆◆
「皆、ありがとう」
スルザーラは遥か遠く、玉蟲の業魔が小さく見えるほどの位置まで離れていた。力を増した《視覚》の祝福のお陰で、これほど遠く離れていてもよく見える。その位置から、劔撃である一点を狙っていた。
「劔撃、最大威力を超えろ。存分に魔力を持っていけ」
『ほう。しかし覚悟しておけ。この一矢を放った時、もはや指先の一つすら動かぬほど疲弊するだろう。無才には過ぎた力だ』
「ならばこの命すら使い尽くして構わん」
『意外だな。聖守や少年の言葉は耳に届いていなかったか?』
「世の中は綺麗ごとだけで回らない。誰かが犠牲にならねばならない時もある。今がその時で、私の番だった。悔しいがな」
あれだけ諭され、叱られてもスルザーラは考えを改めようとしなかった。
必要ならばやる。
そういうことができる男だからだ。
「こういったやり方は聖守様やルークには向いていない。あるいはカーミラならば見抜いているかもしれない」
『考えても無駄なことだ。命すら使い尽くすという言葉、違えぬな? 全てをこの劔撃へと明け渡すのだな?』
「無論」
『よかろう。同化の先の先にある力すら宿そうではないか』
魔力矢の先で黒い稲妻が走る。
それは周囲の光を歪め、奇妙なプリズムを生み出した。分光して様々な色が放たれた結果、悍ましさすら催す色合いへと変化していく。
(なんだこれは? いや、しかし)
劔撃の矢に今まで感じたことのない、異質なものを感じた。だが嫌な予感程度で止めるわけにはいかない。
よく見通し、狙いを定める。
その場所は玉蟲の業魔の心臓部。女性体の胸に埋まった魔石だ。
『射抜け。そして全てを明け渡すのだ。この劔撃に』
スルザーラは自分の指が勝手に動いたように錯覚する。
神器の声が聞こえると同時に、矢は放たれていた。




