603話 スルザーラの覚悟
ミリアムにとって魔神教団は救済であった。
予想した通り、魔が混じった者たちは悍ましい蟲には見えなかった。
『世界を救わなければ! 蟲の蔓延るこの世界を! 私が!』
蟲は悍ましい。
蟲は汚らわしい。
蟲は存在するだけで悪だ。
ゆえにミリアムは駆除する。この世から一匹たりとも残さないよう、尽く。そのためにあらゆるものを犠牲としてきたのだ。そして視界を埋め尽くす蟲の気持ち悪さに耐えてきた。
『奏でましょう。謳いましょう。この世界の終わりを。新たな秩序の始まりを。そして星の呪いを!』
人類の歴史を終わらせ、魔族の世界を創造する。
《秩序星廟》の光が嵐のように過ぎ去ったとき、玉蟲の業魔は見るも無残な姿となっていた。剣のような肉の塊は膨れ上がり、一部は破裂して膿のようなものが流れ出ている。刃に浮かび上がっていた第三の眼もすっかり歪んでいた。
だが一方で光の天秤は健在である。
聖杯と同化することで発現する天秤は、片方へと強く傾いていた。
『第二幕が明けますわ。世界に咲かせる歌の舞台が!』
天秤が戻っていく。
片方の秤へ載せられた代価と釣り合うよう、玉蟲の業魔に奇跡を授けるためだ。
そびえる肉塊はゆっくり開く。捻じれた切れ目が幾つも走り、花びらのように広がり始めた。その数は七つ。丁度、蟲の種類と同じである。
「ネオン、なんか……」
「はい。危険です。何が起こっているか分かりませんが、放置してはおけません」
ルークとネオンは距離を取りながら玉蟲の業魔が変態する様子を観察する。勿論、変身が終わるまで待つつもりはない。ルークは嵐唱に雷撃を宿し、ネオンも再び光を集める。
そうしている間にも玉蟲の業魔は完全に開き、本当に花のようになった。相も変わらず肉の塊に似た色合いと質感だ。だがその花びらの中心に現れたものだけは違った。
「あれは……ミリアム?」
「そう、見えますね」
巨大な肉の花から女性の上半身が生えているような見た目である。女性は一目でミリアムだと分かる容姿だが、かなり大きい。元の玉蟲の業魔が蕾となって咲いた花だ。その巨大さに見合うほどの大きさであった。
それこそルークの身体が爪の先にしかならないほどである。
この変身が何を意味するのか、まだ分からない。しかし悪い方向に転がっていることは確かだった。
「もう一度です……始まりの光よ。偉大なる主の光よ。どうかここに顕したまえ」
ネオンは祈り、血翅を掲げる。
玉蟲の業魔が動き始めるより早く、倒してしまえばいい。光が集まり、屈折し、大量の光線となって放たれる。一つ一つが鉄をも貫く光の束となって、雨の如く降り注いだ。そればかりか嵐のように吹き荒れ、玉蟲の業魔へと迫――。
――主は星となって去り、私のもとにはいない
歌声が響き渡り、黒い暴風が放たれた。黒い嵐と光の嵐は激突し、光が引き裂かれる。
星盤祖がネオンへと授けた大魔術、《秩序星廟》。まさしく降りてきた勝利への啓示に思えた。
――野は焼け果て、地の実りは苦みを生み出した
――正しい者は虐げられ、清い者は踏みつけられる
――主は去った
続く歌声に合わせて黒い暴風は強くなる。あれは通過するだけで万物を切り裂き、ルークにも深手を負わせた攻撃と似ている。
受け止めるわけにはいかず、ルークは慌ててネオンの手を引きつつ下がった。
――星は遠く
――私は呪い、私は叫ぶ
「何だよこれ!」
――滅びあれ、破壊の大門よ開け
黒い風が辺り一帯を薙ぎ払う。
何もかもを滅ぼす風は、まさしく滅びだ。呪いの歌が謳う通り、この世界を滅ぼす。神奥域のすぐ傍で、世を呪う序曲が奏でられた。
◆◆◆
ネオンは歌うことが好きだ。
聖守として相応しくあれと育てられ、抑圧されてきた。義務と重責から解放してくれる唯一のものが、歌だったのだ。
――聖守様の歌は力が湧いてくるようです。
いつだったか、そう言われたことがある。
ぼんやりとする思考の中、ネオンはその人物の声が鮮明になってくるのを感じた。
――世界が平和になれば、きっと聖守様は世界一の歌手ですね。
照れくさくて、もの恥ずかしくて、つい否定してしまった。しかしその人物は間違いないと太鼓判を押してくれる。そればかりか支援したいとも言ってくれた。
自分を信頼して、応援してくれることが嬉しかった。
――ではその時は一番良い席で聴きますね。
魔神を討ち滅ぼし、赫魔を追いやり、サンドラ帝国の暴虐を諫め、常闇の帝国にも真なる信仰をもたらす。その先にある完全な平和の世界を夢想した。
そんな小さな約束を交わしたのは――。
「スル、ザーラ……?」
ネオンが目を覚ました時、スルザーラが自身に覆い被さっていて驚かされた。やけに生暖かく、それと対照的に背中からは地面の冷たさが伝わってくる。
どうやらスルザーラは気を失っているらしく、ピクリとも動かない。そこで軽く肩を揺り動かそうとして気が付いた。両手が真っ赤に染まっていたからだ。
「え、これ……血?」
慌てて起き上がろうとして、全身がかなり痛んだ。酷く打ち付けてしまったらしく、鈍い痛みが貫く。それでもスルザーラを押しのけて起き上がり、彼女は気が付いてしまった。
「あ、え……あなた身体が!」
「ぅ、せい、しゅ……さま」
「スルザーラ! しっかりしてくださいスルザーラ! すぐに治癒を!」
ネオンは急いで治癒の魔術を使い、まず出血を止めようとする。だがこの惨状のため手が震え、心臓が激しく鳴った。これが現実だと理解をしたくない。
「……むり、でしょう。はな、れて」
「黙っていてください! どうして、こんな……私を守ったのですか? 何があったのですか!」
スルザーラからは下半身が消失していた。そのせいで血の池ができあがり、ネオンをも真っ赤に染めている。どうすればいいのか分からず周囲を見回すと、すぐ近くにはルークも倒れていた。そして彼もまた、左腕が肘から千切れてしまっている。
「どうにか、生きていますね」
そう後ろから声をかけられ、ネオンは振り向いた。声から誰なのかは分かっている。カーミラだ。彼女は霧化を使い、この惨状において唯一の無傷であった。
だから何が起こったのか、彼女だけが説明をすることができた。
「黒い風が吹きました。ネオンさんを守るためにスルザーラさんが。それとルークさんも」
「そん、な」
「ルークさんの出血は止まっています。スルザーラさんもすぐには死にません。彼が吸血種化を望みましたので、私が力を授けました。咄嗟に霧化を使ったのでしょう。そうでなければ全身が砕け散り、即死していたはずです」
「ノスッ……! いえ、彼が望んだことならば」
「私を憎まないのですね。彼を怪物にしてしまったことを」
「全ては私の弱さが悪いのです。彼にそうさせてしまったのは、私の罪。そしてこの状況さえも」
よくよく見ればスルザーラの血は止まり始めている。そればかりか少しずつ再生すらしていた。しかしながら明らかに血が足りておらず、着実に死へ転がり落ちようとしている。
ネオンの治癒魔術ではどうしようもない。
それならばと彼女は己の指先を小さく切り、滴る血をスルザーラの口へと落とし始めた。
「吸血種だというのなら、私の血を飲んでください。そうすれば回復するはずです」
「いえ、それでは足りません。私の血も与えます。本当はやるべきではないのでしょうが……」
カーミラもまたそれにならって、己の血を分け与え始めた。明らかにネオンの血だけでは不足しているからだ。
しかしこれは危険を孕んでいる。始祖の血はまさしく劇毒だ。吸血種化の際は上手く調整することで死ぬことなく肉体を変異させている。
逆に言えば、カーミラの血は吸血種化を進行させる恐れがあるということだった。過剰になれば器が耐えきれず、死に至る可能性すらある。
「アルテミアの血筋であれば、あるいは耐えられるかもしれません」
少しずつ、慎重にスルザーラへと血を注いでいく。
彼の身体は始祖に近い細胞で置き換えられ、その力が強い再生力をもたらす。しかしそれは傷を塞ぐ程度にとどまり、下半身の完全再生には至らない。
「お願い。お願いだから生きてください。カーミラ、どうですか?」
「……死は免れるでしょう。ですが人らしさが残っているかどうか。血に渇けば、私たちは理性を失い、本当の怪物となってしまいます」
「だったら私がもっと血を分けます」
ネオンは即断即決で、腕を深く切りつけようとした。だがその瞬間、彼女の持つ玉虫色の刃が掴まれ止められてしまう。
「いけ、ません。わたしは、もう……」
スルザーラはゆっくり体を起こす。しかしながら両脚はもうないため立ち上がることはできない。また息は荒く、今にも倒れてしまいそうだった。一方で目はぎらぎらと輝き、ネオンの指先から垂れる血を追っていた。
今にも狂ってしまいそうなほど血に渇いているはずなのに、スルザーラは耐えている。
カーミラをしても驚くべき状態だ。
「どうするつもりですか? スルザーラさんに戦う力はありません。すぐにでも血を取り込まなければ、血に飢えた獣へと堕ちてしまうことでしょう。そうなれば見境なく人にも獣にも襲い掛かる怪物です」
「お願いです。あなたにそうなって欲しくありません。私の血を飲んでください」
そう懇願するネオンを目の当たりにしても、スルザーラは首を横に振るばかりであった。
「わたしは、もう……国に戻れ、ないのです」
「それは吸血種になったからですか? だったら私が!」
「いけません。いけない、ことです」
スルザーラは勝利のため、今後の人生を捨てた。吸血種になるということは、そういうことだ。九聖としての地位は勿論、アルテミア家としての自分も、国籍さえも捨てる覚悟だった。どんなに言い訳を重ねても、聖守が庇ったとしても、元通りにはなれない。
「九聖は、模範。聖守は、希望。そこに……そこに瑕疵があっては、いけません。吸血種を受け入れるだけの余裕を民は持っていないのです」
あまりにも正論でネオンは口を噤んでしまう。これは否定できない事実だった。聖守の発言力があったとしても、スルザーラを庇いきるのは難しい。
するとスルザーラは少し大きな声でルークに呼びかけた。
「目は覚めているだろう?」
「……なんとか」
「動けるか?」
「もうすぐ回復する……って嵐唱が言ってる」
ルークとて左腕が引き千切られ、かなり出血してしまった。また地上に落下したことで全身を強く打ち付け、身体の内側もぼろぼろだ。嵐唱との同化がなければこのまま戦線離脱であった。
ただ回復したとしても、左腕を生やすまでは至らない。あるいは千切れた腕が残っていれば繋げることもできただろうが。
「ルーク、君に頼みがある。その残った腕を私にくれないか?」
「左腕をってことだけど、何するつもりだよ。俺、よく分かってないんだけど」
「ッ! いけませんスルザーラさん!」
「……食べるつもりだ。吸血種は本来、人肉を好む。しかし一度でも口にすれば理性を失い、血肉を貪る怪物になってしまうそうだ。しかしその代わり、大きな力を得られる。噂程度の話だったが、カーミラの反応を見る限り真実らしい」
その企みを理解したカーミラは思わず叫んだ。ネオンとルークも目的を聞いて驚きを隠せなかった。それは並の覚悟でなせることではない。そんなことをさせるわけにはいかない、犠牲になる必要はないと視線で語りかけてもスルザーラの決意は変わらなかった。
彼はただ、指先を上に向ける。
「玉蟲の業魔は健在だ。いつ、先と同じ攻撃をしてくるか分からない。私に必要なのは未来ではなく、今を切り開く純粋な力だ。私とて吸血種の末路は知っているつもりだ。ただルークに覚悟を問わなければならないな。左腕の残った部分すら失う覚悟を」
「何をするつもりだよ。カーミラの奴は賛成していないみたいだけど」
「命を引き換えに力を得る」
「……確かに、そうでもしないと勝てないかもな」
ルークは上半身だけ起き上がった。少し回復したらしく、呼吸も安定しつつある。ただ痛むのか、少し表情が歪んでいた。
見上げた先にあるのは巨大な花だった。
肉塊のような花びらを七枚も広げ、その中心にあるのは祈るように両手を組んだミリアムの上半身がある。元々戦っていたところから、かなり遠くまで飛ばされてしまったらしい。
そして地上に落ちたからこそ見えるものもある。
「なんか、気持ち悪いな」
「ふ。確かに。花びらの真下から根が生えている。あまり植物らしくもない。魔族とは総じてあのような生物ということか」
「俺たちも同化のせいで人外っぽくなっちまったけどな」
「ああ、支払った代価は大きい。だが、もはや引き返す理由もなし。勝利のため、突き進むだけだ。どこまで堕ちてしまおうともな」
玉蟲の業魔は根を脚のように動かして移動しているように見えた。こちらには目もくれない。あるいは地上に落ちたことで見失っているのかもしれない。
ともかくこちらに攻撃してこないのは幸運だった。
「スルザーラさん、本気ですか? 本気で人を捨てるつもりなのですか?」
「私はそのようなこと求めていません。あなたが生きてさえいてくれればそれでいいのです。約束したはずです。いつかきっと――」
「申し訳ございません聖守様。ですが聖守様にはもう信頼できるご友人方がいます。約束を果たしてくれる人は私だけではありません」
「そうでは……そうではありません。あなたの代わりはいないのですよ?」
ネオンがスルザーラの腕を掴む。
だがその手をゆっくりと解き、優しく握った。
「ならば私のために一曲、手向けとしてください。あの約束を叶えてくださるのであれば、今こそ」
「嫌……嫌です」
「お願いします。どうか」
意志は堅い。スルザーラは何を言おうと揺るがない。
ネオンはそのことを理解した。頭では分かっていても、心が拒む。何か方法があるのではないかと必死に考えてしまう。
(ない。ない。ないない……ッ! 私ではどうしようも!)
口を噤む彼女の代わりに、今度はカーミラが諫めた。
「肉を口にし、狂血化すれば吸血種としての力を大幅に引き上げます。その足を再生することもできるでしょう。ですがそれで得た力は私にも……始祖にも及ばない。だから落ち着いてください」
「そうかもしれない。だがそれに劔撃の力が加わればどうだ。私は全てを賭ける。そのつもりだ。今必要なのは立ち上がるための力なんだ。理性を獣に明け渡し、身体を神器に引き渡す。それだけの力が必要なのだ。たとえ捨て駒程度にしか役に立てないとしても」
「しかし……」
はっきりと否定しきれず、続く言葉を失ってしまう。そんな彼女の様子を見て、スルザーラは思わず笑ってしまった。
「素直なところは君の美点だ。強く否定すれば私を止めることもできたかもしれないのに」
彼は劔撃と同化した。
第三の眼が開き、手甲が現れる。
「ルーク。すまないが」
「それしか……ないのかよ」
「ああ。このまま戦えず見ているくらいならば、私は命のひと欠片すら使い尽くそう。だから……」
スルザーラが手を伸ばした。ルークの残った左腕は、もはや役に立たない。だからそれを切り落とし、渡せばスルザーラも戦えるようになる。
進化を果たした玉蟲の業魔と戦うために、スルザーラの戦線離脱は惜しい。
彼の覚悟に甘えることが最も効果的なのは分かっている。
「……だめだ。そんなことできない。俺が何とかする。だから生きて帰ろう!」
「聞き分けろルーク!」
「それはこっちの台詞だ! ネオンの気持ちだって考えろ! 俺たちは戦友だけど、彼女にとってはそれ以上なんだぞ!」
「くっ! 狡い言い方を……だが」
「言い訳するな! 死ぬための言い訳なんて聞きたくない!」
ルークはまだ覚束ないまま立ち上がり、嵐唱を強く地面に突き立てた。そしてスルザーラの元に近づいて胸ぐらを掴む。
「どんなに醜くても、俺は必ず生きて、勝って帰る。もう仲間が死ぬのは沢山だ。ロニ将軍も、ルゥナさんも……皆死んでしまった。これ以上は失わない」
「そんな理想は現実を見て言え! 奴を見ろ! ミリアムを! あれは世界を滅ぼすぞ」
「俺がさせない。いや、皆で止めるんだ。俺たちでミリアムを倒す。そうだろ?」
「その通りですスルザーラ。あなたが犠牲になる必要はありません」
「ルーク、聖守様も……ですが私の足がこれでは――ッ!」
スルザーラの言葉は途中で掻き消された。突如として地面が激しく揺れ、空気が震え、そして身の毛もよだつほどの恐ろしい魔力が吹き荒れたからだ。
その全ての中心には、玉蟲の業魔がある。
神奥域の大穴へと根を伸ばし、咲き誇っている。その根は脈打ちながら何かを吸い出しているようで、花びらも少しずつ色づき始める。
赤、黄、緑、青、紫、白、黒とそれぞれの花びらに一色ずつ。蟲の種と対応する色であった。




