602話 ミリアム②
ミリアムは何度訴えても聞き入れられないことに絶望した。そして何よりも失望したのは、傭兵たちだ。彼らは実家のパン屋をよく利用し、父のこともよく知っていたはずだ。だが今はあっさりと掌を返し、聖守の言いなりになって父を痛めつけている。
聖教会が教える思いやりとは何だったのか。信仰とはこういうことなのか。
傭兵たちが語る仲間思いとは何だったのか。人と人との信頼とはこうも脆いのか。
「あ、ああ」
やがて彼女の父親は動かなくなる。
傭兵たちが慌てて近づき生きているかどうかを確かめるも、既に事切れていた。
『チッ。殺すなと言ったのに』
聖守の言葉が《伝心》で聞こえてくる。
彼にとっても想定外だったのだろう。焦っていたのか、心の声が丸聞こえだ。ただそれはミリアムにとって非情の宣告でもあった。
(私が……お父さんがいったい何をしたというの?)
この国ならば自由に生きられると信じて、この危険な都市に引っ越してきた。熱心に聖教会にも通い、税を納め、いつか洗礼を受けてシュリットの民として受け入れられるよう努力もしてきた。
蟲の魔物が現れたことには関与していないし、この魔物たちがどうして自分を瓦礫の下から助けてくれたのかも分からない。
(ああ、なんて気味が悪い人たちなの)
視界が歪んでいく。
あれは、あれこそが畜生だ。己の正義に陶酔し、平気で他者を傷つける。そんなものが人間であるはずがない。まるでサンドラの吸血種だった。
いや、それすらも下回る。
(蟲……まるで蟲だわ。汚くて、気味の悪い蟲)
もはやあれらを人間だと思うことができなくなっていた。光情報が人間という姿を捉えても、頭があれを蟲だと理解する。
その代わり、厄災の蟲たちが突然愛おしく思えてきた。
とんでもないことだと思い直せるほど、ミリアムは冷静ではなかった。沸騰した頭が下したのは、あの蟲を駆除してほしいという願い。
「蟲は……潰さないと。星盤祖は私を救わない。私自身が、潰さないと」
七種の蟲たちは全身から軋むような音を発する。それらは一つ一つが意味ある音節となり、旋律へと昇華してエルムレア中に響いた。
――主は星となって去り、私のもとにはいない
――野は焼け果て、地の実りは苦みを生み出した
――正しい者は虐げられ、清い者は踏みつけられる
――主は去った
――星は遠く
――私は呪い、私は叫ぶ
――滅びあれ、破壊の大門よ開け
ミリアムは憎悪と絶望を糧に詞を紡ぎ出す。それは星の呪い歌。エルムレアを滅ぼし、世界を消し去る呪いの旋律。
厄災の蟲たちはミリアムの絶望を啜り、その猛威を振るった。
蟲魔域前線都市だったエルムレアが完全な滅びへと至るのに、それほど時間はかからなかった。聖守も九聖も、傭兵も市民も、全てを焼き尽くし、天の怒りを降らせ、切り刻み、死で侵し、精神を狂わせ、踏み潰し、逃走すらも許さない。
それが十五年前の惨劇。
エルムレア事件であった。
◆◆◆
エルムレアが廃墟となり、およそ一日が経過した。
空は随分と暗い。暗雲によって太陽が閉ざされたからだ。そんな中、ミリアムは一歩も動くことなくその場に座り込んでいた。
「生き残りか。蟲に囲まれているとは奇妙な女だ」
「……だれ?」
ミリアムは久しく見上げる。
するとそこには人がいた。周りを見渡せば蟲の死骸が散乱している中、ミリアムにはその人物が人に見えた。
「この都市が滅びたと聞いて来てみればこの有様だ。『黒猫』の奴に神器の回収も頼まれるし……まぁそれはいい。何があったか話してみろ」
「……知らない」
「そんなことはないと思うが」
「知らないわ。知らないって言っても、誰も信じてくれなかった。あなたもそうなの?」
少女の目は酷く澱んでいた。
目は腫れて涙の痕もある。もはや枯れてしまったのだろうか。代わりに空が泣き始めた。それは次第に強くなり、やがて雷までも閃きを放つ。
少女も、蟲も、男も、誰も微動だにしなかった。
「まぁいい。真実など少し調べればわかることだ。知りたければついてこい」
「……どういうこと」
「項垂れていても望みは手に入らない。それをするためには力が必要だ。金、権力、暴力……その形は様々だが、お前はその一つを持っているように思える」
「そんなもの、ない」
「魔物を魅了し操る魔装。今は異能と言った方が通じやすいか?」
少女の中に小さな炎が灯った。
ただ消えゆくだけだと思っていたそれが、強く再燃し始めたのだ。
「魔物を操る? 私が?」
「ああ。だから災禍級の魔物が七体もお前に従っているし、俺すらもお前のことを慈しむ気持ちが芽生えている」
「じゃあ、あなたは」
「シュウ・アークライト。あるいは冥王アークライト。『王』にも多少なりと通じるとは驚きだな。たまにこういった突然変異が現れるから魔装は厄介だ」
それはミリアムにとって運命の出会いだった。そして新たな神との遭遇であった。
本来ならばいずれ洗礼を受け、聖石となるはずだった魔装。それは魔神教団の悪意と、エルムレアの過ちによって捻じ曲げられた。
◆◆◆
シュウに連れられたミリアムは、サンドラ帝国へと移動することになった。
そして彼女に魅了された災禍級の蟲たちは、聖杯の中へと収納されることになった。
「あの、聖杯って七代目聖守の持ち物……ですよね?」
「魔神討伐に失敗した折、魔族の手に落ちた。その後で魔神教団へと下賜されている。俺の知り合いが魔神教団の中に人を忍ばせて、聖杯のことは追跡していた。俺はそれを回収するためにエルムレアに行ったわけだが……思いもよらない拾い物をしてしまったな」
「私?」
「ああ。お前だ」
ミリアムにとって聖杯とは高価過ぎてどう扱ってよいか分からないものだ。パン職人の娘でしかなかったのだから、いきなり国宝級の物品を渡され、所有者になったとなれば挙動不審になってしまうのも無理ない。
「あの、ここはどこですか?」
「サンドラ帝国のリベラストラだ。迷宮の中にある。これから俺の知り合いに会わせる。そいつがエルムレアで何が起こったのか、よく知っているはずだ」
「ッ! 会います!」
「やる気があるようで良かったよ」
元は帝国出身なので、こちら側の言葉は分かる。
だがリベラストラの街並みでそれを口にしているのは気味の悪い蟲であった。蟲が親子で手を繋いだり、商売をしたり、武装していたり、遊んでいたり、本当に気味が悪くて仕方ない。
だから彼女は下を向いて、できる限りそれらを見ないようにしていた。
「どうした?」
「その、気色悪いのがいっぱいで。なんでこんなに蟲ばかりの街なんですか?」
「蟲……?」
シュウは少し考えこんだ後、ミリアムの手を引いて路地の裏に連れ込んだ。人気もなく、人の目もない。もしかして襲われてしまうのではないだろうか。そんなことを考えた瞬間、景色が大きく変化した。薄暗い路地裏から一変して、明るい部屋になったのだ。
見たこともない調度品の数々に囲まれ、思わず言葉を失ってしまう。
そして気が付いた。
正面のデスクで何か書き物をしている男がいたことに。
「君かい? 転移でいきなりとはね」
「俺を遣い走りにしたんだ。そのくらいは覚悟してくれ。こっちだって忙しい」
「仕方ないだろう? 災禍級の魔物が暴れているところに送れる人材なんて、僕は持っていないよ。それでその子は?」
「エルムレアの生き残りだ。魔物を操る魔装持ち、それに聖杯にも適合している。『鷹目』にどうだ? 席はずっと空いているはずだ」
「『鷹目』に? あの席は君も思い入れがあるんじゃないかな。いいのかい?」
「相応しい奴がいれば、そこに座るべきだろう。いつまでもお前が負担するわけにはいかない。重要な役職だからな」
目の前の男はミリアムへと視線を向けた。決して鋭いわけではないが、優しさもない。無機質なものを感じる。
「あの……」
「うーん。あまり適正を感じないけれどね」
「こいつは充分狂ってる。黒猫に入れるなら『鷹目』が最も相応しい。それを判断するために、教えてやってくれ。エルムレアで何が起こったのかをな」
「……いいだろう。君がそこまで言うなら試そうじゃないか」
男はデスクに積み上げられた書類の山から、数枚の紙を引き抜く。そしてミリアムへと見せた。それらには幾つかの文章が並べられていて、そのいずれにも同じ絵が挿入されている。
印象は四ツ目。
ミリアムには全く記憶にないものだ。
「僕は『黒猫』という者だ。さて、君には魔神教団という人物たちについて教えよう。エルムレアを滅ぼし、君を不幸に追いやった元凶をね。それを聞いて何を決めるか、求めるかは君次第だ」
そう名乗った男は一から語り始める。
魔神教団という組織、彼らの目的、エルムレアで彼らがしたこと、そして聖杯という神器。真実が雪崩のように押し寄せ、ミリアムという少女が作り上げてきた全ての価値観を破壊した。
◆◆◆
その夜、ミリアムはサンドラ帝都で最も格式高い宿の最上階にいた。少なくとも人間が宿泊する施設としては最上級であり、これ以上のものとなると吸血種用のものとなる。最上階からは夜の帝都を見渡すことができた。
「蟲……」
行き交う人々を眺めてミリアムは呟く。
「蟲……蟲……全部、蟲……」
活気溢れる大都会にもかかわらず、気持ち悪くて仕方がない。見るに堪えない気味の悪い蟲がひしめき合っているのだから。
こっちに来て人間だと認識したのは二人だけ。
シュウと、『黒猫』と名乗った男だけだった。
「いや、いやなの……むしはつぶさないと」
手元には聖杯。
これを使えば今すぐにでも友人を呼び出し、蟲を踏み潰すことができる。簡単なことだ。だがそんな彼女の意識を引き戻す声があった。
「止めておけ」
「シュウ、さん?」
「怖いか」
「……うん、はい」
「もはやお前は普通ではいられない。人を人と思えず、この世界で生きていくのは辛いだろう。『黒猫』の話は聞いたはずだ。全ての元凶だった魔神教団、それともお前を裏切った奴ら。どちらが恨めしい?」
そう問いかけられて、ミリアムは愕然とした。
真っ先に思い浮かんだ光景が、父を磔にして突き刺す蟲の姿だったのだから。
「私、わた……し……」
「エルムレア事件の蟲と、裏切りに対する恨み、そして魔装の性質……奇妙な噛み合いだ。『鷹目』という立場は役に立つだろう」
「こんなの望んでいない」
「望む望まざるは関係ない。それを体感したはずだ。立場は沢山あるほどいい」
「どういうこと?」
蟲だらけで気が狂いそうなミリアムは、弱々しく尋ねる。
そのときシュウは何も答えてくれなかったが、次の日の朝に意味を理解することになった。
◆◆◆
ミリアムは緊張のあまり心臓が止まりそうだった。
鏡のように磨かれた床、絵画のような彫刻が施された壁、そして天井から釣り下がるタペストリーの数々。また武装して並ぶ兵士たちは厳めしく、こちらを品定めしている。
「ほう。宮廷魔術師に推薦か」
「そうだ。俺と一緒に捻じ込んでくれ。簡単なことだろう?」
「我を相手にその口調……まぁいい。公的に貴様を武器とできるのならば利もあるか。だが裏切れば星環で塵にしてくれる」
こちらを睨みつける帝国の支配者、炎帝ヘルダルフの威圧には竦み上がりそうだった。ミリアムは訳も分からず、会話も頭に入ってこない。
何も分からないうちに話はまとまり、ミリアムは宮廷魔術師に任ぜられる。
そのことを理解したのは簡易の叙任式が終わった後であった。
「わ、私は魔術なんて使えないわ! パンの作り方が少しわかる程度よ! あと、あと、歌が少しだけ!」
「お前には聖杯がある。それに望めば魔術は起こせる」
「でも……」
「お前から見て炎帝はどう見えた。人間か? 蟲か?」
彼女はハッとした様子だった。
混乱していて気付くのが遅れたのだ。
「人間に見えた。兵士たちも」
「彼らは吸血種だ。半分は人で、半分は魔物。簡単に言えばそうなる。思った通り、少なくとも魔が混じった存在は人間か、親しい存在としてみなせるらしいな」
「そうなの……? あ、それならあなたは」
「俺も魔に属する存在だ。人間の見た目をしているがな」
ミリアムは少しずつ自分に何が起こったのか、理解を深めていく。聖杯の力にも馴染んでいく。冥王手ずから魔術を教わり、力をつけていく。
七年後となる暗黒暦一八〇一年には筆頭に最も近いと言われるまで出世を果たしていた。
◆◆◆
ミリアムが宮廷魔術師となって七年後ともなれば、彼女の影響力は相当なものになっていた。吸血種以外が彼女を目にすれば伏して視線を下げ、同じ宮廷魔術師たちは妬みに視線を向ける。筆頭と呼ばれる宮廷魔術師の翁は己の地位が奪われることを恐れる日々だ。
「あら、シュウ様ではありませんこと?」
「……なんだその話し方」
「威厳がないと翁から苦言されましたのよ。ちょっと練習していますの」
「そうか。まぁ好きにすればいい。それよりも黒猫の本拠が落ちた。『幻書』の奴が裏切ったらしい」
思いのほか、ミリアムは驚きを感じなかった。
彼女も『鷹目』だというのに、随分と他人事である。
「『幻書』如きの蟲に興味はありませんの。それにどうせ『黒猫』は別の拠点を使って活動するのでしょう? ところで探索ギルドは誰が運営しますの? まさか『幻書』じゃありませんわよね」
「例の組織だ」
「魔神教団……」
「ああ。やつらは元より水面下で東側にも干渉していた。西側でも聖守が死んでもう七年だ。安心を預けられる存在が消えて、代わりに規律という方法で締めあげる方針らしい。法の違反者は極めて厳しい罰で見せしめにされる。魔神教団の活動も難しくなったということだろうな」
これまではサンドラ帝国で地位を上げることに執心し、過去のことに思いを馳せるほど暇ではなかった。だが人間が蟲に見えて仕方ないという病気は治っていない。
「……興味、ありますわね」
「魔神教団にか?」
「彼の目的って確か魔族よね? 魔に属するなら、人に見えるかもしれないわ!」
吸血種が支配するサンドラ帝国は、魔族とも親和性が高いもしれない。それは宮中に食い込む立場があるからこその所感だ。そしてミリアムには神器・聖杯がある。その力は単なる魔術変換機に留まらない。七年も扱えば、少しずつ分かってくる。
彼女の直感が言っていた。
「これは絶好の機会ね。なんとか暇を作ってリベラストラに行きましょう。それで魔神教団に接触するの。私の力を示せば、あちらでもそれなりの立場を得られるはずよ」
「……そうだな。それもいいか」
シュウもまた、少しだけ考えて同意する。
ただ一方で彼女の口元を指差し、こうも言った。
「口調、崩れているぞ」
『鷹目』のミリアム。
宮廷魔術師のミリアム。
そして三導師のミリアム。
彼女は三つの顔を手に入れることになった。これらの活動は彼女に真理を与え、悟りを開かせる。
「救済ですわ。蟲を消し去り、人の世を作りますの。愚かな劣等種を滅ぼし尽くすまで、私は戦い続けますわ!」
パン職人の娘で終わるはずだった少女は、世界を終わらせる狂人となった。




