583話 悲しい夢②
カーミラの切札、《鮮血の月》。
これは赤い月が昇る世界へと強制的に引き込む結界術の一つだ。しかしながら時空の魔術を習得していない彼女がどうしてこれほどの世界を構築できるだろうか。
答えは簡単だ。
既に存在している世界を利用しているだけなのである。
「ここは冥界の一つ、煉獄。私は加護を利用し、この世界の一部を借りています。煉獄とは死後に魂が行きつく場所です。本来ならば煉獄に行きつく魂は、冥府に連れ去られて浄化を受けます」
元老たちは怯えた目で彼女を見ていた。
間違いなく死んでいた。九尾魔仙の攻撃はカーミラの血肉を完全に破壊した。そのはずなのに生きて目の前にいる。魔族の不死性も大概だが、カーミラのそれはもはや得体のしれないナニカだ。
だがそんなことは知らぬとばかりに彼女は語り続ける。
「ここは煉獄の一部。私は死んでもここに留まります。つまりこの世界にいる限り、死んでも無尽蔵に復活できるということです。自分自身を蘇生させることで」
理解のできない術法だ。
死の世界だから死は無意味。そういうことだろうか。だが元老は実際に二人も殺された。そして今、九尾魔仙すらも。その一方でカーミラだけは完全な不死。
あまりも無法である。
「私は不死者。ここは私だけが不死の世界」
瘴血の霧が濃く、深くなる。
元老は霧を払おうと奮戦するが、その魔力に反応して霧はまとわりつく。血の毒が蝕み、傷から汚染し、内側から血晶に変えていく。
ゆっくり、じっくり、末端から赤く染まっていく。
「馬鹿な……あり得ない。私は! 私は救われて――」
それがグリムの最期となる。
魔族化のため彼に埋め込まれた大聖石ごと、血晶塔の一つに加わった。
◆◆◆
レビュノス領は開拓地だ。そしてレビュノス家はイルデラント地方を開拓するよう任じられた一族である。物流は未発達で、大きな都市もたった一つのみ。生活には少し不便だが、長閑で暮らしやすい。ルークはこの土地が心から好きだった。
「ルーク、あなたが領主になってからもうすぐ一年です。領民も記念祭をしようとしているみたいですよ。よほど好かれているのですね」
「あ、あぁ」
そうだっただろうか。
いや、そんな気もする。
釈然としないものを抱えつつも、この場では納得する。歯切れの悪いルークの様子をネオンも心配した。
「どうしたのですか?」
「いや、悪い夢を見ていた気がして」
「そうだったのですね。でも夢は夢。現実はここです。ルークは幸せですか?」
「勿論だ」
間髪入れずに頷いた。
ネオンという妻を娶り、もうすぐ子も生まれる。領地の経営も順調だ。新しい開拓村の発展が目覚ましく、開拓民を増強する話も出ている。そうなれば領地の力はより大きくなることだろう。新しい鉱脈が見つかったという話も出ていた。他領との交易も見込める。
そう、記憶している。
(なぜだろう。違和感がある。この幸せが一瞬で壊れてしまうような、何かを見逃している気がする)
無意識のうちに腰へと手を伸ばし、剣を握ろうとする。だが、そこには何もなかった。
当たり前だ。
ルークは領主を継いだ時から剣を止めたのだ。たまの運動で素振りする程度にして、私兵に混じって練習することはなくなった。かつて剣を教えてくれていたエリシュも今や隊長。あの頃とは違っている。
「少し風が出てきた。屋敷に戻ろう。お腹の子供にとっても大事な時期だ」
「そうでした! さっき懐かしいお客様がいらっしゃって。それであなたを呼びに来ました」
「ああ、彼が来る日だったか。なら待たせるわけにはいかないな」
ネオンの腰を支えつつ屋敷に戻る。
仕事の息抜きで風に当たっている間に客が訪れていたらしい。事前の連絡のあった相手だ。久しぶりの顔合わせに期待しつつ、応接室の扉を開ける。予想通りの人物が窓際に立っていた。
「懐かしいなスルザーラ。よく来てくれた」
「親友の呼びかけだ。来ないわけにもいかない。ネオン様のこともある」
「おいおい。どっちが本命だよ」
「無論、ネオン様だ」
「相変わらずだな」
笑い合い、固く握手する。
ふと窓の傍を見れば、槍と弓矢が立てかけられていた。彼が持ってきた武器だろう。最近は街道も安全になってきたが、まだ魔物や盗賊の被害は少なくない。
だが少し。ほんの少し違和感がある。
(スルザーラの持っていた武器はこれだったっけ……? もっと……違うような……)
しかしこれらもすぐに薄れてしまう。気のせいだったのだろう。疲れていると過敏になってしまうものだ。そう言い聞かせて納得した。
挨拶を交わしている間に使用人がお茶を淹れてくれたらしく、腰を下ろして懐かしい話に花を咲かせる。スルザーラが語ってくれたのはシュリットからの旅路だ。その道中で会った人々、遭遇した事件など、物語のような冒険だったことが分かる。
「まるで英雄だな」
「ネオン様に仕える第一の部下だ。これくらいは当然」
「もう、私は聖守じゃないんですよ。それにあなただって今はシュリットの王でしょう? こんなところまで一人旅なんてよく許されましたね」
「私にとってはネオン様だけが聖守です。今でも聖守様と呼びたいくらいですから」
「今の私はただの歌い手ですよ」
「謙遜した評価だな。アスラン王国で一番の歌姫に選ばれただろ」
「でも、今はあなたの妻です」
「誇らしいよ」
娯楽の少ない辺境開拓地において、ネオンの歌は最上級の楽しみだ。祭りの度に彼女は新しい歌を披露し、領民にも親しまれている。わざわざ他領から訪れる者までいるほどだ。
「スルザーラ、実は彼女が聖歌隊を立ち上げたんだ。領民の中で見込みのある人たちを集めてね。今や教会の重要な活動の一つになっているよ」
「そうだったのか! それは聞いてみたいな。ネオン様がご指導されているのですか?」
「残念ながら出資だけですよ。指導の才はなかったようで、外から知識のある人を呼んでいます」
「ネオンは感覚派だったらしくてな……こう、指導すると語彙が消滅するんだ」
「失礼ですね」
軽く小突かれ、ルークは口を噤んだ。
余計な一言は酷い災いを呼ぶ。これ以上弄るのはよくない。
二人の関係性が見えたようで、スルザーラは思わず笑ってしまった。
「尻に敷かれているな」
「惚れた弱みだ。それに彼女は強すぎる」
「まるで私が鬼のように言うのですね。そうですか。ならば私にも考えが――」
「申し訳ございませんでした」
長閑で、優しい日々だ。
友にも恵まれ、家族仲も良好。領地の運営も順調だ。
たくさんの小さな幸せがあった。
◆◆◆
「人間を操るのは簡単なことだ」
「感情ノ落差ヲ利用スル。ソレダケノコト」
「幸福からの絶望。絶望からの幸福。使い古してきた手だが、いつの時代も使える」
睡蓮魔仙は抱えていた三人を下ろす。
ここは実験場の中でも最も奥にある部屋だ。誤差程度とはいえ逃げにくいだろうと思ってここまで連れてきたが、彼は三人を縛り上げたりはしなかった。
催眠に絶対的な自信を持っているからである。
「次ノ目覚メハ戦争後カ」
「未だ人間の女が我らの同胞となった後だろう。ミリ……ムだったか?」
「サァ? エルム……ダッタヨウナ気モスル」
「それは未だ人間の女の出身地だろう」
「マァドウデモヨイコトダ。同胞トナッタ時、名ヲ覚エヨウ」
神器使いが二人、そして聖守。この三人は魔族の素体として最上級だろう。魔族の世界はより実現に近づく。
「夢の中で絶望せよ」
「魔族コソガ救イデアルト悟ルマデ」
猫のような二つの顔が薄ら笑いを浮かべていた。
◆◆◆
幸せが崩れるとき、というのは突然訪れる。誰も予告してくれないし、予兆を見つけることもできない。善い行いをして普通に暮らしていたとしても、理不尽に訪れる終わりだ。
ルークはそれを炎の中で実感していた。
「なぜ……」
理由は分かっている。
サンドラ帝国が宣戦布告もなく攻めてきたのだ。帝国の旗を掲げた軍隊は、降伏勧告すらなく都市内へと侵入し、虐殺を始めた。警備隊も多少抵抗したがすぐに殺され、その後は女も子供も、そして家畜までも皆殺しにされた。
火の手は屋敷にまで及び始めている。
今、切り殺した帝国兵を見下ろしながらルークは絶望を漏らした。
「ルーク!」
「スルザーラか」
「しっかりしろルーク。ネオン様はどこだ?」
「彼女は信頼する私兵に任せている。スルザーラも追ってくれ。裏口から逃げているはずだ。今なら追い付ける」
「だが」
「俺はまだすることがある。領主として」
「分かった。必ず追いつけ。ネオン様は必ずお守りする」
「頼む」
弓矢を背負い、槍を手にしてスルザーラも去っていく。そしてルークもまたやるべきことのため炎に包まれた屋敷の中を移動し始めた。
するべきこととは、嵐唱像を持っていくことだ。
あれは先祖が守ってきたレビュノス家の秘宝。失うわけにはいかない。もしもサンドラ帝国の手に渡ろうものなら、その価値も理解されず、金属として再利用される可能性すらある。
「良かった。無事だった」
嵐神像は布にくるみ、しっかりと抱える。もう間もなく火の手は屋敷全体にも及ぶだろう。そうなれば脱出も困難だ。ルークは急ぎ屋敷を出た。その道中で帝国兵と遭遇すれば、迷わず切り殺す。剣の実戦など久しいが、身体が覚えていた。
いや、思った以上に動けた。
これにはルーク自身も驚きである。
「サンドラ帝国……よくも」
道中、嫌なものも見てしまう。それは殺された屋敷の者たちだ。彼らとは比較的距離も近かった。よく知った顔が恐怖と苦痛に歪み、骸となり果てている。それが悔しかった。
サンドラはどこまで自分たちを苦しめるのか。
かつてレビュノス家の先祖を虐殺し、追いやり、そして再び侵略している。恨みは募るばかりだ。黒い感情が胸の内で渦巻き、それが殺意となって襲い来る帝国兵へとぶつけられる。
「死ね! クズ共がッ! 死んで詫びろ!」
胸を貫いて殺し、その後も不必要に死体を傷つける。それでも怒りは収まらない。
殺して、殺して、また殺して。目につく限りの帝国兵を殺し尽くす。心の中はこんなに淀んでいるのに、身体は羽のように軽かった。
見つけた帝国兵は全て殺し、燃え盛り始めた屋敷からの脱出に成功する。裏口にも三人ほど兵士がいて、現れたルークに驚いているようだった。勿論、その兵士たちもすぐに殺した。
(ネオンはどこまでいった? スルザーラも……)
身重のネオンは戦えないし走れない。
信頼する私兵たちに任せて逃がしているが、果たしてどこまで逃げることができただろうか。都市の郊外にある隠し物資倉庫へ逃げるよう言づけた。この惨状だが、上手く逃げおおせていると信じたい。すぐに追いかけた。
厩舎に寄ってみると、脚獣が一頭だけ残っている。
運がいい。
火事のせいで落ち着きを失っていたので、軽く首を撫でて落ち着ける。すぐに装具を付けて騎乗できるようにすると、跨って軽く鞭打った。
「どうしてだか嫌な予感がする。無事でいてくれ」
炎の中を駆けていく。
灰を被りながら、道中の帝国兵を切り捨て血を浴びながら、ひたすら走らせる。サンドラ帝国の虐殺は目を覆いたくなるほど酷い。だがその一つ一つを助けることができない。己の無力に腹が立つ。
家屋が閑散とし始めて、南の郊外に入る。
有事に備えて設置した倉庫はまだこの先だ。木々に隠された山に掘った洞窟である。
「ッ! これは……」
思わず脚獣を止めた。
あたりが赤色で染められていたのだ。鉄臭さが鼻を突く。そしてレビュノス領私兵と帝国兵の遺体もあった。ここで戦いがあったのは間違いない。そしてここからは備蓄倉庫も近い。
嫌な予感がより強くなっていく。
脚獣を乗り捨て、自身の足で向かった。血溜まりは点々と続いており、所々に戦いの痕跡もある。草木を分け、地を這う根を踏みしめ、邪魔な蔦を切り捨て、そして目撃する。
「ネオンッ!」
本当に寸前のことだった。
槍を振り上げた帝国兵が、まさにネオンを刺し貫こうとしている。少し離れたところではスルザーラが血を流して倒れており、別の帝国兵に組み伏せられていた。
どう考えても間に合わない。
訪れるであろう最悪の光景に向かって、ゆっくりと景色が進んでいく。止まってくれと願うほどに時は緩やかになり、やがて止まっているかと間違うほどになった。
(助けないと! 今! 力がいる! ネオンを助けるだけの力がッ!)
これ以上になく頭は動いているのに、身体は全く追いつかない。全身に岩でも括りつけられているかのような重さだ。
(進め。進めよ俺の身体ッ!)
『欲しいか。力が欲しいか』
(ああ。要る。今すぐに)
『受け入れよ。魔と一つになるのだ。魔族となるのだ。それが唯一の救いであるゆえに』
頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
魔族。
引き延ばされた時間の中で、『声』はそう言った。そして本能的に拒否してしまう。この声に従ってはならないと、魂が叫ぶ。
『残念だ』
その瞬間、時が本来の流れを取り戻した。
視界全体が赤く染まった。
◆◆◆
レビュノス領は開拓地だ。そしてレビュノス家はイルデラント地方を開拓するよう任じられた一族である。物流は未発達で、大きな都市もたった一つのみ。生活には少し不便だが、長閑で暮らしやすい。ルークはこの土地が心から好きだった。
「ルーク、あなたが領主になってからもうすぐ一年です。領民も記念祭をしようとしているみたいですよ。よほど好かれているのですね」
「あ、あぁ」
そうだっただろうか。
いや、そんな気もする。
釈然としないものを抱えつつも、この場では納得する。歯切れの悪いルークの様子をネオンも心配した。
「どうしたのですか?」
「いや、悪い夢を見ていた気がして」
「そうだったのですね。でも夢は夢。現実はここです。ルークは幸せですか?」
「勿論だ」
間髪入れずに頷いた。
何かの違和感を覚えつつも、微睡むような幸福を噛み締めていた。




