566話 蟲魔域の脅威
蟲魔域はほぼ大陸の中央に位置する迷宮域である。巨大な地下迷宮への出入り口であると同時に、魔物の巣窟でもある。鬱蒼とした樹界が広がっているため、奥へと進むだけで難しい。しかも蟲魔域の樹界は少しずつ広がっており、それに伴って蟲系魔物も増加傾向にある。
いずれ蟲の王と呼ばれる強大な魔物が誕生するのではないかと囁かれ、蟲魔域における魔物の殲滅も聖石寮にとって重要な役目であった。
だがその奥地にある迷宮まで入った聖守はいない。
危険な魔物が生息しているというのも理由の一つだが、何より樹界を進むことが困難を極めたためである。視界は悪く、足元はおぼつかず、目印もないので迷いやすい。
「これは……なかなか怖いですね」
その樹海は今、赤い霧に覆われていた。
吸血種の濃密な霧は死の毒である。あらゆる細胞を攻撃し、破壊し、砕いてしまう。それは植物も魔物も関係ない。ただ吸血種の意思にそぐわぬ者から死んでいく。カーミラの霧に包まれた魔物は例外なく溶かされ、死んでいった。
だが霧の内側にいる人間は傷一つない。
それでも恐怖を感じる者は多く、ネオンとてその一人であった。
「申し訳ありません。ですがこれが最も簡単な方法ですので」
「いえ……」
エルムレアの件でカーミラの正体が全員に知られてしまったので、もう能力を隠す必要もない。力を使い続ければいずれ察する者も現れたと思われるので、寧ろ早めに知られてよかったのかもしれない。
霧で魔物を滅ぼし、あるいは追い払い、生い茂る草木は枯れて消えていく。散歩でもするように蟲魔域を行軍できるため、何の負担もなく奥地へと進むことができていた。
「なぁカーミラ。迷宮の入り口ってやつは見つからないのか?」
「まだ見当たりません。ですが霧の範囲に入れば分かるはずです。霧は私の一部であり、触覚ですから」
「便利だな」
「これでも始祖ですので」
このお陰もあって全員が体力を消耗することなく進むことができている。
しかし全てがカーミラ任せということもあり、不安に思う者は少なくない。ただ本当にカーミラを信用できない者はエルムレアで帰還を選んでいる。だからここに残っている者は最低限の信頼を置いている人物ばかりだ。それでも吸血種に命を預けているという感覚はストレスらしく、決して良い空気ではなかった。
「ッ! 気を付けてください。霧を突破して迫る魔物がいます!」
不意にカーミラが警告し、周囲に無数の血晶槍を生み出した。
ルークをはじめ、全員が一斉に武器を抜いて備える。霧の奥から激しい羽音を鳴らし、黒い巨体が姿を現した。全体が刺々しい外骨格に覆われており、着地すると同時に翅もその内側へと収納される。頭部と思しき場所には巨大な角が三本も生えていた。
角は鋭いうえに無数の棘で覆われており、あれを振り回されるだけで脅威的だ。
「黒淵鎧蟲? いえ、より上位の魔物ですね」
誰も見たことのない魔物であった。しかし色から察するに、黒の進化系統を辿った蟲系魔物だろう。この系統は極めて頑丈な外骨格が特徴で、その能力により霧を突破してきたのだ。またネオンが口に出した黒淵鎧蟲とは災禍級の魔物。エルムレアを滅ぼした七つの厄災の内の一つもこれだ。それよりも上位となれば、保有する魔力量もかなりのものである。
先手を取ったのはカーミラであった。
血晶槍を殺到させると同時に蛮骨を叩きつけ、外骨格の一部を砕く。守りを破壊された黒の蟲は怒りを露にしてカーミラに突進した。その体躯に見合わない加速が暴風を生む。
「カーミラ!」
「問題ありません! 離れてください!」
回避しようとしない彼女にルークが警告を飛ばしたが、やはり黒の蟲を受け止めようとする。しかし受け止めるのはカーミラではない。
「グァッ!」
小さくなっていたウェルスが本来の姿へと戻り、黒の蟲と正面からぶつかったのだ。かなりの衝撃だったのだろう。ウェルスも黒の蟲も同時によろめき、前後不覚となる。ウェルスの鱗がいくつも剥がれるほどであった。
そこにカーミラが飛び出し、黒の蟲の頭部へと触れる。
同時に彼女の腕へと黒い術式が這った。
「《万象貫通》」
黒の蟲は激しく痙攣し、完全に力尽きる。
そしてあっという間に魔力として霧散し始めた。この一撃必殺を目の当たりにした一同は驚愕し、言葉を失って立ち止まる。現れれば都市など容易く壊滅したであろう驚異的な魔物だった。それは巨大さからも、感じ取れる魔力からも察したことだ。
何が起こったのか、誰一人として理解できない。
しかしそれどころではなくなる。ふらりとカーミラが倒れてしまったのだ。
「カーミラ!」
慌ててルークが駆け寄って抱き起し、続いてやってきたネオンが治癒の魔術をかけようとする。だがカーミラは弱々しく首を横に振った。
「大丈夫、です。魔力を、使い過ぎた、だけ、ですから」
「倒れるほどの魔力を使うなど命の危機です!」
「心配、して、くださり、ありがとう、ございます。ですが、すぐ回復します、から」
カーミラは覚醒魔装士でもあるため、放っておいても魔力は回復していく。そのことを知らないネオンの心配は尤もなものだ。
急激に魔力を消耗した場合、生命力が急激に落ちて死に至る可能性もある。そう思い込んでいたのだ。
ただカーミラは今も霧を使い続けているため、魔力の回復はあまり早くない。身体に上手く力が入らず、久しく感じる強い『渇き』が思考を苛んだ。
「本当に大丈夫なのか?」
「は、い……」
「ルーク、そのまま支えてください。治癒をかけます。気休め程度にしかなりませんが。ルークはできるだけ話しかけて意識が途絶えないようにしてください」
「分かった」
ウェルスも小さい姿に戻って心配そうに鳴いている。
魔力が酷く消耗されたとき、身体は自然と休息を求める。それは睡眠であったり、食事であったりだ。そしてカーミラの場合、吸血行為もそれにあたる。魔装が覚醒して以降、久しく感じていなかった激しい吸血衝動だった。
吸血種にとって魔力の喪失は人間よりも重い。
血肉に飢え渇けば理性を失った獣にすら堕ちかねない。
(いけませんね。血、の……血のことばかり……)
崩れてしまいそうな理性を必死に保ち、何とか言葉を紡ぐ。
「私の、水筒を……」
「水筒? 腰に下げているやつか?」
ルークはホルダーに収納されている水筒を取り出し、その蓋を開けた。鉄臭い匂いが鼻に突く。思わず取り落としてしまうと、その中から赤い液体が流れ出て地面に沁み込んだ。
ところが液体は流動し、まるで蛇のように這ってカーミラの足へと絡みつく。彼女の皮膚が裂けたかと思うと、液体はその中へと入り込んでいった。
「これは……血ですか」
「血? そうか、吸血種だから」
血液を取り込んでようやく落ち着いたのだろう。
カーミラの魔力も急速に回復し、立ち上がれるまでになった。
「申し訳ありません。お見苦しいところを」
「それより大丈夫なのか?」
「はい。ですが蟲魔域は想像より遥かに危険ですね。《万象貫通》を使わざるを得ない相手がいるとは」
「それがさっきあの魔物を倒した術か?」
「ええ、そうです。短い射程と消費する魔力量に目を瞑れば、最も効率的な術でした」
そこにルゥナも近づいてくる。今のカーミラの話が耳に入ったのか、非常に興味を抱いているようであった。
「聞いたこともない魔術ですが、もしや炎帝も殺せるのではありませんか? 厄災をも凌駕する魔物を一撃で滅ぼしたのですから」
「殺せるでしょう。《万象貫通》は防御不可能の即死魔術です。一部の例外を除けば、どのような存在も確実に滅ぼすことができます」
「なるほど。炎帝はその例外ではないということですか。その魔術は我々にも習得可能ですか?」
「不可能です。死の加護を与えられることが必要条件となります。そもそも皆様の魔力量では発動もできません」
殺害困難な吸血種を葬れる方法として期待していただけに、ルゥナとしては落胆せざるを得ない。エルムレアの件で彼女は炎帝を殺すための切札を切ってしまったのだから。
またカーミラの説明にはネオンも反応した。
「死の加護……? もしやクローディア自治領で信じられている死の力ですか? 彼らも即死の魔術を操ります」
「申し訳ありませんが確実なことは言えません。私の他にも加護を与えられた方が実在することは知っておりますので、もしかするとその方の御子孫ではないかと……推測に過ぎませんが」
「いえ、こちらこそ変なことを。それにクローディア自治領の戦士たちもカーミラほどの魔術使いではありません。ただの偶然かもしれませんね」
果たしてどうだろうか、とカーミラは思案する。
先ほど使用した冥域魔術、《万象貫通》は特に殺傷能力の高い魔術だ。確実に魂を滅ぼして死をもたらす代償として、消費魔力も桁違いである。カーミラとて一発でも使えば大半の魔力を失う。今回は広域に霧を使っていたので、一歩間違えれば吸血種として暴走していた。
(保存していた血もなくなりましたし、今後は安易に《万象貫通》も使えませんね)
今後、蟲魔域を進むにしてもあのような魔物が何度も現れるようでは困る。あれほど自信たっぷりに対処すると宣言したものの、これほどとは予想外だった。
(最も信頼できる方に頼むしかありません)
先ほど討伐したのはおそらく縄張りの主に相当する魔物だ。
つまりしばらくこの辺りは安全だろう。この際だからと一度休憩するべくネオンも準備を指示している。今の内に話をつけておこうと考えつつ、ルークに目を向けた。
◆◆◆
黒の蟲が薙ぎ払った跡地を軽く整備し、そこを今夜の野営地とした。
夜も更ける頃、カーミラはそっとルークを呼び出す。そこは地面を整備するために土の魔術で均した際、できた土山の陰であった。
「すみません。あまり人に聞かれたくない話でしたので」
「ああ。それはいいけど……」
急なことでルークとしても戸惑っている。
「少なからず、皆さん動揺しておられます。この蟲魔域は私が想像するより遥かに危険でした。再びあの魔術を使う機会があるかもしれません」
「ああ。でもかなり魔力を使うんだろ?」
「その通りです。私たち吸血種にとって魔力は重要です。失えば理性を失い、獣に堕ちることもあります」
「大丈夫なのか!?」
「はい。今回は何とか」
想像より遥かに危険な状態であったことに今気づいた。また同時に、ルークは吸血種について何も知らないということを思い出す。
これからサンドラ帝国と戦い、その中で吸血種とも戦うことになるだろう。敵を知ることは必要なことだ。そして何より、カーミラのことを知りたかった。
「吸血種ってのは……そんなに魔力が大切だったのか」
「私たちは欠陥種族なのです。確かに高い生命力や魔力、そして異能を持つ強い種族に見えます。しかし根本的な欠点があります。弱点ともいえます」
「そう、なのか?」
「血を飲まなければ死ぬということです。私たちは自らの身体を破壊して膨大な魔力を生成しています。ただ生きているだけで自滅に向かっている種族なのです。ですから失った身体を補完するため、血を取り込む必要があります。サンドラ帝国が人間牧場を作り、血税を取るのもそのためです」
驚くべき話だと思った。
ルークは話すべき言葉を失い、しばらく黙り込む。そしてなぜ、カーミラが自分を呼び出す必要があったのか察した。
「俺から吸血……するってことか?」
「はい。私は自己崩壊を防ぐため魔力の回復が遅いのです。それに今は霧も使っていますから、本来の半分もありません。再びあのような魔物が現れたとき、今の魔力量では心許ない。ですのでもしルークさんが許してくださるのであれば――」
「やる」
即答し、ルークは膝立ちになる。
躊躇いはなかったし、恐れもなかった。カーミラのことを強く信頼していたからだ。
「俺はカーミラから沢山もらっている。この程度で返せるとは思えないけど、できることはしたい」
「……ありがとう、ございます」
カーミラはそっと手を伸ばし、ルークの頬に添えた。
◆◆◆
ネオンは少し一人になりたくなることがある。
聖守としての重責を負って以降、何度も激しい戦いを経験してきた。ヴァルナヘルでは自分の過ちで多くの仲間が死に、エルムレアでも選択を誤った。
(エルムレアでの収穫は大きい。ですが失ったものが多すぎます)
スルザーラからはエルムレアの調査まですることはないと諫められていた。結果論だが、彼が正しかったのだ。ネオンは自身の失敗を思い起こし、後悔する。
落ち着くためにも一人で考える時間が必要だった。
「私は……聖守に相応しいのでしょうか」
何度目かも分からない自問をする。
歩きながらも三つ編みの髪を弄るのはもはや癖だ。考え事をしている時、彼女は無意識にこうしてしまう。
戦いが苦手で歌が好き。そのような者が聖守でもよいのだろうかとよく考える。聖石寮の仲間や聖教会の神官たちに相談したところで一つの決まった答えしか返ってこないだろう。そしてそれはネオンの求めるものではない。
最も信頼できるスルザーラですら、ネオンに対して崇拝にも似た畏敬を抱いている。
「対等に、心から案じてくれる人がいてくれれば」
そんな我儘を口に出してしまったとき、思わず浮かんだのはルークの顔であった。
「私、どうして」
なぜルークのことを考えてしまったのか。
何となく恥ずかしくなり、駆け足になって土山へと近づく。野営の整備をするために寄せ集められた土の山は幾つか並べられていて、陰に隠れれば野営地からも見えない。
(こっそり歌うにもいいかもしれませんね)
恥ずかしさを振り払うようにして全く別のことを考えつつ、土山の裏を覗いた。
そこで彼女は思わぬものを目にする。
(カーミラに……ルーク!?)
思わず隠れてしまった。
なぜならば二人は密着するほど近づいていて、ルークもカーミラと視線を合わせるようにして膝立ちになっている。まるで恋人たちの逢瀬のような、見てはいけないものを見たような気になってしまった。
(あの二人、もしかして……え? 本当に?)
一瞬で身を隠してしまったので、よくは見えなかった。
だがなぜだかもう一度覗き込む勇気が湧かない。心臓が高鳴り、胸が苦しくなる。先ほどまでの悩みなど彷徨に吹き飛ぶほど驚かされていた。
(離れ……ないと)
ふらふらと、野営地に向かって歩き出す。
胸の苦しさは一層、強くなっていた。




