532話 嵐唱③
ミリアムは広げた影から黒い液体を絞り出す。それは聖杯の内側へと注がれる。
これは影の内側に捕らえられた魔物を魔力情報として変換した液体だ。闇属性で不定形物質として物質化した魔力であり、同時に迷宮魔力で固定化されたものでもある。
「低能な塵蟲に賢くなる機会を差し上げますわ」
そう言いながら彼女は磔にしているルークの母へと影を伸ばす。それと同時に聖杯の内側からどろどろとした黒い液体も溢れ出し、蛇のようになってルークの母へと絡みついた。
「魔族とは進化。不完全で愚かな人間を素晴らしいものに変えますの」
「いぎ!? あああああああああ!?」
「なっ! 母上! やめろ!」
「人という種族は時間と共に劣化し、死という終わりを迎えます。ですが魔族は違いますの。魔物の魂を贄とし、不完全な人間を完璧な魔族に進化させる……これによって人は絶大な力と不老不死を獲得しますわ。幸運な方ですわね。きっと喜んでくださいますわ」
止めろと叫ぶルークの意思も、儀式の副作用で苦しむルークの母の苦悶も、ミリアムは無視する。自分の行いこそが正しいものだと、絶対の確信を持っているからだ。
「ああ、やはりあなたにも適性がある。緑巨蟷螂は私からの贈り物ですわ」
「止めろ! 止めてくれ! 母上! 母上! 姉上も放してくれ! 母上が!」
「そのように囀らずとも、あとで同じにして差し上げますわ。他の人間共と同じように、魔族に変えて差し上げます」
魔族化は順調に進行し、変質、融合、調和の過程を経て完全となる。
融合した緑巨蟷螂という魔物は鋭い鎌が特徴的である。それを象徴するかのように、彼女の両手が鎌の形状となった。また足も硬質化して昆虫の脚に似た形状へと変化している。顔も一部潰れ、大きな複眼が生じていた。
自身の母が目の前で作り替えられる光景を見せつけられたルークは言葉を失い、同時に深い絶望に突き落とされる。
だが、これは始まりでしかなかった。
「私の儀式は魔神様と違って不完全ですの。だから半分ほどは失敗して壊れてしまいましたわ。でも仕方ありませんわね。進化に適応できない人間に生きる資格などありませんもの」
「失敗……壊れ……? お前まさか」
「アスラン王国を制圧するまで暇でしたもの。時間は有効に活用しなければ勿体ないですわ。この街は実験場として私がいただきましたけど、他の人間共は牧場送りが決まっていますの。吸血種様方の食糧生産工場が不足しているみたいですから、実験体が減って困ってしまいますわね」
「お前……お前ぇぇええッ!」
「そうそう! ここでの実験で発見があったのですわ。魔族化の儀式は本人が強く望むほど成功しやすくなりますの。適性があっても、素体に拒む意思があると理性が壊れてしまうことが多くて……この街を人間牧場に変えて、幼い頃から教育すればきっと魔族化の成功率も上がるのですわ!」
ルークには理解のできない話だった。
いや、理解を拒むほど悍ましい計画だったのだ。心の底から魔族というものに傾倒しているミリアムに、人間性を見出すことはできない。
(あれは……あれは化け物だ。心から異形なんだ! 姉上、母上……)
鎌の魔族として生まれ変わったルークの母は、理性を失った目で唸っている。そしてルークを押さえつける幻惑蝶の魔族は口の端から涎を垂らしており、今にもルークへと食らいつきそうな様子だった。
家族の面影を残しているのに、それはもう人ではない。
目から光が失われ、神器との同化も自然と解ける。
「さぁ、進化を受け入れる準備はできたかしら。安心して私に委ねるのですわ。本当の魔族となれば、家族と一緒にいられますの。ほら、あなたの父君も、護衛たちもいますわよ」
ミリアムが指を鳴らす。
すると隠れ潜んでいた魔族たちが次々と姿を現し始めた。それらは全て蟲系魔物と融合しており、火の粉をまき散らす翅だったり、硬く黒い甲殻であったり、四肢が百足となっていたり、様々だ。しかし顔はある程度の面影を残している。
だからルークはそれらの魔族が、誰を素体としたものなのかすぐに理解できた。
「父上、ゲーリック、アルムス、レア、ヘレン……」
帝国軍の襲撃から街を守るため、戦っていたはずの父と私兵たち。
全員が理性を失い、ルークを見て威嚇している。
そしてルークは、それらの中で一際、元の姿に近しい魔族を見つけた。
「エリ……シュ。エリシュ……なのか」
彼女はルークを逃がすため、ミリアムを相手に時間稼ぎを引き受けた。ミリアムが健在という時点で、エリシュが負けたことは分かっていた。
しかしこれはあまりにも惨い再会であった。
瀕死だったエリシュは、魔族化の際に意識が朦朧としていた。ただルークを守らなければならない。そのためには生き残らなければならないという意志だけが本能のように残っていた。生き永らえなければならないという望みは、魔族化儀式に対して都合よく働く。元より魔装に目覚める程度の魔力も持っていたことも、適性を高める要素となった。
魔族化したエリシュへと目を向けられていることに気が付いたのか、ミリアムは自慢げに語る。
「この女はここでの最高傑作になりましたの。まさかこんな田舎で三体も魔物を取り込める素体に出会えるなんて……まさに奇跡ですわ!」
魔族化したエリシュはほとんど人間だった頃の面影を残している。だが頭部には獣の耳が生えており、さらに背中側で三本の尾が揺れていた。身体のところどころが毛深くなり、手の爪は鋭く、歯も牙のように鋭くなって口の端から見えている。
目はどこか虚ろで、ルークを見ても何の反応もない。
「お前……エリシュまで!」
「この女、私がわざわざ魔族として新生して差し上げたというのに、私に襲い掛かってきましたの。だから追加で魔物を混ぜて差し上げましたわ。確か……適当な獣の魔物だったと思いますの。でもお陰で今は私にとって忠実な下僕の一人ですわ」
「あ、ああああああああああッ!」
ルークは必死に藻掻いて幻惑蝶の魔族を引きはがそうとする。
彼の表情は鬼気迫り、怒りによって歪んでいた。それを見てミリアムは高笑いする。
「アハハハハッ! なんて醜いのでしょう! なんて愚かなのでしょう! ですが気にすることはありませんわ。生まれ変わったあなたは魔族となるのですから。神器と適合したあなたならば、さぞ素晴らしい魔族になれますわよ」
ミリアムの広げた影から、黒い魔力が絞り出される。それは彼女の手にする聖杯へと注がれ、やがて溢れて零れ始めた。零れた魔力は無数の蛇のように蠢いて、押さえ込まれたルークへと近づいていく。
ルークは自分に訪れる末路を理解した。
(不味い。あれは……嵐唱!)
危機を覚えたルークは咄嗟に嵐唱へと同化を願った。当然のように嵐唱もそれに応えて、力を明け渡してくれる。しかし、その力にルーク自身が耐えられなかった。
激しい頭痛と、全身を内側から搔き回されるような不快感が同時に襲う。
恐れと痛みによりルークは激しく呻き、叫んだ。
「あああああああッ! うがあああああああああ!」
「恐れることはありませんのよ。きっと私に感謝することになりますわ。人間から魔族に生まれ変われたこの日を。この私がもたらす救済を!」
もはやルークに同化できるほどの体力は残っていない。当然だが膂力で幻惑蝶の魔族を押しのけることもできない。感情に流され、ただ闇雲に突撃するのは大きな過ちであった。迷宮神器を手に入れたばかりのルーク一人で、アスラン王国を滅亡に追いやる軍隊を相手に戦うには早過ぎた。
黒い魔力が迫る。
ルークを殺すわけではないが、人間としては確実に終わる。
「さぁ! 可能性を見せるのですわ!」
「そういうわけにはいきませんね」
突如、ルークの目の前に赤い結晶が突き刺さる。それにより這い寄る黒い魔力が阻まれ、彼は人間としての死から逃れた。いや、逃がされた。
気が付けばルークは何者かに抱えられ、地上を見下ろしていた。
「無茶をしますね」
「カーミラ!?」
「ここは一度引きますよ。ウェルス」
「え、おい!」
ルークの意思など聞いていない。
危ないところを回収したカーミラは、血の眷属ウェルスに乗って飛び去ろうとする。今のウェルスは騎乗できるほどの大きさとなっているため目立つ。帝国軍も空に向けて矢や魔術を放ったが、それが届かないほどの高さにまで上昇してしまった。
「速いですわね。追いますかシュウ様」
「しなくともいい。割に合わんだろうからな」
「そうですのね。途中で邪魔をしたあの少女……実力者ですわね」
「……ああ、そうか。お前は会ったことがないのか」
意味深なことを言うシュウに対し、ミリアムは首を傾げる。
しかしどうでもいいと思ったのか、それ以上追及することはなかった。サンドラ帝国の宮廷魔術師として従軍する彼女は、それなりの立場にある。攻め落とした都市の事後処理や、現在包囲中の王都を攻め落とすなど、するべきことは多いのだ。ルークを魔族化させられなかったことに惜しいとは感じたが、わざわざ追跡する必要もないだろうと捨ておくことにする。
当然、介入してきたカーミラのことも気にしないことにしたのだった。
◆◆◆
ウェルスに乗って西方へと逃げるカーミラとルークは、そのまましばらく飛び続けていた。空を飛ぶという状況に委縮しているためか、ルークも随分と大人しい。しかし休息のため地上に降り立つと、すぐに彼は詰め寄った。
「どうして逃げた! あそこにはまだ!」
「落ち着いてください。あのままではルークさんも魔族にされていました」
「う……」
それはルーク自身も認識するところだった。
あのままでは人間として死ぬところであった。
「……助かった。俺は勝てなかった」
「気にすることはありません。元はと言えばサンドラ帝国を止めきれなかった私にも責があるのですから」
「止めきれなかった……?」
「それはいずれ。今はこれからのことを考えるべきです。ルークさんは帝国と戦う意志がまだありますか? 全てを失って、それでも戦うのですか?」
「ああ、俺は故郷も家族も失った。だが必ず取り戻す。レビュノスの名に懸けて」
無意識に両手の拳を強く握りしめ、爪が食い込んで血を流す。
この程度の痛みなど無に等しい。打ちのめされた無力感と、悔しさからくる胸の痛みが遥かに勝る。その痛ましい姿を哀れに思ったカーミラは、ルークの手を取って治癒をかけてやった。じわりと温かさが伝わり、それは激しく荒ぶ怒りすらも鎮める。
「ルークさんの意志は理解しました。ですが思いだけで為せる簡単なことではありません。敵はアスラン王国を十日と経たずに攻め落とした強大な国家です。たった一人で戦うことはできません」
「そんなこと、やってみないと……」
「大きな力があれば都市を一つ、個人で取り戻すことも叶うでしょう。ですがその後はどうしますか? 帝国は再び都市を攻め落とすため、休む間もなく攻め立てるかもしれません。食事も睡眠もなく戦い続けることができると思いますか?」
「それは……」
諫める言葉はどれも正しく、ルークは反論することができない。また彼も次期領主として相応の教育を受けていたのだ。軍略についても表面的な知識くらいは持っている。サンドラ帝国と戦うにしても、たった一人では難しいということが理解できてしまった。
(私が吸血種化を施せば解決できなくもないのですが……それは知るべきではありませんね)
血を啜り、自らの力とする吸血種であれば戦い続けることも叶う。受けた傷は再生するし、飢え渇きは敵から吸血すれば満たされる。また自己崩壊により魔力も生成され続けるため、神器を使い続けても滅多なことでは尽きない。
しかし人であることを捨てる覚悟を決めさせるには早すぎる。
人という在り方を捨てたことで、サンドラ帝国は成立したのだ。安易なことはできなかった。そこでカーミラは別の提案をする。
「ルークさんと同じように考えている人は他にもいます。サンドラ帝国は他の国にも攻め込んでいますから」
「それって」
「シエスタとヴェリト王国という国に聞き覚えはありますか?」
「ああ。シエスタは分かる。隣国だし、レビュノス領とも接しているからな。ヴェリト王国は噂に聞いたことがある程度だ」
「その二国もサンドラ帝国とは北部で隣接しています。そして帝国はアスラン王国と同じように、シエスタとヴェリト王国にも同時侵攻を仕掛けました。まだ情報は掴んでいませんが、既に制圧されている可能性もあります。ですのでさらに南の国、封魔連合王国を目指します」
彼女の口から語られた国は、ルークも聞いたことのないものであった。




