522話 煌天城争奪戦⑥
ノスフェラトゥの意識は朦朧としていた。
《聖印》のお蔭で感情を表に出す機能が低下しているものの、痛みは確かにある。今こうしている間にもノスフェラトゥは自動的に再生しつつあるが、夢見心地であった。
(血、血……)
彼女の思考を鈍らせる原因は他にもある。
それは赫魔の細胞だ。《聖印》でその欲求を封じていたとしても、完全ではない。今のノスフェラトゥは致命的なまでに血液不足へと陥っており、それでも細胞は自壊して魔力を生成しようとしている。
つまり自滅へと向かっていたのだ。
(血、飲みたい。血、血……)
理性は徐々に消失し、その代わりに本能が表に出てくる。
ノスフェラトゥの意思に反して勝手に《聖印》が解除されたのだ。それによって浄化されていた赫魔の呪いとも言える本性が増大し、ノスフェラトゥの肉体も急速に再生する。更には腹や足を貫く骨の杭を瘴血によって侵食した。
瘴血の毒素は免疫の一種だ。ノスフェラトゥ自身を含む吸血種の細胞以外を攻撃する免疫機構なのである。そのため瘴血の霧の中で普通の生物は細胞を壊され、死んでしまう。
ラヴァの骨も、結局は人間の細胞から作られたものだ。
制御から離れた骨細胞は容易く毒が入り込み、ボロボロに崩してしまう。
「……」
ゆっくり、幽鬼のように立ち上がった。
思考の全てが『血』に支配されつつある。そしてその視線はラヴァへと固定されていた。本能に支配されても記憶が消失しているわけではない。彼女の中でラヴァという存在は明確な捕食対象であると認定されていたのである。
魔力消耗の激しい霧化は使わず、そのままラヴァの背中に向かって飛び掛かった。
冥王という存在に気を取られていたラヴァは咄嗟に反応できず、背中に取り付かれてしまう。ノスフェラトゥは指の先に血を集め、鋭く結晶化させた。だがそれが突き立てられたラヴァの首元は瞬時に骸殻で守られ、弾かれてしまう。
「邪魔するなァ!」
ラヴァも今はノスフェラトゥという羽虫に構っている暇はない。明確な危機が目の前にある今、適当に掴んで投げ飛ばすだけに留めた。今は一瞬でも隙を見せるわけにはいかないと、彼の本能が言っていたのだ。
シュウとしてはわざわざ隙を突く必要もないので、何かをしようともしていない。
だがラヴァからすれば常に警戒を解くことができない状態であった。
「ォオオオオオオオオオッ!」
ノスフェラトゥを投げ飛ばすと同時に、ラヴァは暴転器を発動した。全身の骸殻から鋭い骨を生み出し、それを音速以上の初速で射出したのだ。
初見であれば回避の難しい高速かつ高密度の攻撃だ。しかし何度もそれを見ていたシュウは、あらかじめ周囲に空間湾曲の魔術を発動していた。超音速で飛来する骨は捻じ曲げられ、背後へと逸らされていく。
「かなりの威力だ。ベクトル反転や障壁魔術では防げなかった」
「畜生があああァッ!」
「遠距離攻撃が効かないなら接近戦か。お前は寧ろそっちが得意だよな?」
強く踏み込まれた地面が爆発し、ラヴァは上空に跳ね飛ばされた。シュウが直前に仕掛けた錬金魔術の第五階梯《地雷原》である。かなり使い勝手が悪い魔術だが、実は学ぶべきことが多い。特に魔術工学の面では優秀な教材となる。
シュウが発動した《地雷原》という魔術は地中の元素を組み替えて爆発物を生み出すというもの。特定の元素を分離、合成といった術式は応用もしやすい。
「俺は遠距離タイプだからな。距離は稼がせてもらう」
空に跳ね飛ばされたラヴァは、更に空中でも連続爆破に晒される。《地雷原》を応用した似た魔術により、地面だけでなく空気中でも爆発物を生成できるようになったのだ。その代わりに魔力消費は大きく、術式も大きくなっている。
シュウのように膨大な魔力を持ち、更にはマザーデバイスのような自動制御装置を所有しているからこそ実戦レベルで扱える。
「死ね」
また使用した魔力は回収もできる。
覚醒魔装士であり、暴転器との同化で第三の眼も発動しているラヴァを即死させるには至らないが、大量の魔力を一時的に奪うことができた。
瞬時に膨大な魔力を喪失したラヴァは全身から力が抜けてしまう。また骸殻も維持できず、剥がれたまま地面に落下してしまった。
当然のように落下先でも《地雷原》は仕掛けられている。
大爆発が生身のラヴァを襲った。
「人間ならこれで充分だと思うが……」
だがシュウは土煙と爆炎の奥を見つめ続ける。
今の言葉に反して、まだラヴァの魔力は消えていないし、魂も煉獄に流れていない。その頑丈さにはあきれるばかりだった。
◆◆◆
黄金要塞内部では蛮族と天空人の各勢力による戦いが散発していた。
クライン家は《尸魂葬生》で呼び出したアロマ・フィデアを失ったことで、もはや勝利の芽が消えてしまった。またクライン家当主テドラも長時間に及ぶ《尸魂葬生》のため力尽きてしまった。彼ら一派は士気も低下しており、蛮族の激しい攻撃により間もなく全滅しようとしていた。
一方で少数ながらもノスフェラトゥという大戦力を手に入れたセシリアス家一派は、アラフの予言もあって順調に管制室まで到達し、制圧まで完了している。
そして最大級の数を投入してきたのが、ヴェリト王国へ逃亡していたイミテリア家の一派である。聖石寮およびヴェリト人の戦力を借り、分かれて要塞内の制圧を続けていたのである。ケシスと共に管制室を目指していた部隊とは別に、ヴェリト人は民間人救出という名目で内部の探索と制圧を行っていた。
「コイエス隊長」
「どうした?」
「かなり激しい戦闘が起こっているようです。あちらの方で」
四十人の兵でやってきたヴェリト人だが、既に十三人が失われていた。祝福という特殊能力を有する彼らは、自分たちを特別な民族だと認識している。他の民族では扱えない奇跡のような力を保有しているからだ。
だからヴェリト人は戦力的優位によって周辺民族を制圧し、土地を奪い、民族を統合し、ヴェリト王国を成立させるまでに至った。その過程ではシュリット神聖王国との出会いもあるのだが、つまり彼らは祝福と、それを与えてくれる始原母に強い信頼を置いていた。
「……引きませんか隊長。ここは恐ろしい場所です」
「なんだと?」
「蛮族は皆、骨を操ります。それは私たちの使う金属の武器より鋭く、その守りは我々の鎧よりも堅いのです」
「ならん!」
進言する部下をコイエスという隊長は叱りつけた。
拳を強く握り、口ひげに唾が飛ぶほど激しい剣幕で怒鳴り散らす。
「我々は何者だ!? 勇敢な民族! そして始原母に選ばれた民族ではないか! 我々は大地の尽くを支配し、劣等なる民族の全てを導かなければならない! この世の全ては始原母の下で初めて安寧を手にすることができるのだ! そうであろう!?」
「は、はい!」
「そうだ。そうでなければならない。いずれは星盤祖などという紛い物を崇める西の愚か者どもすら圧制し、完全に統一しなければならない。この黄金の如き城はそのための有用な武器になるであろう。故に我々こそが完全な勝利によって手に入れなければならないのだ!」
兵士たちは圧倒され続ける。
コイエスという男は特別信仰心が強いというわけでもない。ヴェリト人の上層部や兵士長クラスであればおおよそこのような考え方が主流なのである。特に兵士をまとめる立場となると、ヴェリト人の中でも名家の出身であることが多い。彼らは世の支配者としてどうあるべきかを幼い時より教えられ、考えさせられてきた。
祝福という特別な能力を持つヴェリト人こそが世界の支配者であるべきだと本気で信じているし、それを実行するために生きているのだ。
「ここで引くことなどあり得ぬことだ。蛮族など祝福で打ち砕け! 天空人は我らの内側に取り込み、我々の力とするのだ。そしてこの大いなる城を手に入れ、愚かな民族の全てに我らの栄光を見せつける! さぁゆくぞ!」
彼は剣を掲げ、一番前に立って激しい戦闘音と衝撃のする方へと向かっていく。他のヴェリト兵もコイエスの鼓舞によって限りなく士気を高め、各々が鬨の声を上げつつ進んだ。
気弱に撤退を進言していた兵士の一人も、今や同じように高揚して声高々に叫んでいる。
その道中に現れた蛮族は容易く蹴散らされ、彼らはやがて最も危険で激しい戦場へと辿り着いた。大きく抉り取られた空間の中心部では激しい戦闘が起こっており、そこには見覚えのある顔もある。
「ほう。あれは聖石寮のオスカー・アルテミアか」
見渡してみれば、今回の依頼者とも言えるケシス・イミテリア・ラ・ピテルやその側近たちの姿も遠くにある。どうやらここが最大の戦場らしいとコイエスも理解する。
「隊長、あの場所まで降りるためには苦労しそうです」
「瓦礫を伝っていけば良かろう」
「はっ!」
ラヴァとオスカー、そして彼らが名を知らない少女――つまりノスフェラトゥ――の戦いは人知を超えたものである。だがここに来て引き返すという選択肢が存在するはずもなかった。
何より、今まさにオスカーとノスフェラトゥがやられたのである。
「見たか! あれこそが蛮族共の将に違いあるまい。あれを討ち取った者には望みの褒美があるぞ!」
『おおッ!』
「それとついでだ。オスカー・アルテミアから神器とやらを奪い取れ。あれほどの武器は優れた民族たる我々にこそ相応しい。行くぞ! 私に続くのだ!」
彼らは爛々と欲望を灯し、妄信的に正義を信じ、瓦礫を伝って降りていく。
丁度シュウがラヴァの相手を始めた頃、そのようなことが起こっていた。
◆◆◆
オスカーは骨や内臓のダメージが酷く、しばらく立ち上がれないでいた。だが時間さえあれば大聖石を介した治癒魔術で治せる。衝撃のため神器同化は解けてしまっていたが、それでも治癒の魔術を使うのに充分な魔力は残っていた。
そして動けるようになったオスカーは、ノスフェラトゥの元へと移動する。
彼女も既に再生を終えていたので傷こそなかったが、かなり苦しんでいるように見えた。
「大丈夫ですか? 私の声が聞こえますか?」
「ぅ、ぁ……」
「傷も無し、魔力も充分。いったいどうしたというのですか」
ノスフェラトゥの苦しみは、つまり空腹だ。
赫魔細胞は今も肉体を自壊させ、魔力を生成し続けている。当然だがオスカーが知るはずもないことであった。
(……やはり似ていますね)
こんな時であったが、オスカーが思い出したのはアルテミア家から放逐された妹のことだ。目が見えないこと、自身と同じ輝くようなブロンドの髪、そして鼻筋や口元といった特徴、また体格までも、記憶の中にある妹の姿と一致する。
(いえ、偶然です。あれから五年も経っているのですから、私の記憶と一致するはずがない)
人は成長する生き物だ。
特に十歳程度の子供であれば、五年後には大人の顔をしているものである。だからノスフェラトゥがオスカーの知る妹であるはずがないのだ。
彼は首を横に振り、願望ともいえる思考を振り払った。
その時、ザッと背後で砂利を踏みしめる音がする。振り返ると、ヴェリト兵たちがいた。この要塞へ突入する際に分かれ、彼らは天空人の救出に向かっていたはずである。つまり本来であればここにいるはずのない者たちだった。
「コイエス殿……どうしてここに? あなた方は天空人を……そもそも案内役の方はどうしたのですか? 見当たらないようですが」
「戦闘中の不幸でお亡くなりになった。我々は戦闘の音を聞きつけ、ここに来たのだ」
「そうですか。残念です。ですがすぐに離れてください。あの男はおそらく蛮族の王。そして私と同じ迷宮神器を保有しているようです。他にも正体不明の異能を持っています。傷を受けてもすぐに再生することから、彼は魔族なのかもしれません。あなた方は予定通り、天空人の救出を」
だがその返答の代わりとして、コイエスは剣を。また他の兵士たちもそれぞれ武器を構えてオスカーに向けた。
オスカーも馬鹿ではない。
この状況で武器を向けられる意味はすぐに察することができた。
「止めてください。ここでそのような行為に意味はありません」
「意味はあるとも。優れたヴェリト人が大いなる力を所有するための必要な犠牲だ。この戦争で貴様は死に、その神器は私へと託されるのだ。残念ながらシュリット神聖王国との同盟を継続するため、大聖石は返却することになるだろうが……ふむ、紛失したことにして奪ってしまってもよいかもしれんな」
「あなたは……ッ!」
コイエスが振り下ろした刃を劔撃で受け止める。
だが他の兵士たちも殺到し、次々と武器を差し向けた。そこでオスカーは水の第四階梯《水流鞭》を発動する。高速で叩きつけられた水は鉄ほどの硬さとなる。近づこうとしていたヴェリト兵は弾き飛ばされ、鎧すら砕かれていた。また蓄積した劔撃の斬撃でコイエスの剣を斬り飛ばし、蹴りで距離を取った。
「ぐ……厄介だ。だがここからだぞ」
半分ほど刃が消えた剣に対し、コイエスは祝福を発動させる。
すると欠けた部分から炎が生じ、刃の形となって補う。膨大な熱を孕んだ赤い剣が出来上がった。
「我が祝福は最も優れた付与系統……《炎付与》だ」
「……本当に、戦うのですね」
それ以上の返答はなかった。
すぐそばでラヴァと冥王の戦いが繰り広げられているにもかかわらず、コイエスやヴェリト兵の目にはオスカーしか映っていなかった。彼の持つ迷宮神器と、大聖石にしか。
数の上ではオスカー側が不利。
独りである上に、悶えるノスフェラトゥを守られなければならない。
「我が身を捧げます。この身、この魔力と一つに」
劔撃と同化したオスカーの額に第三の眼が開く。大量の魔力を受信し、身体が満たされていくのを感じた。
同時に生じる大きな負荷は《耐魔》の祝福で耐える。同化によって手足に装甲が生じ、淡い光を放ち始めた。
「かかれ!」
コイエスだけでなく他の兵士たちもそれぞれ祝福を発動する。まずは魔力系と呼ばれる祝福持ちが遠距離攻撃を仕掛けた。
魔術陣が浮かび上がり、そこから炎や雷などの射撃が殺到する。
それに対してオスカーは光の第三階梯《守護壁》を発動した。それによってあらゆる魔力攻撃が遮断された。
主に物質や生体への干渉という特徴を持つ光魔術の中で、防護壁を発生させるこの魔術は少しばかり異質だ。結界によって世界を区切り、魔力そのものへと干渉することでエネルギーを拡散させるのだ。故にほとんどの魔術攻撃は威力を失い、消失する。
オスカーは劔撃を弓形態に変化させ、素早く弦を引いた。全くチャージされていないので最低威力だが、人体を貫く程度ならば充分だ。魔力矢は最も近づいていた兵士の顔を射抜いた。
「《土棘地帯》」
また前方に向けて土の第六階梯魔術を放った。
地中より金属成分を抽出し、無数の棘を生み出す。それは多数の敵の足を潰すのに最適な解である。前に出ていたコイエスも両足を貫かれ、痛みに苦しむ。
そして充分にチャージした矢を放った。矢は幾人かをまとめて貫き、大量の血を飛び散らせる。
「投降してください。あなた方では私に敵うはずもないでしょう」
「ば、馬鹿な……こんなことがァ!」
「今ここで争っている場合ではないのです」
「ふ、ふざけるな! 栄光ある我らヴェリト人が貴様らに屈するなどあり得んのだァ!」
コイエスは炎を付与した剣を投げつける。
しかしオスカーは表情一つ変えずに槍形態の劔撃で弾いた。
「本当に、残念です」
聖石寮の役目とは人々を守ること。
魔物や魔族を滅し、人々の安寧を作ることである。手に持つ刃は人間に向けられるべきではなく、弱きを救うために振るわれるのだとオスカーは考えていた。
せめて痛みなく逝けるように。
一撃で肉を裂き、骨を断ち切れるようにと劔撃へと魔力を込めた。
それを見て本気だと悟ったのだろう。コイエスは恐れから後ろに下がろうとして、だが足を抜止められているためにバランスを崩してそのまま倒れてしまう。鋭い金属の棘が生えた地面に向かって勢いよく背中から落ちてしまった。
「あああああああああああああああああ! うがあああああああああ!?」
またそれは始まりに過ぎない。
恐怖は伝播し、他のヴェリト兵も次々と倒れる。オスカーが足止めのため使った魔術は、残酷な処刑場へと変貌してしまっていた。血の匂いが咽るほど充満し、絶望と苦痛の悲鳴が幾重にも木霊する。ここにあるのはオスカーが経験したどの戦場より酷いものだった。
コイエスたちは敵対者となったが、残酷な最期を迎えて苦しんでほしいとは思っていない。
「せめて、介錯をして差し上げます」
しかしオスカーがそう告げると同時に、それは叶わなくなった。
突如として彼らは赤い結晶体によって貫かれたのである。同時にそれらは点滅し、コイエスたちは干からびていく。
「そんな……これはまさか」
オスカーはすぐに振り返り、ノスフェラトゥの姿を探す。
だが先程まで苦しみ悶えていた彼女の姿は見当たらず、彼女を示す巨大な魔力反応もない。
(いや、こっちじゃない)
すぐにオスカーは元の方を向いた。
ノスフェラトゥの魔力反応はそっちに移動していたのだ。少女は全ての血を失い死んだヴェリト兵たちの前に立ち、その身に赤い霧を取り込んでいる。そしてその赤い霧は、兵士たちを貫き殺した赤い結晶から放たれるものであった。
まるで血を啜っているかのような光景に、オスカーは息を呑んだ。




