505話 苦難の報酬
その日は都市国家サンドラで大きな緊張が走った。
地下迷宮の支配地たる旧サンドラ領域が突如として赤い霧に包まれ、一切の連絡が途絶えたのだ。その発生直前には魔族の大軍が攻め寄せてきたという報告もあり、地上のサンドラでは集められる限りの大軍を以て備えていたのだ。
「火主よ。どうかお下がりください」
「ふん。迷宮から現れたのは正体不明の集団なのだろう。ならば我が見極めなければならぬ。我はサンドラの強き王だ。我が道を阻む者は尽く焼き尽くすのみ。なぜ我が道を譲らねばならぬ?」
「……承知いたしました。しかしどうか警戒を。例の集団の中にバラギスこそおりますが、探索軍は他に誰もおりませぬ」
「分かっておるわ」
赤い霧が晴れた後、現れたのは装備の統一性もない集団であった。武器も防具もなく、バラギスと見知らぬ男を先頭にしてサンドラの街に向かってきた。
サンドラを守る数少ない直轄軍と探索軍はその歩みを止めようともしたが、探索軍団長であるバラギスがいたことと、もう一つの理由によってそれは叶わなかった。それは彼らが運ぶ大きな箱である。四人がかりで運ばれるその箱には、大量の首が収められていたのだ。それも異形の混じる魔族の首である。
この光景はあまりにも異様であり、サンドラの兵士たちは黙って通すしかなかった。
そしてそのまま、火主の宮殿前までやってきたのである。ここで首が収められた箱も地面に置かれ、二人の人物が前に進み出た。
「偉大なる火主よ。我々は魔族を討ちました。この者たちはその協力者です」
「バラギスよ。まずは貴様の功績を称える。貴様は我が軍において最も偉大な者であると世々にわたって語られるだろう。だがその者どもについて我の問いに答えよ」
「如何なる問いでしょうか。どのような問いにも真実を以てお答えします」
「その者どもはどこから来て、どこへ行くのか」
「彼らは吸血種という者たちです。不死の力を持っており、それを偉大なる火主に献上すると申しております。これは以前の侘びであり、またサンドラの庇護を得たいとも」
不死、という言葉に火主だけでなく側近たちも動揺を隠せない。
誰であっても死は遠ざけたがるもの。もしも魔族のように死なない身体があれば、サンドラの繁栄は更なる次元に到達するだろうと誰もが考えた。
しかし中には突飛すぎて信じ切れない者もいる。
その一人である側近が火主の耳元で何かを囁いた。すると火主は象徴たる無限炉を差し向け、強い声で命じた。
「ならば我の前で示せ。不死の力などと口では何とでも言える。我の前で確かなものであることを示すのだ。貴様の刃によって隣の男を斬れ」
「はい。仰せのままに」
バラギスは何の躊躇いもなく、足元に水銀を満たした。そこから伸びる刃は鞭のようにしなり、勢いよく隣に立つ男、ハーケスの胸元を斬り裂く。心臓近くの太い血管が破裂し、周囲を鮮血で汚した。しかし次の瞬間、飛び散った血液は時間が巻き戻ったかのように戻っていく。やがて胸元の傷すらも塞がり、血が染みついた衣服すらも元通りになった。
これには文句のつけようもなく、しかし現実感がない光景のため幻覚すら疑ってしまう。
心なしか、いや確実に火主の声が震えていた。
「……それほど多くの魔族を討ったのであれば、不死の力も真実であろう。それを我に献上するというのか。バラギスの隣にいる男よ。我の前に名乗り、発言を許す。答えよ」
「はい。俺……ではなく私の名はハーケスです。私たちは火主に不死の力を献上し、その代わりこの国に属したいと望んでいます。忠誠の証として、私は迷宮神器をお持ちしました。魔族の王バラギウムが所有していた強力無比なる神器・星環でございます」
ハーケスがそう言うと、後ろに控えていた一団の中から二人の人物が進み出てくる。
一人は黒衣を纏う長髪の男であり、その隣を歩くもう一人は小柄な少女だ。少女については目元を黒い布で覆っており盲目なのだろうと予想できる。だがその割に歩き方は周囲を視認しているかの如く堂々としたものだった。
側近の一人が火主へと囁きかける。
「火主よ。覚えておられますか。あの黒衣の男は『死神』です。魔族の王を討ち、首を献上するなどと語っていた」
「ふん。なるほど。この者たちは黒猫の関係者ということか。まさか本当に魔族の王を討ったのであれば、騙りではなかったということになるが。『死神』の隣にいる女が抱えている杖が星環とやらか」
「不死の力に神器とは。充分過ぎる献上品でしょう」
「分かっておるわ」
小声で話し終えた火主は、都市全体に聞こえるのではないかと思うほどの声で叫んだ。
「魔族を討ち滅ぼした英雄よ! 貴殿らを我の直轄兵として迎え入れよう。我が宮殿に滞在し、身体を休めるが良い!」
サンドラにおいて直轄兵とはある種の特権階級者である。
迷宮を彷徨っていた時代から火主に仕えてきた忠実な家臣だけの特別な地位であった。先日蛮族に国を滅ぼされ、亡命してきたパンテオン人など街の外に居住を許したくらいだ。他所の者がいきなり直轄軍に所属できるというのは、誰もが異質だと思う待遇なのである。
だが献上物を考えれば当然とも言える対価であった。
(ようやく……俺たち炉は日の下で暮らせる。逃げることも隠れることもなく、堂々と生きていけるんだ)
それ即ち、ハーケスにとって決意の成就であった。
◆◆◆
吸血種を受け入れたサンドラは、大きな変革を迎えた。レベリオ征服戦において直轄軍の多くを失い、優秀な軍団長トマスまでも失っていた状況だ。そのタイミングで迷宮の戦線も激しくなり、旧サンドラ領域を完全に失うと同時に探索軍も壊滅的な被害となった。
戦力の補充はサンドラにとって急務だったのである。
最悪の場合は一般市民に無限炉の加護を与え、火を付与した投石攻撃で都市防衛することも考慮されていたほどであった。
「全て貴様らの差し金ということか。『黒猫』よ」
「まさか。偶然に過ぎません。それに吸血種たちは我々が支援する地下の者たち。私は火主の益になる人物を紹介したに過ぎません」
魔族の王の首を獲るという約束が果たされるまで『黒猫』――あくまで人形だが――は人質として囚われていた。火主を侮るような大口を叩く『黒猫』に対する罰のつもりだったが、まさか本当に達成されるとは思っていなかったらしい。
火主は微妙な顔をしつつも『黒猫』を解放し、自分の前に連れてきたのである。
「私の願いはただ一つ。偉大な支配者による統治です。サンドラ、レベリオ、パンテオン、アリーナ、シエスタ、ヴェリト、他の領地を持たぬ蛮族たち。群雄割拠するこの時代において私が支配者と見定めたのがあなたです」
「ほう。見る目はあるらしいな。それが貴様の本音か?」
「私たちは誰を支援するべきか既に知っております。あとは火主が王の中の王、すなわち帝王になる覚悟があるかどうかです」
「ふん。知れたことよ。我は生まれながらの王者。火の支配者である」
火主ヘルダルフは自信たっぷりに返した。
今、『黒猫』が口にした国家の中で理想的な支配者を有するのはサンドラのみ。王の権威が弱いレベリオ、学者の街であったパンテオン、奴隷国家のアリーナ、野心のないシエスタ、シュリット神聖王国と繋がりつつある侵略者ヴェリト人。この中で既に滅びたパンテオンの亡命者はサンドラが保護しており、これから文化も技術も民族も少しずつ吸収してサンドラ人に同化されていくことになるだろう。
「まずは疲弊したこの国を回復させてください。私はそのためのお手伝いをいたします。再び強いサンドラとなった時、かのレベリオすら容易く制覇できるでしょう」
「ほう。では貴様は代わりとして何を望むのか。タダというわけでもあるまい。魔族の王を討ち、この我に力を示したのだ。その豪胆さに免じて話を聞こうではないか」
「ありがとうございます。我々黒猫は迷宮を探索するための組織を作りたいと考えています。すなわち探索ギルドの結成です。探索ギルドの役割は迷宮に潜り、古代の遺物を探してサンドラの力とすること。探索軍の役目をそのまま引き継ぎたいのです」
「よかろう。探索軍は一度解体する予定だ。欲しい奴がいるなら貴様が引き取れ。元は貴様が紹介した者たちだ」
今のサンドラに二軍を再編する余裕はない。
都市の存亡がかかっている直轄軍を集中して再建し、探索軍については民間委託したような形だ。火主は統治者として決して無能ではない。寧ろ優秀な部類と言える。だからこそ、今は無理をするべき時ではないと理解していた。
短期間で二軍の大部分を失ったとはいえ、得たモノも多い。
吸血種という新たな軍勢。そして神器・星環だ。既に無限炉があるので星環については運用に悩む部分もあるが、吸血種の軍勢は心強い。
また経済面でもパンテオン人を取り込んだことで回復が見込める。
(ふん。王の中の王……悪くはないな)
情報網が発達しているとは言えないこの時代、他国については噂程度で耳にするのが限界だ。彼もまた、行商人たちを通じて他国の話は聞いたことがある。
もしもそれが自分の支配に収まったのならば。
そんな未来すら想像した。
◆◆◆
「迷宮の利権を得ることが目的だったのか?」
「まぁね。これまでは裏からこっそり中抜きしていたけど、これからは堂々と扱えるよ」
状況が落ち着いたところで、シュウと『黒猫』は少し話し合っていた。吸血種たちと同じく宮殿に滞在することを許されていた二人だったが、こっそり抜け出して人目の付かない場所に集合したのだ。
勿論、この『黒猫』は人形の方である。
「僕が迷宮を欲したのは魔族がいたからだよ」
「ああ。俺も魔神を見た。大陸東側で勢力を伸ばしたいようだな。シュリット神聖王国を挟み撃ちする狙いがあると思っている」
「吸血種については完全に想定外だったけどね」
「俺からしてもそうだ。だから加護を与えて縛っておいた」
「やっぱりそういう狙いだったんだ」
「別に悪いことばかりじゃない。俺の……冥王の系譜として縛られるが、冥界に接続する能力や虚無たちから身を守るための防壁効果もある。魔族のように制御できない異種族は増やさない方針に変わりはない」
魔法とはその名の通り、一つの法則である。死魔法とは死という概念に通ずる法則。冥王アークライトが誕生し、冥界が完成する前であれば死は滅びと同義だった。
現在では魂が冥界に落ちる状態を死と呼称している。つまり死は法則として世界に組み込まれた。その法則は冥界のものであり、易々と現世の人間が触れて良いものではない。だが一方で、シュウはこの法則を独占運用するつもりもない。
何故なら一人でできることは限られているからだ。
シュウが選んだ者には冥界の力を僅かに与え、眷属とする。その方法こそが加護だった。
「今のところ加護を与えているのは妖精郷でも一部の奴ら、そしてアイリスだけだ。そこにノスフェラトゥも迎え入れることにした。それ以外の吸血種まで面倒を見るつもりはないが」
「蘇生魔術は冥王眷属の特権になりそうだね……」
「簡単に生き返ってもらっては困るからな」
「ルシフェル様も生死の領分を君に任せているみたいだから、君の裁量には従うけどさ……ん、そうなると君が魔族の王にくれてやった鞘はもしかして?」
「加護とは違うが、死魔法の一部が込められている。つまりそういうことだ。他にも細かく加護の実験をしていくつもりでいる」
死の法則はあまりにも世界への影響が強すぎる。
生きている存在と死んだ存在の境界線を曖昧にしてしまうからだ。ルシフェルのように全ての人に魔の法則を利用させたり、魔装のような力を許したりはしない。
「話が逸れたな。俺はこれからお前の仕事に協力する。『死神』の仕事が必要ならノスフェラトゥに依頼しろ」
「そうするよ。早速手伝いを頼みたい」
「例の天空城。つまり黄金要塞か」
「そうだね。『幻書』が求めてやまないあの城のことを調べておいてほしい。一般人に紛れているだけの人形だと限界があるから」
サンドラで起こった騒動の裏でも事態は変化し続けている。
ここから南東へ行った場所にあるレベリオという国家で、渦巻く暗雲と共に黄金要塞が出現した。氷河時代では常に空が雲で覆われ、存在を隠されてきた空飛ぶ城。超古代においても突出した技術によって生み出されていたそれは、現代に降りてくれば大きな混乱を生む。
ひとまずはスパイ代わりとして黄金要塞に興味を持つ『幻書』を派遣したのが少し前のこと。
だがシュウならばより詳細な情報収集が可能だろう。
「僕もそろそろ本体は身を隠すよ。サンドラの方は僕が引き継ぐから、レベリオを頼むね」
「サンドラに統一させるということは、黄金要塞を潰せばいいのか?」
「その判断は少し難しいね。ただすでに得ている情報によると、黄金要塞が降りてきたのには理由があるみたいだ」
「理由?」
「位置エネルギーを転換することで無尽蔵にエネルギーを生み出し、単体で完結する大要塞。それがわざわざ地上に降りてくる理由だよ」
「侵略か? 人口が増えすぎたせいで収容しきれなくなったとか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
シュウは首を傾げた。
『黒猫』にしては曖昧な答えだったからだ。
「何もわかっていないわけじゃないんだ。ただ噂が錯綜している。どの噂が正しいのか、あるいは真実は噂の中に存在していないのか、そこが分からないんだ。レベリオ人の知識不足もあるし、そもそも彼らと天空人の間で言葉が通じないのが問題だよ。勿論、僕も分からない。基礎は昔の言葉だと思うんだけど、変化しすぎているからね」
「仕方ないか……参考程度にどんな噂が流れている?」
「神々が降臨した、地上を支配するために天の住民が現れた。そんな話が大部分だね。雷の魔術でサンドラ軍を撃滅したみたいだから、嵐神を信仰するレベリオ人からすれば神そのものか、その使いにでも見えたんだろうさ」
「人に紛れて潜むお前の人形では、レベリオ人の知識に沿った情報しか手に入らないということか」
「あとはこんな噂もある。天空人は何かを探している、とね」
「曖昧だな。俺が情報を集めるにしても、時間はかかる。まずは天空人の言語を習得しないとな」
暗黒暦一五九五年の終わり。
都市国家サンドラは魔族という問題を解決し、吸血種の力を得た。大きな痛みは受けたが、それでも躍進の基盤を手に入れたと言えよう。
ここからが真に戦争の始まりだと、二人は確信していた。
サンドラ、吸血種の国になる。
シュリット神聖王国の胃痛案件