503話 サンドラ王たる矜持
ハーケスとバラギウム。
二人の内、最後まで立っていたのはバラギウムであった。全てを使い切ったハーケスは怨敵の心臓を貫くことなく力尽き、崩れ落ちる。一瞬、時が凍り付いたように思えた。
「き、きさ、ま……」
しかしバラギウムとて無傷ではなかった。
それどころか致命傷である。確かに魔族はどんな傷でも魔力の限り自己再生できる。しかしバラギウムの心臓は突き破られ、その中で守られていた魔石に亀裂が入っていたのだ。魔石はただ魔力を固めただけの物質ではない。高度な情報体積層から成る構造物だ。魔石が傷つくということは、そこに留めている魂の維持が困難になるということ。
多少の傷ならばともかく、ハーケスによって付けられた深い亀裂は致命的であった。
「貴様ら劣等種如きが我が覇道を邪魔するなど……許さぬぞ!」
バラギウムは怒りのままに魔力を発する。
未だに彼の頭上には黒い円環が連なっており、星環の同化は解けていない。バラギウムの魂はまだ魔石の中に封じ込められている。ただそれも時間の問題だ。せめて応急処置をしなければ魔石は亀裂を広げて自己崩壊し、肉体から魂が抜け出ていくことだろう。そんな状況で膨大な魔力を行使し、同化した神器の力を使えば崩壊は加速する。
それでも誇りを傷つけられたバラギウムの怒りは止まらない。たとえ死ぬと分かっていても、その怒りを抑えることはできなかった。
「我が声に応えよ星環! 我が生命、我が魂と引き換えにこの世を滅ぼすのだ! 我のモノにならぬなら、尽く消えよ!」
それを聞いた『黒猫』がギョッとする。今すぐにでもとどめを刺さなければ手遅れになると考え、傀儡ハイレインに魔石を切断させようとした。
だがそれよりも早く星環はバラギウムの意思を汲み取り、強制的に魔力を吸い上げて力を増す。一時的に開眼した第三の眼により魔力は実質無限。懸念があるとすれば急速な魔力の行使と回復による肉体への負荷だが、もはやバラギウム自身がその制限を取り払っていた。
無秩序に発生する暗黒点が容易く傀儡ハイレインを圧し潰す。
そうして生まれた破壊の球体は引力を増し、さらに巨大化もしていく。重力の歪みによって嵐のような暴風が発生し、地面は割れ、気温すらも変動していた。
「ハーケス!」
「だめだ。諦めてくれ!」
せめて回収をと動き出すバラギスを、必死に『黒猫』が止める。それが功を奏したのか、バラギウムの足元で倒れていたハーケスは乱雑に発生する暗黒点のため見えなくなる。
「既に死んでいる。魔力を感じればわかるだろう? 今はできるだけ距離を取るんだ。僕の空間遮断が壊れない内に!」
「だが……」
「悩んでいる暇はないよ」
今も二人が無事なのは、『黒猫』が空間遮断結界を張っているからだ。
早く距離を取らなければ空間ごとねじ切られ、暗黒点に巻き込まれる。それでも悩むバラギスの側で赤い霧が凝集し、いつの間に消えていたノスフェラトゥが具現した。
しかも彼女は両腕でハーケスを抱えていた。
「退避する前に拾っておきました」
「でかしたよノスフェラトゥ! さぁ早、く……危ないッ!?」
これで逃げられると安堵したのも束の間、バラギウムの生み出した暗黒点が激しく乱雑に動き始める。ほとんどランダムに動き回る暗黒点は、そこに存在する物質を呑み込み続けた。
ますます強い暴風が発生し、地面は捲れ、あるいは抉れ、高温と低温が無造作に入れ替わる。空間の歪みは光すらも捻じ曲げ、視界すらままならない。
『黒猫』は多重に空間遮断と空間湾曲を張り巡らせ、暗黒点が届かないよう防ぐので精一杯だった。もはや転移に力を割く余裕がないため、このまま防ぎ続けるしかない。
「ほんっとうに……! こんな危ないのは久しぶりだよ。こんなことなら『黒鉄』じゃなく『鷹目』にしておくべきだったね」
特定人物を再現し手駒とする《現身》は、発動のために生贄となる人間が必要だ。そのためすぐに発動できるわけではない。余力のない『黒猫』はひたすら防御に徹していた。
それしか方法はなかった。
◆◆◆
サンドラ人はかつて迷宮の弱者であった。
彼らは終焉戦争の折、迷宮内に取り込まれた人々の末裔だ。地上とは異なる自然環境、当時はほぼ絶滅していた強力な魔物、そしてソーサラーリングによって喪失した魔術。その影響は計り知れず、多くの人々は理不尽に死んでいった。
それでも人間の執念と生存能力は侮れず、まるで野生を取り戻したかの如く順応する人々も現れた。彼らはやがて集団の長となり、前時代的な民族国家の形成に至る。サンドラ人もまた、迷宮における生存競争を勝ち抜き千年以上も持続した人々であった。
とはいえ、あらゆる文明を失った人間が厄災の如き魔物に抗う術はない。気まぐれに訪れる脅威から逃げるようにして、迷宮を彷徨う程度でしかなかった。それは屈辱的であったが、いつしか人々は仕方のないことだと受け入れていた。
そんな時代に生まれたのがバラギウムという男である。
当時のサンドラ人は神奥域の腐原領域と呼ばれる場所で惨めな生活を送っていた。なぜならその領域は渦銀竜という高位級の地竜系魔物が支配しており、サンドラ人は渦銀竜に生贄を捧げることで平穏を保っていたのだ。
「こんなのはおかしい。そうは思わないのかルキウム」
「僕は思わないよ。父も、祖父も、曾祖父も、ご先祖様はずっとこうしてきた。犠牲を支払って平穏を得るのは普通のことだよ。おかしいのは兄さんの方さ。あのバケモノを倒したいんだって?」
「できないはずがない。俺たちの祖が地上という場所に住んでいた頃、魔王という強大な魔物を討ち滅ぼした」
「それは御伽噺に過ぎないよ」
「俺は将来族長になって竜殺しの英雄になってやるよ」
「だったら僕が族長になった暁に、兄さんみたいな馬鹿が出てこないよう魔王討ちの御伽噺なんて禁止してやる」
バラギウムとルキウムはほぼ同時期に生まれた母親違いの兄弟であった。僅かな生まれの違いによって兄と弟と区別されるが、二人はそれよりも親密な関係だったと言える。
二人には他にも共通点があった。
母親が共に渦銀竜の生贄にされたことである。サンドラ人は子を産めるようになった女とすぐに交わり、子孫を残させる。一定期間以内に妊娠できない女はすぐに生贄として出され、五人以上産んだ女もまたその候補となる。ともかく女という性別に対して人権がない。
二人の母親もまた渦銀竜の生贄となり、しかしながら二人の間で異なる考えが生まれた。
「俺は化け物から皆を解放する。俺たちは尊厳を取り戻すべきだ」
「僕は今の平穏を守り続ける。渦銀竜のお蔭で他の魔物から僕たちは守られている」
どちらの考えも間違ってはいない。
しかし現実問題として渦銀竜を倒す方法はないし、いつまでもこの平穏が保たれるとは限らない。また現状を打開するための策を打つ余裕もない。女衆に人権は存在しないが、男とて安寧に生きているわけではないのだ。毒草ばかりの腐原領域の中で必死に食料を集め、場合によっては危険を冒して豊かな別領域まで遠征する。日々を生き抜くための食ですら満足しない有様だ。
何一つとして打開策がないまま、バラギウムもルキウムも成人として狩りへ出るようになる。精通し、女と床を一つにすれば歳など関係なく成人扱いだ。狩りの経験がある先輩たちの弟子となり、実戦の中でその知恵と技術を吸収する毎日。時に仲間を失い、死にかけ、何一つ持ち帰れない日もあった。
遂には二人とも弟子を取るようになったあるとき、サンドラ人にとって転換点となる出来事が起こる。
「くそ。こんなところにまで魔物が広がっていたなんて」
「もうこの領域は狩場として使えそうにありませんね。どうしますかバラギウム師匠」
「それ以前にここから帰れるかどうかだな。どうにか遺跡に身を隠せたが……ルキウム、お前の弟子の傷はどうだ?」
「だめだ。足が噛み砕かれている」
その日はより多くの食糧を求め、別の領域まで遠征していた。非常に危険度が高く、遠征するたびに誰かが死ぬ。しかしながら腐原領域では手に入らない豊富な食料を入手できるため、リスクに見合うだけのものはあった。
だが、この日は運が悪かった。
以前から狩場としている領域で魔物の勢力変動があったのである。台頭してきた狼型魔物の群れが新しい縄張りを作っていたらしく、そこに踏み込んだバラギウムたちは散り散りに逃げることとなった。その末、逃げ込んだのがこの遺跡だった。
怪我人を含めてこの場にいるのは五人。バラギウムとルキウム、そして三人の弟子たちである。まだ遺跡の外では遠吠えが聞こえており、『狩り』が継続しているのだと思われる。
「兄さん、他の人が追われている内に逃げるべきだ」
「今は無理だ。奴らの鼻は利く。俺たちを獲物と定めた今、ここを出れば見つかりやすくなるだけだ」
「だったらどうするんだ」
「遺跡の奥に行く。古代の武器が眠っているかもしれない。この状況を逆転できるような」
「そんな御伽噺あるわけないだろ。兄さんは楽観的過ぎるんだよ……」
とも言いつつ結局は遺跡の奥へ向かうこととなる。
そしてルキウムは唖然とさせられた。
「本当にあるんだ……」
「な。俺の言った通りだろ。そんな気がしたんだ。昔見た夢と同じだ。俺は選ばれた人間だからな」
遺跡の奥にあったのは二つの遺物だ。
一つは黒い石が嵌めこまれた長い杖。もう一つは先端にランタンが吊るされた短い杖だ。廃墟である遺跡の中で、その二つだけはひときわ輝いているように見えた。
バラギウムは躊躇いなく長い杖を手に取り、ルキウムは遠慮しつつ短い杖を手に取る。
この日、バラギウムは星環の、ルキウムは無限炉の主となったのだった。すなわち彼らは共にサンドラ人の英雄となった。
攻撃力に優れ、どんな魔物も一掃する星環の使い手バラギウム。
火の加護を与え、弱者を強者に変える無限炉の支配者ルキウム。
サンドラ人の中に二人の『王候補』が誕生したのである。
圧倒的なカリスマと星環の力でリーダーシップを示すバラギウムと、従う人々に無限炉の加護と安寧を与え親しまれるルキウムでは方向性が異なる。やがてそれは派閥となり、思想の違いとなり、争いの種へと発展してしまう。
「今こそ渦銀竜を滅ぼし、我らサンドラ人の尊厳を取り戻す時だ! 奴を滅ぼしてこそ俺たちは次に進める!」
「そんな必要はないだろう。僕たちは充分に力を得た。腐原領域から出て別の場所に移り住めばいい」
「渦銀竜がそれを許すと思うのか? 奴は我らが逃げ出そうとすれば怒りを向けることだろう。我は奴の卑劣さをよく知っている。お前は考えが甘いのだ」
「甘いのは兄さんだろう! 何が『我』だ。それっぽく尊大な口調に変えて王者にでもなったつもりなのか? 僕たちは弱い。そうだろう!」
「違う。我は強い。我々は強い! お前がそのような弱音を吐くなら、我と我に従う者だけで渦銀竜を討つ。サンドラ人の王は我だ!」
サンドラ人に王という概念はなかった。あくまでも一族のまとめ役として族長がいるのと、知恵者として長老たちがいるだけ。どちらかといえば民主主義的であった。
だがバラギウムが提唱した王は違う。
絶対的な支配によって君臨し、人々を導く覇者である。あらゆる困難の最前線に立ち、人々に対して先を示す圧倒的なカリスマを備えた王者こそ、バラギウムの目指すものだった。
それを証明するため、またサンドラ人の屈辱を晴らすため、渦銀竜を討伐せんと奮起していたのである。実際、バラギウムに心酔する男は数多く、その派閥だけで渦銀竜を討伐しようと動き始めていた。
「このままだと兄さんだけで渦銀竜と戦いを始めてしまう。そうなれば渦銀竜は区別なく僕たちまで食い尽くす。ここは多少の犠牲を耐え忍んで脱出するべきなんだ……」
「ルキウム様、どうか決断してください。あなたこそが王になるべきです。人に安らぎを与える、真なるサンドラの王に……」
「ああ、兄さんは危険すぎる。僕も決心がついた。兄さんが渦銀竜を討伐するというのなら、僕はそれを利用しよう。行くぞ、毒渦の大穴に」
腐原領域の中で毒渦の大穴と呼ばれる場所こそ、渦銀竜が棲み処としている地だ。そこは毒性物質が川のように流れ、底の見えない大穴に向かって流れ落ちていく。
まるで地底へ続く滝のような場所だった。
バラギウムは星環を携え、三百もの男を従え、長年にわたってサンドラ人を苦しめてきた邪竜の討伐を試みる。それは分裂しつつある一族の整合を取らない、勝手な行動であった。しかし結果さえ出せば認められる。そうやって結果を出し、今の立場になったのだからとバラギウムは生き急いでいた。
『愚か。愚かなことよ。矮小な者が群れておるわ。叶いもせぬ希望とやらを携えてな』
「黙れ。今こそ貴様を討ち、我が一族との因縁に終止符を打ってくれる」
『クカカカカッ! 良かろう。貴様らは食事を運んでくる下人に過ぎんということを思い出させてやろう。そうだな。貴様らを食い殺した後は、他の人間どもも食い尽くしてやろう。貴様は四肢を食い千切り、生かしておいてやる。そして貴様の同胞が死にゆく様を見届けるのだ』
竜に属する魔物は知能が発達しやすい。
渦銀竜も例に漏れず、思念を発することで人間と会話することができた。
だからこそ、渦銀竜の邪悪な本性が嫌というほど伝わってくる。必ず滅ぼさなければならない悪だとバラギウムが考えた理由であった。
戦いは一瞬のうちに激化した。
まさに破壊の権化ともいうべき星環の暗黒点は、初めこそ渦銀竜を驚かせた。無敵の竜鱗すら消し去る凶悪な能力に恐れを見せた。だが種さえ分かってしまえば何も問題ない。所詮は弱い人間の魔力で操る力でしかない。渦銀竜は水銀を操る魔導によって器用に立ち回り、暗黒点を回避しつつも厭らしく攻めていく。渦銀竜の性格もあったが、この甚振るような持久戦はバラギウムを苦しませた。
仲間も幾人か殺され、怪我人が増え、バラギウムの中にも絶望が広がり始めた頃、星環が語りかける。
『我に捧げよ。魔力を捧げよ。肉体を捧げよ。さすれば力を与えん』
それ即ち、同化の提案であった。
既に星環の所有者として同化の資格を得ていたバラギウムは、一度それを試したことがある。だが結果は散々であった。確かに膨大な魔力、暗黒点を難なく制御する能力、また時空すら歪める絶大な力は手に入った。しかし同化の負荷はあまりにも大きく、充分な栄養を取って体力を付けたバラギウムですら一瞬にして力尽きてしまった。
気力でどうにかなるレベルではない。
文字通り、一瞬で勝負を決めなければ敗北は必至。しかしこのままダラダラと戦い続けても勝ち目は薄くなる一方。バラギウムの決断は早かった。
「我を捧げる。我に力を与えよ。我と一つになるのだ星環!」
時を歪め、極限まで遅くなった世界でバラギウムは突貫する。暗黒点を射出する力すら勿体ない。ただ掌に暗黒点を作り出し、自らの手でぶつけるのが最善手であった。
万物を消滅させ、吸収する暗黒点は渦銀竜の胸元を抉り取る。
たったそれだけで同化に限界が訪れ、バラギウムはその場に倒れた。
しかし倒れたのは渦銀竜も同様。どうにか再生しようとしていたが、そこをサンドラの狩人たちが追撃した。決死の思いで付けた傷に向かって次々と武器を突き立てる。反撃の水銀攻撃に晒されようと、躊躇いなく突き立てた。精神力だけで意識を保ったバラギウムは、どうにか彼を心酔する部下たちの肩を借りて立ち上がる。
「バラギウム様、どうか最後はあなたの手で」
「あ、ぁ」
もう一歩も動けない。
しかしそれでも同化の解けた星環を握りしめ、生命力から無理やり抽出した魔力によって暗黒点を作り出す。ここで渦銀竜を完全消滅させるつもりだった。
英雄たるバラギウムがとどめを刺すからこそ意味がある。
サンドラ人に新たな時代をもたらす、その象徴となる。
「これ、で――」
「すまないけど、兄さんを王にするわけにはいかない」
とどめを刺す寸前、バラギウムと彼に従う者たちは激しい爆発に巻き込まれた。激しい戦いのため誰もが消耗しており、その爆発は致命的な崩壊を生む。
バラギウムたちは渦銀竜ごと木の葉のように宙を舞い、そこも見えない深き滝、毒渦の大穴へと叩き落されてしまった。
「王になる者はただ一人。一族の分裂を防ぐためにも、兄さんたちは消えてくれ。それこそが僕の見た夢なんだ」
「ルキウムッ! 貴様ああああああああっ!」
毒の滝に落ちる寸前、バラギウムが目にしたのはルキウムと彼に従う男たち。
強烈な炎に焼かれたまま神奥域の下層へ落ちていった。