488話 神器同化
サンドラの支配者、火主ヘルダルフは苛烈な人物である。だがそれは傲慢で横柄というわけではなく、支配者として相応しい態度であるという意味だ。国家の運営方針を定め、兵士の配置を認可し、他国との取引を決め、非常に難しい問題に対して裁定を下す。その仕事をこなすため、自然と苛烈になっていったに過ぎない。
「魔族が……我に歯向かう賊めが」
彼の保有する神器・無限炉は使い手本人を強化する性質ではない。仲間に火の加護を与え、軍勢を強化することこそ本質である。
しかし、それは基本能力でしかない。
「我が神器よ。無限炉よ」
火主の神器は青き光を放ち、灯る炎は心臓のように脈動する。炎はランタンより生まれて周囲に撒き散らされ、火主ヘルダルフを覆っていく。
「我が身を捧げる。我が身に宿り、我が魔力と同化せよ」
炎が弾け飛び、世界が赤く染まる。
世界は灼熱によって覆われてしまった。見渡す限りの空、サンドラの全土が炎によって覆われ、まるでこの世が地獄に変貌してしまったかのように錯覚する。しかしサンドラの兵士たち、また民衆は誰一人としてそれに苦しむ様子はなかった。
火主の周囲には次々とランタンが現れ、宙に浮いたまま炎を灯す。
そして当の火主本人も変容する。手にしていた無限炉は同化によって消失し、彼自身の身体から炎を発し始めた。近づく者を焼き尽くすような劫火が彼を守っており、まるで彼自身が太陽になったかのようだ。
「無限炉と同化した我は不死魔族すら焼き尽くす」
そう告げる火主ヘルダルフの額には目のような紋様が浮かんでいた。
魔術も魔装も廃れた現代の人間には不可能なはずの御業。
莫大な魔力を高効率運用することで初めて実現する大魔術にも匹敵する力が具現する。膨大な炎は決してサンドラ人を焼かず、寧ろ加護を与える。そして敵には滅びを与える。
サンドラの直轄兵、そして戦力補填のため探索軍にも火の加護は与えられ、現在の最高戦力たる探索軍の長バラギスもその力を受け取っていた。
「バラギスよ」
「……はっ」
「あの魔族どもを処刑せよ」
途端にバラギスの頭上で銀色の液体が蠢き、槍となって浮遊する。その数は実に三十。そこに無限炉の火が宿り、激しく燃え上がった。
右手を掲げたバラギスは、無感情にそれを振り下ろす。
燃え盛る銀の槍は、一斉に広場に向けて放たれた。
◆◆◆
「まさに地獄絵図だ。これを見ることができただけでも価値がある」
炎に包まれながらもそう口にしたのは平凡な青年だった。いや、正確にはその皮を被っているだけであり、本質は別にある。彼は都市国家サンドラを拠点とする『黒猫』の人形であった。本体は迷宮内の旧サンドラに居を構えているため、地上には人形である彼がいる。
自動モードで動いている彼は、こうして情報収集のために動いている。
幸いにも火主からはサンドラ市民として認識されているらしく、全土を覆う炎も加護として宿るのみであった。
「あの額の紋章……第三の眼か」
『黒猫』の分身として動く彼には、その記憶がしっかりと植え込まれている。だから火主が神器と同化したことで起こった変化に心当たりがあった。
それは人々がディブロ大陸に文明を築き上げていた超古代の産物。『黒猫』が苦心して滅ぼしてきた人工的に人を覚醒に至らせる第三の眼に間違いなかった。迷宮から発見された古代遺物であるという名目の神器だが、間違いなく恒王ダンジョンコアがある目的のために生み出したものだろう。
「瞬間的とはいえ覚醒しているということは、膨大な魔力をこの世界に引き込んでいるということ。それを回収できるとすれば、弱体化したダンジョンコアの回復も早まる。ちまちまと迷宮内で生物を養殖するよりも、遥かに早く……」
しかしながらダンジョンコアの狙いを予想することができたとはいえ、『黒猫』にできることは多くない。良くも悪くも迷宮神器は人々の生活に根付いている。外敵から自分たちを守るためには神器の力に頼るしかないのだ。
もしも無理に神器を回収すれば、その民族は容易く滅びてしまうだろう。実際、サンドラ人が滅びることなく栄えているのも無限炉によって魔族を撃退できているお蔭なのだから。
「迷宮神器の存在は僕たちにとって都合が良い側面もある……が、いつまでも野放しにはしておけない。疑似覚醒を見てしまったからには余計にね」
自らの本体に、あるいはシュウへと情報を送るため、彼はこの戦いを録画し始めた。
◆◆◆
サンドラ宮殿前の広場では大爆発が起こった。
火の加護が宿った銀色の槍による攻撃が殺到したからである。だが、その攻撃を受けたハーケスたちは火傷一つ負っていなかった。火炎は激流の渦によって掻き消され、銀色の槍も逸らされたからである。
神器・瀑災渦の力で地下水を操り、炎を寄せ付けない。それによって生き延びることができていた。
「探索軍の団長、バラギス……」
どうにか磔の『灰鼠』を降ろそうとするアラージュは、苦々しく呟く。
半魔族は迷宮に引き籠っているが、それでも一部は活動的に人間の生存圏に進出している。都市国家サンドラの最高戦力と言われる男のことも、よく知っていた。
「ハーケス、ノスフェラトゥ。お前たちで抑えられるか?」
「俺は炎をどうにかする。バラギスはノスフェラトゥに任せたい」
「分かりました」
小さく相談を終わらせ、即座に行動を開始する。
アラージュと『赤兎』は『灰鼠』の解放を急ぎ、ハーケスは瀑災渦に魔力を込めて渦を強化する。そしてノスフェラトゥは赤い霧を発生させ、その一部を蝙蝠に変化させた。
サンドラ軍は弓矢を用意し、広場に向かって狙いを定める。無数に浮かぶランタンから次々と火種が放たれ、兵士たちのつがえる矢に宿る。またバラギスは先程と同じように銀色の槍を生み出し、頭上に浮かべていた。
ノスフェラトゥは自らの身体を蝙蝠に分裂変化させ、空からバラギスを攻める。バラギスは火主を守るために宮殿テラスから動かずに銀の槍で迎撃した。直線軌道で飛ぶ槍を回避するのは容易く、一匹たりとも蝙蝠を撃ち落とされることなくバラギスへと接近していく。
「なるほど。厄介だ」
そう呟きつつもバラギスが表情を崩すことはない。
彼の足元から銀色の液体が生じ、それは大量の鞭に変化する。火の加護も宿ったことで、同時に爆炎も撒き散らした。分裂して空から襲いかかる血の蝙蝠は蒸発させられ、簡単に追い払われた。ノスフェラトゥは分裂を解除して再度実体化する。
その場所は弓を構える兵士たちのすぐ側だった。
「いただき、ます」
そう告げるノスフェラトゥの周囲に一層濃い霧が生じる。もはや炎の赤なのか、霧の赤なのかもよく分からない。だから兵士たちは異変に気付くのが一歩遅れてしまった。
「あ、ああああああああっ!?」
「か、身体が!」
「助けて! 助けてください!」
サンドラ兵の身体が急に萎み始めた。
赤い霧によって体中の血液が抜き取られ、ノスフェラトゥの血肉になっていく。火主は兵士が干からびていく様子を目の当たりにして眉をひそめたが、特に対処しようとはしなかった。
ノスフェラトゥは最後まで弓兵の血を搾り取り、バラギスへの攻撃を再開しようと蝙蝠化する。その瞬間、干からびた兵士が同時に大爆発を引き起こした。蝙蝠化していたとはいえ、その大爆発に巻き込まれたノスフェラトゥもただでは済まない。
「今のは……」
視覚を持たないノスフェラトゥは、別の感覚によって悟った。サンドラ兵の死体が爆発する寸前、火の加護として宿っていた火種が大きく膨れ上がった。
またその火種は一層の火力を増しつつ、消えることがない。
爆炎の奥で炎は兵士の肉体をトレースして形作られる。
「気付いたか。だが逃がさない」
実体化してすぐに退避しようとしたノスフェラトゥの周囲に銀色が降り注ぐ。それらは彼女を囲いこみ、連結して檻となった。
普通ならば人が通り抜けられる隙間ではない。
だがノスフェラトゥが銀色の檻に触れた瞬間、溶けるようにして形が崩れてしまった。ノスフェラトゥの血に宿る阻害毒の効果である。炎のせいで霧が吹き飛ばされ、広域に対してはほぼ効果がない。しかしこうして直接触れれば別である。
そうしてノスフェラトゥが脱出した瞬間、爆炎の奥から人型の炎が体当たりしてきた。全身が炎で形作られた人型は、ノスフェラトゥのすぐ近くで自爆する。その数は合計六体。灼熱という言葉では生温いほどの熱が周囲に解き放たれ、その中にノスフェラトゥは呑み込まれた。
「これで一匹仕留めたか」
「恐れながら火主よ。まだ魔力の反応は消えていません」
「何? 火滅兵の自爆攻撃に耐えたというのか」
バラギスが忠告した通り、燃え盛る炎の内側から赤い蝙蝠が飛び出した。それらは空中で一つに集まり、ノスフェラトゥの姿に収束する。
そこに四方八方から銀色の刃が回転しつつ押し寄せ、ノスフェラトゥを追撃した。
ノスフェラトゥは目が見えないながらもそれを完璧に感知し、血の刃を作って弾き返した。
(これは……危険、ですね)
魔力をかなり使ってしまった。
元から精霊秘術《聖印》によって魔力の大部分を制限されている身だ。そのお蔭で始祖吸血種としての本能に流されることなく理性を保つことができているという面もある一方、間違いなく弱体化の呪いとしても機能している。
本来の魔力ではない今のノスフェラトゥでは、大規模な術式を扱うことができない。
募る危機感に気持ちが高ぶっていく。
本能が強くなり、吸血衝動が強くなる。もっと血を。もっと肉を。その感情と共に枷が外れようとする。
「バラギス、早く仕留めろ」
「申し訳ありません。急ぎます」
そう言いつつもバラギスとて派手には動けない。
もしも火主が狙われた場合、ノスフェラトゥから守り切れる自信がなかったからだ。それほどノスフェラトゥのことを警戒していた。常に攻撃し続け、相手に立て直しの隙を与えない。そのために決定打を欠いてでも手数で攻めているのだ。
相手の集中力が切れた時が本当の勝負。バラギスはそう考えて銀の槍をばらまく。空一面に大爆発が生じ、ノスフェラトゥは分裂と凝集を繰り返しながら回避していく。
「くそ! 思ったより攻撃が激しい。まだなのかアラージュ!」
「後少し……後少しで解ける!」
「頼むぞ。ノスフェラトゥも防戦一方だ」
ハーケスは渦を操り、燃え盛る炎を防ぐ。火の加護を与えられた矢は雨のように降り注ぎ、大爆発を引き起こす。それは地下水を操って生み出した渦の防壁を蒸発させ、小さくしていた。渦の防壁はあまり長く持たないだろう。
無限炉と同化した火主ヘルダルフは決して動かない。だが彼の生み出した大量のランタンが常に火種を生み出し、サンドラ兵に加護を与え続けている。
これこそが神器・無限炉の真の姿。真の力だ。自らは決して動かず、火の使徒を生み出して戦わせる。その軍勢は尽きることなく、敵を滅ぼすまで勢いは止まらない。
「頼むぞ瀑災渦……ああ、分かっている。魔力を差し出せばいいんだろう」
絞り出すような声で独り言を紡ぎ、瀑災渦を握る手に力を込めた。渦は一層力強く回転を始めたが、やはり根本的に水が足りない。
瀑災渦は優れた神器だが、水を生み出す力はほぼない。使用者の魔力を膨大に消耗しても、僅かな水分を集めるだけ。この神器の本質は水を操るところにあるため、操るための水は用意しておかなければならない。
今回ならば地下水。
贅沢を言うのであれば川や泉があればなお良い。地下水でも充分ではあるが、地下深くのものを引っ張り上げるとなると負荷は大きい。
「切り札はまだ使えない……頼む。もう少し持ってくれ」
再び矢が降り注ぐ。
火の加護が大爆発を引き起こし、衝撃が渦の内部にまで走る。水が少なくなってきたことで、威力の減衰が小さくなり始めた。
とはいえ、この膠着した状況を火主も良しとはしていない。
迷宮神器と同化するという切り札を切ったからには、四匹の魔族程度すぐに焼き尽くせると思っていたからだ。
「イザネの子コルネルスよ」
「はっ! 偉大なる火主よ」
火主ヘルダルフは額の第三の眼を輝かせる。その側に控える直轄兵の一人、コルネルスが胸に手を当てて跪いた。
「お前の一族は忠実なしもべであるか?」
「はい。私と私の血脈が忠実なしもべであることは、あなたがご存じです。私の血、私の肉、私の骨に至るまで火主のものでございます」
「よく言った。お前こそ誇りある一族である。故に命ず。火の選別を受け入れよ」
「はっ! この身、この命を捧げます」
コルネルスと、その背後にいた四人が火主の前に出る。彼らは同じ家に所属する親族であり、直轄軍として火主に仕えてきた者たちだ。彼らの手にしている青銅の槍、青銅の剣には火の加護が宿っており、現在進行形で燃え盛っている。
その炎が突如として彼らの腕を伝い、全身にまで広がった。
しかしコルネルスたちは熱さや痛みを訴えることなく、無言でそれを受け入れる。炎は彼らの血肉を焼き、そのシルエットを残したまま劫火となる。
「火の申し子たちよ。火滅兵よ。さぁ行け」
炎によって形作られた五つの人型がテラスを飛び出し、渦の防壁へと飛び込んでいく。
地下水の大渦により視界を遮られているハーケスたちはそれに気づかない。唯一、バラギスと激戦を繰り広げるノスフェラトゥだけ気付いていたが、ハーケスに伝える余裕も方法もなかった。
この火滅兵こそ同化状態にある無限炉の切り札だ。
高密度の炎は意思を持って動き、渦の防壁をも突き破ってしまう。
「んなぁっ!?」
これまで炎の侵入を許さなかった防壁が容易く突き破られた。その肉体を失っても燃え続ける火の化身たちは、一斉にハーケスへと襲いかかる。瞬時にハーケスは押し倒され、五体の火滅兵に押さえつけられて身動きが取れなくなる。
炎であるはずなのにすり抜けることはできず、確かな重みがあった。また熱も健在であり、ハーケスは身体が焼かれる痛みに晒される。喉が焼かれ、悲鳴を上げることすらできない。
「ハーケス!?」
「ジョリーンの枷が外れた! 早く瀑災渦と同化を――」
火滅兵が一層強く光り輝き、大きく膨らむ。
次の瞬間、広場は凄まじいまでの爆炎に包まれたのだった。