475話 火の主
サンドラ人は迷宮から出てきて三十年も経っていない民族だ。
迷宮に存在する古代の残骸が寄り集まった空間、すなわち領域と呼ばれるエリアを転々としながら千五百年を生き延びてきた民族なのである。そのルーツはもはや忘れ去られ、彼らは魔物に怯えながら迷宮を彷徨い続けてきた。
地下迷宮には様々領域が存在しており、自然の恵みが豊富な場所も少なくはない。流浪の民となりながらも生き延びることができるだけのものが迷宮にはある。また危険な魔物は総じて縄張りを作っているものであり、そこに踏み込まなければ直接的な脅威も少ない。
広い迷宮を彷徨いながら生きているのは弱者の証だ。
雑種級や低位級の弱い魔物ならばサンドラ人にも対処できたので、どうにか生きながらえることができていた。
それが変化したのは魔族が出現してからである。
魔族は巧みに言葉を操り、恐ろしき異能を駆使し、更には積極的に人間を襲った。人間を襲って奴隷にしたのだ。決して敵わない高位の魔物にも匹敵する魔族が次々と襲ってくるようになり、数万人といたサンドラ人は半数以下に減らされてしまった。
「――しかしその時、ルキウムは火の力と一つになった。このルキウムこそが初めの火主である。彼は偉大な火を灯し、戦士たちの剣は強くなったのである。その大いなる力を以てして魔族を追い払い、サンドラの民は空を見つけた。空はすなわち天であり、その高さに限りはない。ルキウムはレベリオ人を追い出し、この地を安寧とした。その偉大なる火の力を目の当たりにした民は、敬意と畏れによってルキウムを『火主』と呼び称えた。この記念の故、火の祭りを行った。火の祭りは月ごとの同じ日に行われ、今日まで続いている」
淡々とした声でそう締めくくり、男は手元の布を木の棒に巻き付けていく。その布にはびっしりと文字が連ねられていた。
彼はサンドラの宮廷に仕える司書官だ。
歴史を記録し、管理することが彼の一族に与えられた仕事である。そして稀にだが、寝物語として歴史書を読み聞かせる。その相手は当然、この宮廷の主である火主であった。
「偉大なる火主、ヘルダルフよ。あなたの繁栄が私の手によって記され、後の火主へと読み聞かされますように」
「うむ。しかしまだ眠くはないな」
「大いなる力に選ばれたお方。なんなりとお望みください」
「我はお前の考えを聞いてみたい。我らが安住の地を狙う愚かなレベリオ人を攻め滅ぼすべきか否か」
サンドラの王、火主が投げかけた問いは自業自得な部分がある。
そもそも神奥域のすぐ側であり、巨兵山と呼ばれる山の麓には原住民がいた。レベリオ人と呼ばれるその原住民たちは、迷宮より現れた何万人ものサンドラ人に驚き、攻撃を開始した。
当然のことである。
確かに数十人という規模でレベリオに移民としてやってくる者たちはいる。レベリオとしても単純労働者は幾らいても構わないので、受け入れることが多い。だが数万人という規模で一気に流入されると話が変わってくる。まず食料が足りなくなるし、住む場所や着るものも不足する。
だからレベリオ人は自分たちを守るために抵抗した。
抵抗し、敗北し、結局は南へと逃れた。
そうして元はレベリオ人の住んでいた土地をサンドラ人が手に入れたのである。
「始まりの火主たるルキウムは……我が祖父は安住の地を求めて地上を見つけた。迷宮神器・無限炉は兵士たちに火の力を分け与え、愚かなレベリオ人を追い払った」
「その通りでございます。愚かにも、レベリオ人は火を忌み嫌います。嵐神を崇め、雨と雷を是とするのです。火こそが生命の源であり、その大いなる力に選ばれた火主こそが地上の支配者に相応しいのであります。その証拠に昼は天を火が支配しており、夜は化身たる火主が地を照らすのです。我らは彼らを認めません。必ず討ち滅ぼすべきなのです」
「地下迷宮の領土も魔族の侵略が続いていると聞く。やはりレベリオは滅ぼしておくべきか。迷宮内の旧サンドラを放棄し、残るレベリオ人の地を奪うのも良いだろう」
サンドラとレベリオの対立は土地のこともあるが、思想の違いも大きい。
またレベリオは都市国家ではなく領土を有する国家であった。つまりは広域に定住する民族であり、先祖代々の土地、あるいは父祖たちの霊が眠る土地として領土を大切にしている。逆にサンドラは迷宮で移り住んできた民族だ。今も一部は神奥域内に旧サンドラであった街が残っており、迷宮探索の拠点として利用されている。しかし少しずつ地上へと移り住んでいた。先祖代々やらのこだわりは全くない。
負けたのならば新しい土地を求めて彷徨えば良い。それがサンドラ人の思想であり、レベリオ人とは相容れない部分であった。
「明日の朝、直轄軍のトマスと探索軍のバラギスを呼べ。我の勅命を与える。お前が記録するが良い」
「承知いたしました。光栄でございます」
「我は眠る。下がれ」
火主ヘルダルフは司書官を下がらせる。
決して炎が絶えることのない都市サンドラは、夜も変わらず照らされている。それは神器・無限炉の力であった。
◆◆◆
ノスフェラトゥを連れて戦闘を脱したシュウは、迷宮からは出ずにいた。湖城領域のあった場所とは反対側に向けて回廊を移動し、別の領域に辿り着いていたのである。そこは神奥域の入口からも比較的近い場所にある領域だ。
回廊の魔物もかなり細かく排除されており、人間にとって危険度の低い区域となっている。何故ならここはかつてサンドラ人が住んでいた場所だからだ。今は遷都して多くが地上に移り住んでいるが、この旧サンドラもまた重要な拠点として用いられていた。
主に神奥域探索のための拠点であり、同時に神奥域からやってくる魔物や魔族を迎撃するための拠点でもあった。
「血が欲しくなりました」
人間の住まう場所に到着した瞬間、ノスフェラトゥはそう呟く。
するとシュウはボトルを取り出し手渡す。中にはアイリスの血が入っているので、ノスフェラトゥはそれを飲み干した。戦いの直後で弱っていた彼女も血を飲むことですっかり回復する。
「魔装を使うと血が欲しくなるのか?」
「はい。少しずつ欲しくなります」
「なるほど。魔装と赫魔の能力が密接になっているのか。共鳴とでもいえばいいのか? 《聖印》で抑制してもまだ足りないか」
吸血種という種族はシュウが生み出したものではない。その知識は奪い取った『白蛇』の記憶程度でしかなく、また『白蛇』自身もよく分かっていない部分が多かったようだ。また彼女の場合は始祖という特別な個体である。
彼女の保有する血の魔装と、赫魔細胞が上手く噛み合ったのだ。偶然が生み出した完成品が彼女なのである。
「とはいえ、あの時ほどではないか」
ヴァルナヘルで戦った時のノスフェラトゥはもっと強かった。それこそ『黒猫』が一目で引き入れたいと思うほどの戦闘力であった。どの幹部にすべきかというところで『暴竜』や『死神』が候補となっていたことからも明らかである。
現時点では赫魔細胞を起因とする吸血衝動を抑え込むため、精霊秘術による封印が施されている。そのため魔力が制限され、能力もあの時ほどは引き出せない。
「まぁいい。魔装の方はきっかけさえ掴めれば」
「私は何をすればよいのでしょうか」
「身に付けて欲しいものが幾つかある。魔装、赫魔の能力、精霊秘術、それと大事なことがもう一つ」
「はい」
「この辺りの言語だな」
終焉戦争以前は主要国家の言葉なら問題なく扱えた。
しかしあれから千五百年が経過しており、地下迷宮で散り散りになった人間の生き残りたちは独自に言語を変化させていった。その結果、民族ごとに言葉が異なるといった混沌が生じた。歴史が進めば民族の滅亡や統合が行われ、言語の数も減っていくことだろう。しかし現状は幾つもの言語を操らなければまともに活動もできないほどである。
そのため、言語習得は切実なまでに高い優先度となっていた。
◆◆◆
黄金域を探索する聖教会の一団は、優秀な術師ばかりである。聖石の中でも最上位の性能となっている大聖石の所有者、オスカー・アルテミアはその中でも格段に実力の高い術師だ。聖守に代わる聖石寮のリーダー的存在として抜擢され、今は東方開拓のために部隊を率いている。
だが所詮は現代の人間。
高位級の魔物にすら苦戦し、災禍級が出現しようものなら滅亡の危機に陥ってしまう貧弱な種族でしかない。人間という種族の上澄みですら、広い世界の中では下位に属している。
オスカーは身を以て、その事実を思い知らされていた。
「……何人死にましたか?」
「八人です。それに二人が行方不明となっています。退却の途中ではぐれてしまったのかもしれません。まさかこのようなことになるとは……」
「私の判断が甘かったようです。深層への昇降機を発見したからと、浮かれていました」
黄金域は砂漠の中心にある迷宮域だ。
地表部分を見て黄金域と名付けられたが、本質的には地下迷宮との接続口である。ただあまりにも地表部分が広大であるために、深層へと繋がる場所は滅多に見つからない。そして滅多に探索できないということは、見つかっていない古代遺物が多く残っている可能性が高いということである。
この黄金域は古代の兵器工場であると考えられており、その証拠に特定の空間には定期的に術符という古代遺物が補充されている。この術符こそが黄金域で頻繁に回収されるメインの遺物であった。
魔力消費もなく、使用するだけで一度だけ術符に記録された魔術を発動できる。術符表面の模様からどのような魔術が封じられているのかもほぼ解明されており、その効力によって取引値段も変わってくる。
「いつものように術符の回収で留めておくべきでした。私の判断ミスです」
「そのようなことは……オスカー様だけでなく、私たちも強力な古代遺物の発掘を望んでいました。それを国に持ち帰ることが、対魔族戦略で重要になると考えていました。オスカー様だけの責任ではありません」
「いいえ。最終的には私の責です。ともかく、今生きている者だけでも無事に帰還できるよう努力しましょう」
「それは勿論です。しかしここから脱出できるかどうか……」
「確かに深層の番人は移動ルートがまだ分かっていません。ですが諦めるには早いと思います。幸い、ここは密閉された地下空間。音が響きやすく、番人が近くにいるかどうかすぐに分かります」
番人は危険な存在だ。
多脚を自在に操ることで狭い通路でありながら機敏に這いまわり、単眼にて知覚した侵入者に対して問答無用で光線を放つ。かつて殲滅兵と呼ばれたその兵器が放つ攻撃は炎の第十階梯《火竜息吹》。防御も回避も不可能である。そして当然ながら、当たれば即死だ。
この番人の存在が黄金域の探索を困難にさせている。
もしも発見されたならば、誰かが囮となるしか生き延びる方法はない。
「ここはおそらく安全地帯……と思いたいところですね。移動するにしても安全地帯の確認はしておきましょう。どちらにせよ、しばらくの休憩が必要です」
「はい。私もオスカー様と同じ意見です」
「見張りを交替で行います。順番は普段通りに」
「ではオスカー様は先にお休みください」
「ありがとうございます。警戒をお願いします」
聖石寮の術師たちは皆、疲れ切っている。
また番人の徘徊する黄金域に取り残され、希望を失っている者も多い。最高戦力、九聖の一人として皆を元気づける光にならなければならないと、オスカーは強く思っていた。
(星盤祖よ。偉大な力よ。どうか私に皆を助けるための力をください)
彼自身も心が弱っていた。
奴隷として売られた妹の手がかりも掴めず、自分もいつ死ぬか分からないような状況なのだ。だから心の底から信じる神へと助けを求めた。
その偉大な力のひとかけらでも分けてくださいと希った。
まるで返答するかのように彼の大聖石が点滅していたのだが、オスカー自身がそれに気づくことはなかった。
◆◆◆
地上の都市サンドラは日が昇ると同時に始まる。
暁の呼び声で民は目を覚まし、各々に課せられた仕事をするために起き上がるのだ。それは火主も変わらない。ただし、火主の仕事は君臨することである。大量の綿や布を使って贅沢に作られた質の良いクッションに身を預け、報告を聞いて指示を出す。それが火主ヘルダルフの重要な仕事の一つだった。
彼は朝の食事を済ませ、すぐに定位置へと移動する。
そして火主の権威を示す短い杖を台座の上に設置した。その杖は黄金色を放ち、先端には小さな炎が揺らぐランタンがぶら下がっている。そして火主の仕事においてもう一つ重要なのが、この迷宮神器・無限炉に魔力を注ぐことである。
「偉大なる火主、サンドラの王ヘルダルフ様。今日の灯は朝日にも劣りません。貴方様の清く力強い火によって魔族は怯え、魔物は慄き、レベリオは逃げ去るでしょう」
「うむ。お前は我の前に正しい。我が無限炉の加護がお前を守るだろう」
「何と恐れ多いお方。私はあなたの前に正しくあり続けるでしょう。さて、私はあなたの忠実なしもべです。ですから昨夜の貴方様の言葉に従い、トマス様とバラギス様をお連れしました」
「よい。我の前に姿を現すことを許そう」
朝の挨拶を終えた司書官はその場から動かない。その代わり、王の部屋を覆う天幕が揺れ動いた。何重にも重ねられた布が捲られ、その奥から二人の男が並んで現れる。
一人は鍛え上げられた肉体を有する巨漢であった。彼は染め抜かれた衣服を身に着け、腰には鋼の剣を帯び、紋章が刻み込まれた円形の盾を抱えている。彼こそがヘルダルフの信頼する直轄軍の将、トマスであった。
そしてもう一人はトマスより背が高く、しかしながら肉付きはそれほど良いわけではない。また武具は一切身に着けておらず、ただ老人でないにもかかわらず白の混じった髪が特徴であった。迷宮探索軍が団長バラギスとは彼のことである。
二人は同じ位置まで進み出て、膝を折り、深く頭を下げた。
「我が火を仰ぎ見よ」
そう告げられると、トマスとバラギスは揃って顔を上げる。
満足気なヘルダルフはまず二人を労った。
「よく来た。忠実なお前たちを我は喜ぼう。直轄軍団長トマス、そして探索軍団長バラギスよ。サンドラが繁栄するため、更なる忠義を見せよ」
「大いなる火の主人よ。このトマスに疑うべきところなど有りませぬ。私はあなたの忠実なしもべ。さぁ、どのような命令でしょうか。レベリオを滅ぼすのでしょうか。パンテオンを略奪するのでしょうか」
「うむ。まずはトマスに命じよう。兵士三百と男たちの中から五千人を選び、武器を与え、レベリオを攻め滅ぼせ。レベリオの男は必ず根絶やしにせよ。女、子供、奴隷、そして家畜は全て奪い取るのだ」
「はっ。必ず」
トマスは即座に了承した。
彼は火主に対して信仰にも似た敬意を抱いており、ヘルダルフからも大きな信頼を寄せられている。どんな命令であろうと彼は戸惑うことすらしない。火主の言葉であれば、どれほど残酷な告げであったとしても実行するのがトマスという男なのだ。
「そしてバラギス。お前は魔族を滅ぼせ。奴らはこの我を煩わせている。故に滅ぼせ。血の一滴、骨の一片すら残してはならない。火の加護と策を授ける。探索軍を率い、地下迷宮の旧サンドラにて魔族の群れを聖絶せよ」
「……はい。必ず」
「近頃は我に歯向かう鼠が倉庫を狙っているとも聞いている。常に護衛の隙を突くように現れ、警備のない場所へと逃れていく狡猾な鼠だ。我はお前たち探索軍の中に裏切者がいると考えている。よく注意しておくことだ」
「承知いたしました」
お前を疑っていると正面から言われたにもかかわらず、バラギスは淡々としている。トマスのように深く厚い忠誠心が表立って見える人物ではない。
だが、彼はその強さの故に信頼されていた。
探索軍は寄せ集めの軍団だ。
その頂点に立つバラギスとは、すなわちサンドラ最強である。当然トマスも強いが、それとは比較にならない強さが彼にはあった。
「我の期待を裏切るなよ、バラギス」
「私の力を以て示します。もし探索軍に裏切者がいるならば、この手で処刑します」
「ならばよい」
二人の将は立ち上がり、王の間を後にした。
都市国家サンドラのモデルは紀元前の王国です。
バビロン帝国とかアッシリア帝国とかイスラエル王国とか、そのへん