451話 ゲヘナの鋲
ローラン王暦百二十八年。
それはプラハ王国において『不浄大地事変』という歴史的大事件のあった年と認識されている。アルザード王国との同盟が正式化したことだけでなく、長年の不安材料であった不浄大地が完全に浄化されたからだ。これは事件とはほとんどかかわりのなかった国民たちにも広く知られているほどだ。理由はローランと共に従軍した宮廷魔術師の記した記録である。
彼は公的文書の他、機密を除いた私的文書として当時の状況を覚えている限り記した。それは公文書で排除すべき個人的かつ感情的な表現が多く含まれ、不浄大地が浄化された経緯が劇的なストーリーとして描かれている。
プラハ王国にとって最も新しい英雄譚となったのだ。
「豊穣の女神様に『ゲヘナの鋲』を授けられたローラン王陛下は奇跡の力によって不浄なる地を封じられたのです。そこは苦しみが支配する地獄。悪いことをすればたくさんの不死属がいる地獄へと落とされてしまいます。ですから生きている間はしっかりして、死後は冥界にいけるよう努めるのですよ」
「不死属ってどんな魔物ー?」
「地獄こわー」
「王様かっこいい!」
「はいはい。静かに。では不死属がどんな魔物かですが――」
街を歩けば新しい英雄譚から派生した躾けの物語を語る老人たちも少なくない。まだ初等教育機関にも入学できない幼い子供たちを集め、物語として語り掛け、悪いことをしないようにと教えている。
悪いことを繰り返せば地獄に落ちる。
普通に生きていれば死後は冥王の支配する冥界へと導かれ、再びこの世に生まれることができる。
生きている間は豊穣の女神に祈り、感謝せよ。
さすれば秩序の魔女が冥王にとりなして、真なる滅びから遠ざけてくださる。
これこそが『豊穣の祈り』の教えであった。
「いいですね? 生きていれば悪いことをしてしまうものです。ですが限度を知っておきなさい。許される程度の悪いことで地獄に落ちることはないのです。地獄には消えない炎がありますから、そこに落とされるくらいなら苦労してでも今を正しく生きましょうね」
「ずっと燃やされるの?」
「お、俺大丈夫かな? 母ちゃんが大事にしてた皿を割っちまったよ」
「お前地獄に行くんじゃねぇの?」
「え!? 俺どうすればいいんだ!?」
「落ち着きなさい。しっかり反省して謝れば許されますよ。冥王様も地獄に堕とすようなことはなさいますまい。あなたは母に謝りましたか?」
「う……隠したまま、です」
「では今すぐ帰って全て正直に話すのですよ。不安ならば私も一緒に行ってあげますから」
不浄大地は侵入してはならない危険な土地として噂程度には市井でも囁かれていた。広く詳しく知られていたわけではないが、実在するらしいということは誰もが知るところであった。それこそ『悪いことをすれば不浄大地に連れて行かれる』などという躾けの文句があったほどだ。
だがそれは英雄たるローランによって封印された。
女神セフィラから与えられた神器によって少しずつ広がっていた不浄大地を完全に浄化してみせた。アルザードより帰国したローランと随分と少なくなった宮廷魔術師たちによる凱旋の時、都の民たちは高く掲げられた黄金の槍『ゲヘナの鋲』を目にしたのである。
後に公開された宮廷魔術師の文書記録はローラン王の実際の活躍を元にした英雄譚として広まり、多くの兵士や魔術師を失った悲しみにあっても王都は盛り上がっていた。
◆◆◆
「戦後処理というものは心が痛むな」
「遺族が多いですからね」
「大変だね」
ローランはプリマヴェーラの一人と顔を突き合わせ、遺族たちに支払うべき見舞金の精査を行っていた。若く優秀な働き手たちを失った家族ばかりだ。今後の生活は苦しくなるに違いない。ローランを命懸けで守った彼らに報いるためにも、遺族たちに不自由な行いはさせられない。事態が落ち着いた今、ようやくそこに着手できるようになっていた。
ただ戦死者が多いので、必然的に見舞金は莫大となる。
一方のセフィラは呑気なもので、浮遊しながら二人の作業を眺めている。彼女はこの国の象徴である女神なので、こういった国のアレコレに干渉するべきではない。ただ真面目に作業しているときに気の抜けた声を出されるとローランまで脱力してしまう。
「しかしとんでもない物語を作られてしまったものだ」
「物語、とおっしゃいますとアレですか?」
「アレのことだ」
「信頼と考えてよろしいのでは? 冥王様より地獄の管理を委託されたのですから」
「お蔭で私の名と力は更に重くなったがな」
「王としては何一つ問題のないことかと」
ゆっくり息を吐き、ティーカップへと手を伸ばす。すっかり冷めてしまったが、わざわざ淹れ直させるのも面倒なのでそのまま口に運んだ。
「セフィラ。あの槍は私が預からなければならないものなのか?」
「うん。お父様がローランが持つように作った槍だもん。えっとね、不浄大地を封印するための武器は人間に管理させる契約なんだって」
「契約って……誰と誰のだ」
「お父様と魔王ルシフェル様」
「はぁ……私が何か言っても無駄という話か」
セフィラのことで妖精郷の力を知ったつもりだったが、実態はローランの想像を遥かに超えていた。この世には決して手を出してはならない神威があるのだと知った。ローランからすればゲヘナの鋲は人の手で再現できない文字通りの神器だ。
(今までは理解すらできていなかった、ということか)
妖精郷については考えるだけ無駄だ。
どう足掻いても太刀打ちできない戦力差がある。相手は神という超越的な存在なのだから、人間と同じ土俵で考えるのが間違いなのだ。
「アルザード王国とはどうなったの?」
「スリヤー王が目を覚ましたらしい。手紙を頂いた。異形の姿になってしまったことで寿命がかなり減ったという話だが……同盟は継続する。しばらくはこちらに恩恵もないだろうな」
「同盟を組む意味はあったの?」
「豊穣の祈りを浸透させることができる。国の復興には農業が豊かである必要があるからな」
「じゃあプラハ王国以外からも魔力が来るってこと?」
「その予定になっている。ただ聖教会とのいざこざがあってな。なかなか進まんが……」
人が文化的な生活するために最も重要なのは『食』であるとローランは考えている。それはプラハ王国が豊かな収穫を得るようになって急激に発展したという事実関係にも由来するが、単に食べなければ人は働けないという原理が根底にあるからだ。
魔族、魔物、赫魔、そして不死属と様々な脅威に晒されてきたアルザード王国は国民の多くが貧困に喘いでいる状況だ。豊かさを与える豊穣の祈りは聖教会よりも必要とされるに違いない。
「彼らに必要なのは戦力ではなく、今日食べるものだ。彼らは私たちの仲間になる。それに聖教会は君を傷つけたからね。この国からできるだけ遠ざけるつもりさ」
「ローラン……そんなことも考えていたんだ」
「君と共に作る国が最も良い。私はそう考えている」
「どんな国になるか見ているよ」
不浄大地事変後、プラハ王国とアルザード王国の同盟関係は強固なものになった。それでいて壊滅的被害を受けているアルザードは、プラハから豊富な物資の提供を受けるしかない。国民感情としても徐々に豊穣の祈りへと偏っていくだろう。
ローランにはそんな確信があった。
◆◆◆
不浄大地の消失は期間を空けてシュリット神聖王国まで轟くことになった。この国からすれば意味の薄い情報であるとはいえ、本来ならば喜ばしいことである。しかし噂の中身は苦々しい顔になっても仕方のないものだった。
「最高神官様、西の地の噂は耳に入れられましたか?」
「良い噂も。悪い噂も。どちらも聞いている」
アルザード王国では聖教会の教えが下火になりつつある。
聖石寮の術師も多くが死に至り、それでいてシュリット神聖王国は援助する余裕もない。聖守クィグィリナスが亡くなり、今は次の聖守が預言により提示されたばかりなのだ。その隙間へ浸透するように『豊穣の祈り』は広まった。
「人々は魔から守ってくれる英雄より、今日食べるものを求めている」
「残念なことです」
「まことに嘆かわしい」
最高神官は心底残念だという様子だ。
次の聖守を待ち望む期間だからこそ、心を一つにして星盤祖を求めるべきなのだ。聖石の力を信じ、術師となるべきなのだ。
だがアルザードではおよそ半数が女神へと乗り換えたのだという。
これは許されざることであった。
「武力を使いますか?」
「確かに力を示すことは重要だ。しかし私たちも余裕はない。聖守様不在の今、術師の力だけで魔族を撃退する必要がある。偽りの神に惑わされた者たちに裁きを下すのは後回しだ」
「確かに戦力の低下は危惧していたところです。術師の育成を急ぎ、早期に実戦投入することで各地の守備を補っています。しかし若者を術師にすることで各地の働き手が不足しているという状況もあります」
「……先人たちの残してきた聖石のお蔭で術師には困りませんが、新しい問題も出てきましたね」
シュリット神聖王国は慢性的に食料不足だ。高頻度で魔族に襲撃されるため、畑を台無しにされてしまうことも少なくない。結果として国民全員に充分な食料が行き渡っているとは言えず、南方から一部輸入することで賄っていた。
西部からは魔族の領域たる山水域があり、東部には蟲魔域があるため、立地の段階でシュリット神聖王国は常に戦いを強いられている。更には深淵渓谷付近より現れる赫魔が厄介さに拍車をかけていた。
「まずは六代目を育て上げることに注力しなければ」
「苦しい時代が始まりますね」
聖教会と聖石寮による防衛圏は大きく信頼を失ったと言える。特にアルザード王国からの信頼を取り戻すのは困難を極めるだろう。それを知ればルーイン王国やベリア共和国もプラハ王国に取り込まれてしまう可能性は高い。
時間はシュリット神聖王国に味方しない。
最高神官はともかく聖守の育成を急ぐよう命じるしかなかった。
◆◆◆
不浄大地での戦いの後、シュウはその処理を行っていた。
急遽用意したゲヘナの鋲によって不浄大地は無事に封印することができた。より正確には不浄大地の原因となっていた不死滅を封印することによって根本の解決に至った。
「んー……うー、あー……」
「珍しいですね。そんな風に考え事をするなんて」
「あー……ちょっとな」
シュウは目の前に幾つか仮想ディスプレイを表示しており、主に冥界についてのデータがリアルタイムで流れている。アイリスはてっきり術式の整理でもしているのかと思ったが、ディスプレイの一つを見て違うと分かった。
「地獄の運用について、ですか?」
「ローランに託したゲヘナの鋲は一つの世界を封じているに等しい。不死属が支配し、獄炎に焼かれる世界として地獄と名付けたが……ただ放置するのは勿体ないからな。何かに使えないかと考えていた」
「普通に魂を処罰する場所とかでいいんじゃないですか?」
「そんな無意味な運用するか」
現状の地獄は獄炎魔法によって界を維持し、その内部は不死滅によって構成されている状態だ。ただそこに存在するだけの無駄な世界になってしまっている。こうして隔離しなければ不死属の魔力で周囲を侵食し始めるので仕方ないのだが、こうして放置するのも勿体ない。
一応シュウにも案はある。
「魂魔術の運用に地獄を利用しようと考えている。アレは魔術の領域でありながら魂に触れる技術だ。何かの間違いで冥界にアクセスされたくない。先にダミーとして地獄を用意しておくのもアリだと思った」
「アポプリス式魔術の書き換えですか? それだとルシフェルさんに依頼しないといけませんね」
「術式の整理くらいはこっちでしてもいいんだが、最終的な書き換えは奴に頼むしかない」
「またアポプリスに行きます?」
「そうなるな……」
冥界はシュウにとって最重要拠点だ。ダンジョンコアから隠すのも必要だが、虚無という新しい敵の存在も明らかになった。防御壁は幾つあってもいい。
「その方向性でやってみるか」
仮想ディスプレイを閉じ、重い腰を上げた。
冥府:魂の浄化場所
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