446話 邪魅の化身
アルザード西部で起こった不死属侵攻は、妖精郷大陸管理局で常時監視されている。そこにプラハ王国が援軍を送るということもあったので、シュウやアイリス自身でモニターしていたのだ。
だが最大の理由は、そこに向かっているセフィラのためである。
不浄大地を封印するべく作製した武装を託したので、その仕事ぶりを見ておこうと思ったのだ。
「……そういう、つもり、だったんですけどね」
「面倒なのが出てきたな」
仮想ディスプレイに映される白い巨人は間違いなく異質な存在であった。
確かに測定データから赫蝋の業魔の破片を依り代にしているのは間違いなく、元より普通の魔物とは異なる存在であることは間違いない。しかしながらそれを加味したとしても説明のつかない事象だった。
「シュウさん、不浄大地の魔力が増大しています。そのためか不死属の発生確率が……」
「想定外だな。これは」
「イグ……なんとかって名乗っていましたけど」
「ああ」
この観測魔術は音声も拾っている。
だから白い巨人の名乗りはしっかり聞こえていた。
邪魅の化身と確かに名乗っていた。残念ながらシュウやアイリスの耳では理解し難い発音であった。そのため正しい名前なのかは分からない。
「イゴーロナクと聞こえたな」
その名。その姿。
シュウは白い巨人がただの不死属ではないことを理解していた。それはアイリスを誘惑し、この世に顕現しようとしていた全なる虚無とも関連していると考えて間違いない。
(赫蝋の業魔を討伐した時、虚数時空を開いた。その時にアザトースが出現して……加えてイゴーロナクも顕現していたのか。どう考えても同じ神話系列だからなぁ)
心当たりといえばそれしかない。
そもそも不浄大地にて出現した腐肉の化け物は魔族を元にしている。これは観測データから間違いないだろうと結論付けられていた。
(あの段階でイゴーロナクが出現して、赫蠟の業魔に乗り移っていたということか? それで飛び散った破片が不浄大地に落下し、その魔力を吸収して受肉した……ひとまずそんなところか)
虚数世界の住人、虚無たちは受肉を求めて物質の世界へ訪れるのだという。それがルシフェルの説明だったはずだ。事実、冥界門も魂の通り道であるがゆえに虚無たちに干渉されることなく虚数時空を利用することができている状態だ。
ともかく虚無が不浄大地の魔力を媒介にして受肉したのだとすれば、人間には荷が重い。向かっているセフィラですら危険だ。
「出るぞアイリス」
「分かっています。転移しますね」
アイリスとて言われずとも理解している。
阿吽の呼吸で術を整え、戦場上空に向けて空間転移を発動した。
◆◆◆
邪魅の化身は一歩進むだけで無数の不死属を生み出した。その足元からは次々と不死属が生み出されている。しかもこれまでのように雑種や低位ばかりではない。寧ろ中位級以上がほとんどである。
「陛下、この数はもはや……」
「あの首のない巨人は魔物なのだろうか」
「おそらくは。しかし腐肉を滴らせていた化け物より恐ろしい気配がします」
「私も同感だ。それに馬もこの調子では……」
ローランは振り返りつつ白い巨人の様子を眺める。
だが本当ならばそんなもの無視して逃げるべきなのだが、それは物理的に不可能となった。その理由は彼の乗る馬が完全に怯えて動けなくなったからである。白い巨人より放たれる恐ろしい気配は人をすっかり縮み上がらせる。
こうしている間にも邪魅の化身の周囲より生まれる不死属たちは数を増し、急速に進化している。初めは中位級で誕生した個体も、少しの間でさらに魔力を増大させ進化しているのだ。これはまさに災害である。
「陛下、ひとまず馬を捨てましょう」
「逃げ切れるか分からんが、このままよりはマシか」
ともかく馬は役に立たない。
そもそもローラン自身とて恐怖で身体が竦み、呼吸も苦しく、普段通りに動けるとは思えない状態だ。こうして会話し続けなければ狂ってしまいそうなほどである。正気を保っていられるのも時間の問題だろうとすら思わされた。
「まだスリヤー王だけは時間を稼いでおられる。何としてでも逃げることが私たちのすべきことだ。情けない話だな」
自分自身にそう言い聞かせ、ローランは走り出す。
今も金色の怪物となったスリヤーは爪で切り裂き、刃の翼を振り回し、不死属を蹴散らしながら時間を稼いでいる。しかしながら邪魅の化身には届いておらず、寧ろ発生し進化する不死属の群れによって押し流されているほどだ。
両腕を負傷しているためかスリヤーの動きは鈍い。
必死の抵抗も近い内に破られるだろう。
また撤退するローランたちプラハ王国軍もそう簡単に逃がしてはもらえなかった。地上に影が差し、強風が全身を撫でる。舞い上がる土埃から目を覆っている間に前方から激しい地響きが鳴り、バランスを崩して皆が倒れてしまった。
「ひぎゃっ!」
「がああああ!?」
「な、なんだこいつは。ふざけ――」
次々と悲鳴が起こり、肉が潰れるような音が耳に届いた。
宮廷魔術師の一人が風の魔術を使って土煙を晴らすと、それら異常の原因が明らかとなる。
「腐死魔竜……伝説の魔物」
偶然にも知識を持っていた魔術師が茫然とした口調でその名を告げた。王家が変遷しながらも長い歴史を有するプラハ王国は、古代に見られた強大な魔物の記録も一部残っている。不浄大地がすぐ側にあるということで、特に不死属系魔物の記録は多かった。
その中で災禍級と語り継がれるのがこの腐死魔竜である。この魔物は竜系魔物のゾンビというわけではない。腐肉や小さな骨が無数に組み合わさり、交じり合って竜の形を成しているだけだ。質量に見合わない身体能力は勿論だが、何よりも驚異的なのはその魔導だ。
「た、退避! こいつの『腐蝕』はどんな武具も溶かすぞ!」
その警告が知らされるよりも早く腐死魔竜の周囲へと流体のような魔力が放たれた。それらは大地を毒沼に変え、草木を枯らし、動物を腐らせて分解する性質がある。ただその場に留まっているだけで厄災となり得る力だ。
当然ながら王たるローランを守るべく魔術師たちが即座に術式を用意し、その時間を稼ぐために近衛兵たちが槍を持ったまま突貫する。その命を犠牲にしてでも王を守ることが近衛の役目だ。ここで戦わずしてどうするというのか。
だが残念ながら腐死魔竜の放つ腐蝕オーラに触れた途端、彼らの持つ槍は腐蝕して攻撃力を失う。また襲いかかる『腐蝕』により彼らは皮膚を溶かされ、その場で絶叫しつつ絶命した。それでも命を差し出して稼いだ時間は宮廷魔術師たちの術を完成させるに至る。
「放て! 《炎槍》だ!」
一斉に同じ魔術を用意し、それを解き放った。術者によって得意属性は異なるが、それでもバラバラの属性で魔術を放つより、多少威力は落ちても同じ属性を操る方が総合的な威力は高い。
次々と放たれる炎の槍が腐死魔竜に直撃し、燃え上がった。魔術としては低位なので災禍を打ち払うほどの威力はない。だが相当数を放てば嫌がらせにはなる。
「陛下! 今の内にこちらへ!」
「ああ。頼もう」
真なる目的は討伐ではなく囮だ。
嫌がらせの攻撃によって腐死魔竜の注目を近衛兵や魔術師に集め、その隙をついて王を逃がすのだ。
特に命令はなかった。
しかし彼らは言葉もなく連携し、ただローランを逃がすためだけにこれを成し遂げた。まさに英雄的な働きである。彼らの捨て身は間違いなく王、そしてプラハ王国を救うのだ。ローランも自分だけは討たれてはならないと理解しているため、彼らの犠牲に心を痛めつつも気丈に振舞う。
甘くなってはいけない。
同情心は彼らを侮辱する行為だ。
そのように言い聞かせ、謝罪の心を圧し潰し、戦域からの脱出だけに集中する。
「ッ! 先に謝罪します陛下!」
そんな中、不意に護衛の一人がローランを突き飛ばした。必死に走って足元すら覚束ない中の出来事なので、ローランは勢いのままに倒れ、顔に怪我を負う。しかしながらそれを気にする暇もない。
断末魔が聞こえ、何かが蒸発するような音がした。
すっかり疲れ切った体に鞭を打って起き上がると、視界に恐ろしい光景が広がる。先程まで護衛してくれていた者たちが腐蝕のオーラによって溶けていたのだ。腐死魔竜は魔術師たちが気を引いてくれているはず。それなのにこの有様となってしまった理由も同じく視界に映っていた。
「六体、だと……」
ローランが目の当たりにしたのは逃げ道を塞ぐようにして現れた六体の腐死魔竜。そして他にも骨鳥のような雑種級が無数に飛び交って包囲し、死腐肉や死骨兵が地面から湧き上がる。
邪悪を支配し、邪心を喚起する邪魅の化身によって不浄大地の呪いは急激に濃度を増し、広がっている。その影響で不死属の発生確率は劇的に高まっていたのだ。
「ここまでか」
ローランはせめてもの抵抗で槍を構え、生き残った近衛兵や魔術師たちもお互いの背をカバーしながら戦いの用意をする。
ここまできて戦意を失わないのは流石だ。
しかしそれはプラハ王国を救ったローラン王への敬意と忠誠があってこそ。彼らは藁にも縋る気持ちでこの場に立っている。九割九分九厘あり得ない奇跡を願い、自分たちの偉大な王のためにその身を捧げる。
「陛下。どうか最後まで諦めないでください」
「我々で時間を稼ぎます」
「女神様の加護がありますように!」
近衛兵たちは近づく不死属を始末し、必死の抵抗を試みる。腐死魔竜の『腐蝕』すらその身を挺して受け入れ、王の守護としての役目を果たす。
腐死魔竜の『腐蝕』が鎧ごと体を溶かす。
死骨兵に囲まれ袋叩きにされる。
武器を失い、死骨の群れに啄まれる。
接近戦にて足止めを行う近衛兵たちはあっという間に全滅し、魔術師たちも護身用の剣を抜いて迎撃を始める。彼らは護身程度にしか剣を習得していないし、剣を扱いながら魔術を発動できるほど器用でもない。こうなってしまえば反撃の芽すらない。
(すまない。だがこのままでは本当に……)
振り返ってみればアルザード兵は既に全滅寸前。頼みの綱であるスリヤー王も倒れている。黄金の怪物に変貌しているので見ればすぐに分かった。ただ、ここからでは生きているのかどうかも分からない。腐死魔竜の腐蝕オーラに触れても身体は崩壊していない。その点では驚愕すべきなのだが、今はそのようなことを気にかけている場合ではなかった。
ローランも槍を突き出し、近づく死腐肉の頭部を吹き飛ばす。だが新しい死腐肉が次から次へと迫り、突き出されたローランの槍を掴んで止める。セフィラの加護で身体能力が増しているローランは力づくで穂先を下げて死腐肉ごと叩き付け、踏み込むと同時に梃の原理で槍を手前に回転させ死腐肉を真っ二つにする。
「ぐっ……が! 陛下ァ……どうかご無事で」
「ッ! お前たち!」
背後で悲鳴が上がる。
必死の抵抗で侵攻を抑え込んでいた魔術師たちが遂に倒れたのだ。それは即ち、背後の守りが無くなったことを意味する。
「陛下危ない!」
護衛の魔術師が割り込み、死骨騎士の攻撃を身体で止める。即死ではなかったが、続く他の不死属たちが追撃したことによって彼は物言わぬ体になり果てた。
低位級が周囲を取り囲み、中位級や高位級の魔物が海辺の砂の如く蠢いている。腐死魔竜のような災禍級も増えてきた。この世の終わりのような光景であった。
一方でローランの護衛は残り五人。
魔力も尽きており、生命力を消耗して無理やり魔術を発動している状態だった。
「ォォォオオオオッ!」
腹から震えるような咆哮を上げつつ、腐死魔竜が腐蝕オーラを纏って突っ込んできた。触れるだけで身体を溶かす危険な攻撃だ。その道中で弱い不死属たちを薙ぎ倒しつつ、ローランへと迫る。包囲されているので巨体の突撃を回避できるほど余裕はなく、だからといって腐死魔竜を迎え撃つこともできない。
「やはり手立てなし、か」
死を目前にしてローランは意外にも冷静であることに気付いた。それは百四十年以上も生きてきた彼の精神性が関係しているのかもしれないが、今ここで考察しても意味はない。
彼にとって重要なことは別にあった。
「セフィラ、君ともう一度会っておきたかったよ」
終わりを悟ってもローランは決して目を閉じることはなかった。
そして彼自身にも分からないことだが、恐怖すら感じていなかった。理由はとても簡単である。離れていても、ローランはずっと繋がっていた。
プラハ王国の女神から『接続』されていた。
故に理性は死に怯えつつも、本能的な部分でより偉大な存在に安心感を覚えていたのだ。
地面が罅割れ、その隙間から無数の樹木が生じる。それらの先端は鋭く、枝葉の如く広がり、無尽に思えた不死属を次々と貫いて仕留めた。腐死魔竜の腐蝕オーラすらも抑え込み、樹木が巻き付いて魔力を喰らい尽くしてさらに成長していく。
辺り一帯は僅かな間に森へと変貌していた。
「く……ははは。まるで物語の英雄だな」
これほど容易く地形を改変してしまう能力には心当たりがある。
思わず笑ってしまうタイミングだった。
「君は変わっていないなセフィラ」
「ローランは少し老けたね」
どこか寂しそうに、だが喜びを秘めた二人。
二十年以上ぶりとなる再会に相応しい場とは言い難いが、それでも待ちに待った対面であった。