407話 望まれた子
魔族がアバ・ローウェルを占領してから月日が経過した。
あまり暦を気にしないアリエットは具体的な日数まで覚えているわけではない。ただそれを観察し続けていたシュウやアイリスは別であった。
「百六十六日ではっきりしたな。どっちつかずの勢力も消えたか」
「意外と明確な争いはなかったですよね」
「お互いに力を溜める期間だったってことだ」
魔族軍と西グリニア軍はまるで示し合わせたかのように衝突しなかった。魔族たちは西グリニアの東側や南側、西グリニア軍は西側と北側というように、それぞれで勢力を拡大した。ただ不気味だったのは、アンジェリーナが増えていく魔族について明確な対処をしていなかったことだろう。
まるで国の半分を切り捨てるようなやり方であった。
「夢回廊、かもな」
「やっぱり生きているんですかねー」
「しぶとい奴だと思って行動するべきだろ」
「ですよね」
「場合によってはアリエットの方にも夢回廊が使われているのかもな」
「シュウさんは何もしないのですか?」
「放置でも思った通りになってくれると思う」
現在、アンジェリーナは魔族の脅威を示すことで人々を纏め上げている。魔族は大きな敵であるということを聖堂から発表した上で調査報告書という名のでっちあげたストーリーも公開しており、世論の調整に注力しているようだった。その間も戦力確保や兵站確保を続けていたが、何よりも戦う意思というものを植え付けていた印象である。
魔族という新しい脅威に混乱する人々を統率するためだろう。
一方で西グリニアの街を襲撃しては魔族を増やすアリエットにその必要はない。魔族は契約の鎖によって縛られており、主人たるアリエットに逆らうことなど不可能だからである。ただ人間の数に対して魔物の数が足りておらず、魔族化されていない人間はアバ・ローウェルに集められて監禁状態にあった。それらを賄う食料は魔族が迷宮から持ってきているので、意外にも防衛戦力として使える魔族は少ない。だからこそ、西グリニアに大規模攻勢を仕掛ける余裕もなかったのだ。
「先に動くのはアンジェリーナ・トラヴァルになるかもな」
「そうですか? 魔族に動きがあるように思えますけど」
「まぁ、そこは西グリニア側が上手くやったな。情報戦の一種というべきか」
「あ、もしかして探索者を使ってちょっかいを出しているのはアリエットさんを焦らせるためですか? それなら納得なのですよ。だから拠点にしている古城を無駄に固めているんですねー」
煉獄を潜行させてしまったので、かつてのように煉獄を利用した情報収集はできない。なので地道に情報を集め、整理することで状況を常に確認していた。
西グリニアがアバ・ローウェル奪還の拠点としてシュレリア古城と呼ばれる場所を利用している。ただ古城だからというだけでは説明できないほど大量の物資を持ち込み、オリハルコンまで使って強化している。大砲も大量に設置し、かなりの武器や食料も保管されているようであった。
しかも定期的に探索者を使ってアバ・ローウェル付近を徘徊する魔族に攻撃を仕掛け、シュレリア古城まで引き付けるといったことまでしている。
明らかに釣りをしているとシュウは考えていた。
「魔族の数がまだ少ないと断定した上での動き、だな。これからどう動くか、様子を見る」
「ダンジョンコアの影響を探るんですよね」
「ああ」
シュウにとってアリエットの復讐も、西グリニアを巡る存亡も、どちらも些細なことでしかない。
「そろそろ『黒猫』の奴も引っ張り出すか」
「東の方を担当してくださっているのですよね」
「あいつの人形に潜入でもしてもらうのが楽だからな。俺たちは西側が担当だけど、協力してもらうべきか……煉獄も情報収集として使えないし」
そんな会話を交わし、二人は身を隠して監視を続けた。
◆◆◆
アリエットは魔族たちを生み出す傍らで、その選別もしていた。
魔族は契約の鎖によって縛られており、漏れることなくアリエットに忠実だ。これは本能として魂に刻み込まれていると言ってもいい。食欲、睡眠欲、性欲といった三大欲求のようなものである。だから裏切りの心配などはない。
重要なのは役に立つかどうかであった。
(まず一人はフェレクスよね。冷静だし、よく周りを見ているし、配下を操るのも上手い)
彼は地下迷宮の樹海で出会った瀕死の男だった。保有していた火を操る鳥の魔物と融合させることで傷を癒し、初めての魔族にした。魔物と融合しても人間としての精神性は崩れず、理性と知性によって活動してくれている。あれから幾度か火の鳥を融合させたが、それでも魔物の本能に負けることはなかった。
知能が高いというのはそれだけで強さだ。
また炎を自在に操り、両腕を翼とすることで空を飛ぶことからも有用性は証明されている。
(次はボアロかしら。戦闘力は信頼できる)
元はただの獣、猪だ。
しかし魔物の魂と融合したことで更なる力を得た。あまり知能は高くないが、自身の体躯を遥かに超える岩を持ち上げるほどの怪力である。また頑丈さも相まって、一騎当千を期待できる。複数の魔物の魂が融合しているため、元は野生動物といえど実力は他の魔族を遥かに超える。
(あとはバステレト。催眠能力が使えるから魔物集めに困らない。生け捕りできるのがいいところね)
三体目は二体の猫又と融合した元聖騎士である。たったの二体だが、それでも災禍級の魔物だ。元の聖騎士だった男は圧し潰され、魔物の精神性が強く出た。しかし知性の高い魔物ということもあり、言葉を話すほど理性的である。
前後にそれぞれ猫の頭部を持ち、腕も前後に四本という異形の姿ではある。魔族の中でも特に異形の特色が強いため、アリエットは今でもギョッとしてしまうほどだ。だがそれを差し引いたとしてもバステレトの催眠能力は有用である。
(あたし自身が『名』を与えて側近と思っている魔族。こいつらは大切に扱う方がいい)
アリエット自身は軍隊という組織を操った経験がない。またそれを勉強する機会もなかった。だからこれは自己流の手法でしかない。
「やっぱり信頼できる戦力で一気に叩くべき、よね。もう少し確保しておきたいところだけど」
彼女が危惧していたのはアバ・ローウェルからほど近いシュレリア古城のことだ。まるで圧力でもかけるかのように戦力を集め、防備を強化している。また古城から探索者を使って探りを入れてくるため、アリエットは常に気を使わされていた。
初めは鬱陶しい、だった。
だが次第に厄介なものという認識へと変わり、やがては早く潰さなければという焦燥に変わった。戦争における戦術や戦略に疎いアリエットでは、とにかく対処するということしか考えられない。それが弱点だと言えた。
とにかくアリエットは我慢できず、仕掛けることを決めたのだった。
◆◆◆
魔族たちに収容される人間たちは窮屈な生活をさせられていた。その行動はほぼ制限され、食料などの必要物資も魔族たちが調達する物を支給されている状態だ。働かずとも生活が保障されているといえば聞こえがいいかもしれないが、自由を奪された生活はストレスとなっていた。
しかし元から権力者だった人間は、意外にも魔族化に対して好意的であった。それは支配階級であった彼らが再び支配する立場に返り咲きたいと願ったからである。金持ちや有力者たちは魔族へとすり寄り、できるだけ早く魔族化の儀式を施してもらえるようにと手を尽くしていた。
「え、ええ、はい。不穏分子はこの私が始末を付けまして」
へコヘコ腰を折り、異形の者にへりくだる男はかつてローウェル家とも懇意にしていた有力者である。ローウェル一族を除くほぼ全ての人間を見下し、駒のように扱っていた彼ですらこの有様だ。
魔族には魔術も魔装も通用しない。
通用したとしても即座に再生される。
聖騎士も探索者も誰も敵わない強大な魔族を相手に、ただの権力者ができることは少ない。こうして手となり足となり、自分自身も魔族としてもらうことで支配者へと回帰することを夢見た。だからレジスタンスとして隠れ潜んでいた聖騎士たちを騙し、魔族に引き渡したのだ。
「で、ですから私にも魔物の力をください。えへへ」
情けないという他ない。
しかしある意味、仕方ないことなのかもしれない。彼らは弱い。力も弱ければ心も弱い。何より、体の弱い人間である。魔族という上位種への進化は魅力的だった。
多少醜くなってしまうという欠点を除けば、不老不死に近い存在へ至れるということも理由として挙げられることだろう。
山羊の頭を持ち、蝙蝠の翼を生やしたその魔族は頷いた。
「そうか。よくやった。確かに褒美は必要かもしれんな」
「え、えへへ」
「貴様は我が傀儡の贄に使っても良い」
「は? え?」
山羊頭の目が妖しく光る。
すると男は突如として吐き気を覚えた。決して粗相してはならないと胸を抑えつつ堪えるが、我慢できずに胃の内容物を吐き出してしまう。
しまった殺される、という恐怖が男の内心を塗り潰した。だがその恐怖も、自身が吐きだしてしまったものを目の当たりにして吹き飛ぶ。彼の吐瀉物は黒に近い鼠色の泥であったからだ。また彼の皮膚にも黒っぽい斑点が増え始め、激痛が走る。
「ひ、ぎ……ガァ……!?」
男は苗床であった。
腐蝕していく身体は死ぬこともできず、皮膚の下で何かが這いずり回っているような感覚さえする。
(嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!)
彼は自分の未来を想像して絶望した。
だがどれだけ嘆いても喚いても、現実は変わらない。皮膚を突き破って甲虫のようなものが現れる。それらはまだ生きている男の残った肉を貪り始めた。
バタバタと暴れて声にならない悲鳴を上げ、男はすぐに動かなくなった。
権力者だった彼も、今は魔族の餌でしかなかった。
無惨な残骸を残して甲虫は山羊頭の口の中へと入っていく。山羊頭の魔族は眷属となる甲虫を幾つも従えており、このように体内で飼っているのだ。
「終わりました、でしょうか」
静かになった後、幾人もの女性が姿を現す。その内の一人が声をかけたことで山羊頭は振り返り、抑揚に頷く。すると女性たちは皆、安堵したような、疲れたような表情を浮かべる。彼女たちは誰もが痩せ細り、顔色も悪かった。また他の共通点として、腹が膨れていたり、肌の至る所に傷があったりと痛ましい。
彼女たちは元妊婦であった。
先の権力者によって手籠めにされ、また捨てられた女性たちである。しかし本来、魔神教は身勝手に女性を弄ぶ行為を禁じている。そのためこうした行為は権力者であっても慎重に慎重を重ねるものなのだが、男は少し雑であった。彼は好みの女を見つければ、伴侶となる男がいたとしても金や権力を使って奪い取った。というより、この男は妊婦に欲情する変態的嗜好の持ち主だった。
そんなことをすれば当然ながら粗が出てしまう。聖堂にでも訴えられたら男は終わりだった。
だからこの男は悪魔的な思考に至る。
金や権力を使って荒くれ者たちを雇い、女たちを襲わせようとしたのだ。更にはそれを実行し、女たちは理不尽に辱められた。暴行を受け、権力者の男から受けた傷を上書きされてしまう。
女たちにとって何よりも屈辱的で悔しいのは、そんな彼女たちをケアしたのもあくどい権力者の手の者だったということだろう。これが酷いマッチポンプであることを、彼女たちは後に知ることとなった。
結局、彼女たちを弄んだ権力者は暴行を受けた女たちに手を差し伸べ救済した善人であるという実績と評価を得た。男の犯した本当の罪は覆い隠されてしまったのだ。
「私たちの復讐は果たされました」
「この魂であろうと引き渡します。約束通り、渡します」
「どうせ長くないこの身です!」
「私もです。どのようにでも使ってください」
女たちは山羊頭に向けて次々と言い放つ。
碌な医療すらない時代だ。妊娠状態で暴行を受け、精神的にも身体的にも不充分なケアで済まされた彼女たちはもう長くない。復讐心で保っていた気力も尽きた。
後はその魂が抜け落ちる前に捧げるだけ。
山羊頭の魔族は女たちとは全く別の方向に目を向け、膝を折る。そこには隠れて様子を見守っていたアリエットの姿があった。彼女は氷のように冷たい視線で愚かな男の残骸を見下ろし、すぐに女たちの方へと向く。
「契約よ。分かっていると思うけど、あなたたちは人でなくなる。魔族という種の礎となる」
「はい。覚悟の上です」
元より女たちの復讐は山羊頭の魔族ではなく、アリエットが導いたものだ。嘆願してきた女たちの話を聞いて、その覚悟を受け取ったのはやはり同じ女だからということもあっただろう。何より、あのような下種を配下にするのはアリエット自身が嫌だった。
だから権力に溺れたあの男は餌となり、強い心で復讐を願った女はアリエットの目に適った。同じく復讐を志す者として、女たちの強い意志は理解できるものだったのだ。
だからアリエットは指輪型の異空間倉庫から青白い塊を取り出す。それは以前、アリエットが地下迷宮で発見した召喚石であった。それが都合四つ。古代においては兵器として利用されたソレを、アリエットが起動させる。
封入された召喚の第三階梯《魔獣召喚》、および第九階梯《高位魔獣召喚》によってランダムに魔物のような何かが召喚される。
最も貧弱な悪魔、小悪魔。
浮遊する目玉の悪魔、邪視眼。
花粉を散らす植物の魔物、幻妖花。
そして残酷な妖精、凶兆鬼精。
アリエットはこれらを契約の鎖で捕え、更には女たちの首にも巻き付ける。
「願いなさい。その願いくらいは、魔族としての姿形に現れる」
そう告げると、女たちはまるで祈るようにして目を閉じる。アリエットは迷宮魔力を流し込み、女たちと四体の魔物を巻き込んで巨大な繭を作り出した。
繭の内側では全てを溶かし、魔力を融合させ、魂を混ぜ合わせ、一つにしている。
女たちの骨肉が体を為し、魔物たちと彼女たちの魔力が凝縮して魔石となった。その魔石の内側へと魂は格納され、一つの魂として機能するように迷宮魔力が作用する。
人間の肉体を器として、魔石化させた魔力の内側へと複数の魂を封入する。
これが魔族の秘密である。
魂の器としての魔石、そして魔石の器としての肉体。この二つがあるからこそ、魔族は不死身に近い力を持っているのだ。魔石こそが本体であるため、それを収める血肉を傷つけられようと死にはしない。魔石が破壊されない限り、魂は遊離しない。
そして魔石の中で交じり合った魂は、精神は、望む肉体の形を作り出す。
「ギャア! ギャアアアア!」
せめて産まれてほしかった。
そんな女たちの一つの強い意志が形となる。召喚された魔物モドキの精神など押し潰し、母親の心がその肉の形となる。
迷宮魔力の繭が弾け、その内部より羽の生えた赤子が背を丸めて現れる。またその赤子は周囲に霧散した魔力の残滓を急激に取り込み、およそ三歳程度にまで成長した。
「ア、ア……ま、ま?」
赤子は目を開く。
人間の持つ二つの目の他、額にも縦向きに第三の眼が開いた。両足は退化して蔦や花に包まれ、重力など無視して浮いている。
アリエットはその子に手を差し伸べ、抱きかかえた。
「名前をあげないとね……そう、アールフォロ。古いロカの言葉で望まれた子。これにしましょうか」
願いから生まれたその魔族に相応しい名前だ。
ただアリエットはこの赤子のような魔族ですら、新しい戦力として利用するつもりであった。この赤子は見た目通りではないのだから。