400話 魔族
その男、レクスは咎人であった。
頬に黒く刻まれた荊の模様がそれを証明している。咎人にされた理由は本当に些細なことだった。彼はアバ・ローウェルから何日か西に向かった街の出身である。そこで布を扱う商店を営み、将来を約束した女性と共に切り盛りしていた。既に両親から店を受け継ぎ、その店は彼のものと言っても過言ではなかった。
(く、そ……)
走馬灯のように自身の情報が過る。
彼は今、高位豚鬼という魔物に追われていた。終焉戦争以前であれば絶滅すら確認されていた希少な魔物である。しかし迷宮という領域が地下に広がり、そこが温床となって新しい豚鬼たちが誕生したのだ。この高位豚鬼もその系譜である。
ただそんな事情などレクスには関係ない。
今は生きるか死ぬかの瀬戸際なのだから。
(隙間……あそこなら!)
息も絶え絶えなまま走り続け、彼は地下迷宮の通路にある亀裂のようなものを発見する。高位豚鬼は巨体で、腕の太さですら丸太ほどもある。レクスがギリギリ潜り込めそうな隙間ならばもう追ってこれないはず。
そう考えて肌が傷つくのも躊躇わず飛び込み、尖った礫片が突き刺さる痛みすら放置して奥へ奥へと進んだ。高位豚鬼もレクスを捕まえようと勢いよく右手を突っ込むが、その指先がレクスの腕を叩くだけで終わる。
しかしレクスからすればその衝撃すらも凄まじく、指先が叩きつけられただけで彼の左腕が折れてしまった。しかも運悪く尖った岩に突き刺さってしまい、半分ほど千切れかけてしまった。
「ギッ……ぉ、ああああああああ!」
今は痛みすらも麻痺させる恐怖がある。
それが彼を突き動かし、前へ前へと足を動かした。しかし通路の亀裂は迷宮通路のように明るくはない。真っ暗な場所を進み続けた結果、足元が疎かになる。そして砂利のようなもので足を滑らせ、そのまま転がり落ちてしまった。
悲鳴を上げる暇すらない。
滑り落ちる間に半分千切れていた左腕は完全に千切れてどこかへ行ってしまい、レクス本人も水の中へと落ちてしまった。そして彼は水流に流されていく。
(く、そ……)
そのまま肺の中から空気が抜け、彼は意識を失った。
◆◆◆
朝、目を覚ましたアリエットは遺跡近くの泉で身を清めていた。迷宮内は不思議なことに、朝や夜が存在する。それはダンジョンコアが迷宮魔法によって管理しているからに他ならない。かつて終焉戦争を発端とする氷河期から逃れ、迷宮を住処と決めた古代人はお蔭で人としての生活を捨てることなく現代まで生き残った。
それはともかく、この地上とリンクした昼夜のお蔭でアリエットも普段通りの生活サイクルを維持できていた。
だからそれは運命にも思えた。
「これは……」
まず初めに泉に漂う血に気付いた。
その異常からすぐに気配を探ると、今にも消えてしまいそうな魔力反応を発見する。それは泉の底であった。どうやって紛れ込んできたのか、考える暇はない。アリエットはすぐに契約の鎖を操り、その何かを引きずり出す。
それは左腕の千切れた男であった。
すっかり蒼白な肌からは生気が感じられず、鼓動も弱々しい。すぐにでも死んでしまうだろうと思われた男だが、アリエットに放置するという選択肢はなかった。その理由は彼の頬に刻み込まれた罪印である。フェイと同じく咎人として定められてしまった証だ。
(使い捨てにされたってことかしら)
別にアリエットは治癒の力を持っているわけではない。
だから本来ならば彼は見捨てる他なかった。しかしアリエットには、治癒以外の方法によって彼を癒す手段を持ち得ていた。
見捨てるには心苦しい。
なぜなら助ける手段を持っているから。
そこでアリエットは彼を丘に上げ、下着を付けてから宵闇の魔剣を手にとる。軽く抜いて闇の魔術を発動させると、頬に張り付いていた罪印が剥がれた。罪印は呪いの一種なので、闇の魔術により対抗することができる。
そして次に契約の鎖を発動して男の千切れた左腕の残った部分へと巻き付ける。するとアリエットから青白く輝く何かが鎖を伝って男へと流れ込み、彼は炎に包まれた。
「生き返るといいんだけど……」
アリエットの行為は治療とはまた異なる。
しばらく鎖を介して魔力が送られ続けると炎は大きくなり、やがて男の全身に回る。しかし炎は男を燃やし尽くすことがない。送り込まれる魔力の塊を吸収して炎は脈動し、やがて男へと吸い込まれる。続けてアリエットが魔力を送り込むと、契約の鎖から悍ましい色合いの魔力が溢れ出て、男を包み込んだ。やがて普通とは異なる魔力は心臓のように脈打ち、弾け飛ぶ。
すると男の身体からは傷の一つもなくなり、失われていた左腕すら元に戻っていた。
「とりあえず、連れて帰ろうかしら」
ただで治したわけではない。
戦力になるだろうと思ってのことである。彼本人がどう思っているかは関係ない。契約は、既に結ばれているのだから。
◆◆◆
アリエットが古代遺跡の摩天楼へと戻ると、丁度フェイも起きてきた。当然だがアリエットの抱えている男を見て驚きを露にする。アリエットは質問が飛んでくる前にその疑問へと答えた。
「水浴びしている泉に沈んでいたのよ。どこかの迷宮通路で地下水流にでも流されたんじゃないかしら。今は消したけど、罪印もあったわ」
「じゃあ、この人は」
「あたしたちを探すために使い捨てにされたってことよ。多分ね」
もしかするとただの迷宮探索で利用されたのかもしれない。しかしアリエットとフェイが潜伏している地下空洞は、まだ戦士の塒すらも見つけていない迷宮の奥深くだ。だから咎人とはいえ、ここに辿り着いた時点でアリエットたちを捜索している者たちだと考えるべきだ。
そう思うと少し可哀そうにも思えてくる。
フェイは自分たちのせいでこの男が酷い目に遭ったのではないかと考えた。ただアリエットははっきりと否定する。
「仮にも罪印を刻まれた男よ。あんたみたいに言いがかりみたいな罪状かもしれないけど、それでも法を犯したことに間違いないわ。だから契約の鎖で縛ってある。死にかけだったし、文句は言わせないわ」
「この人をどうするつもりなんですか?」
「戦力に充てるつもりよ。仮にも魔物と融合したわけだし、使えると思う。少し前に捕まえた燃える鳥の魔物を与えたわ。再生能力が強かったから回復すると思ったのだけど……想像以上ね」
アリエットは男を床に寝かせ、心の内で命じる。
(起きなさい)
すると眠っていた男は目を開き、起き上がった。
そして自分の身体を確認して不思議そうな表情を浮かべる。
「僕はいったい……それにこの記憶は、なんだ」
「あんたは死にかけていたの。だから魔物の魂を使って体を作り替えた」
やり方は本能で覚えていた。
かつて死にかけたアリエットが暴食タマハミと融合したのと同じである。魂を取り込み、体を作り替える感覚は染みついていた。それと同じことを他者にも施せると確信もしていた。
契約の鎖により縛り、奪取した魔物の魂を与える。契約の鎖を介することで簡単に実行できるその行為は、普通ならば危険だ。一つの身体に二つ以上の魂が入り込むのはよくないからだ。だからアリエットは自分の身に潜む異質な力を利用した。
この悍ましい色をした謎の魔力はアリエットも正体を知らない。
しかし使えるからと、存分に利用していた。
「あたしも詳細な仕組みは分かってないんだけどね。あんた、記憶は確か?」
「僕は……はい、レクスと言います。いえ、レクスという名前でした。僕の中には炎を携えた鳥の記憶があります。僕じゃないはずなのに、僕だとはっきりわかる。違和感がない、という感じです」
「そう。なら上手くいったみたいね」
「僕にはわかります。あなたが僕を助けてくれた、仕えるべき人なんですよね」
なるほど、と頷く。
アリエットは複数の魔物を契約の鎖で縛り、その身に取り込んでいる。しかしながら記憶が混在し、自己が破綻するようなことはない。その理由はアリエットが取り込んだ暴食タマハミにある。
暴食タマハミは喰らった生命体の魂を取り込み、ストックする性質があった。その性質により取り込んだ魂を隔離し、記憶の混在が防げたのである。そうでなければ今頃、アリエットの人格は完全に破壊されていたことだろう。
ただそんな詳しいことまではアリエットも知らない。
彼女にとって重要なのは、利益になっているという一点に尽きる。
(感覚は掴めた。次はもっと意識的にできると思う。それにもっとたくさん魔物の魂を注入したら、もっと強くなる)
地下迷宮で捕獲した魔物の魂はまだまだ残っている。
同じように魔物と人を融合させた新しい種族、いわば魔人を作れるということだ。それらは契約の鎖によりアリエットに対して忠実となる。
(使えるわね。私の兵士として)
今は迷宮に身を潜めているが、彼女の目的は変わっていない。
そして地下迷宮という場所は兵力を溜め込むのに丁度いい場所だ。今の状況、意外と悪くないのではないかと思い始めていた。
◆◆◆
追放者の国を発見し、その街を破壊し、天誅を下したことでアンジェリーナの評価はこの上ないものとなった。西グリニアの中でもそうだし、ローウェル一族の中でも注目される存在となった。何より、トラヴァル家の中では次期当主としてほぼ確定するに至った。
アンジェリーナの派遣した軍隊が帰還した三日後、トラヴァル家当主ジルバーンは彼女を呼び出す。
「アンジェリーナ、参上いたしましたわ」
「よく来たな。それとよくぞ成果を挙げた」
「私もトラヴァル家次期当主を目指す者ですから当然です。それに国のことを思えば、いずれやらなければならないことでした」
「お主のことは法王聖下も評価してくださっている。私も法王聖下直下の枢機卿に推薦されたぞ! 全く、よくできた孫娘というものよ」
「光栄でございます」
ジルバーンは実に機嫌が良さそうだ。
枢機卿とは法王の側近であり、同時に国家運営の要となる者たちだ。彼らは法王の生家からコネで選ばれることが多く、分家といえど他から選ばれることは滅多にない。ましてローウェル一族以外から選ばれたことはほぼない。歴史を遡っても西グリニア建国初期くらいなものだろう。
現在はローウェル分家の一つ、アスラ家の者が法王となっている。自然と枢機卿もアスラ家出身の者ばかりとなっており、そこに入り込めるのだからジルバーンも笑いが止まらない。枢機卿になれば権力は明らかに増えるだろう。武を司るという性質上、これからシュリット神聖王国との戦いを控える西グリニアを掌握する足掛かりとなるに違いないと考えていた。
「私にはもう必要のない力だ。お主に託そう」
そう告げると、足元の影からぬっと何かが姿を見せる。
トラヴァル家が代々継承する魔装、餓楼であった。血族に寄生するという珍しい形態の魔装であり、一応は眷属型に分類されるものの、謎も多い。その詳細は当主となった者だけが閲覧を許される書庫にあるとされている。
つまりアンジェリーナも知る権利を得るということだ。
「継承とはどのように?」
「何も難しくはない。ほれ」
ジルバーンの影が変形してアンジェリーナのものと繋がり、波打つ。するとすぐにお互いの影は元の形へと戻った。同時にアンジェリーナは自身の内側に入ってきた異質なモノを感じ取る。
「これが――」
「ククク。それこそが餓楼。トラヴァル家の秘よ」
「分かる。分かるわ……その使い方までも馴染んできますわ」
手に入れたばかりにもかかわらず、アンジェリーナは影から餓楼を出して見せた。そして自在に操り、いうことを聞かせる。
そもそも魔装とは魂に刻まれた術式であり、本来ならば個人の魂の一部だ。だからこそ、魔装が継承されるということの異常さがよく分かる。歴代当主が餓楼を操ってきたその記憶が封入されており、アンジェリーナは継承と同時に記憶までも手に入れた。
だから餓楼の使い方はすぐに理解し、使いこなしてみせたのだ。今の彼女はまるで手足のように餓楼を操ることができるだろう。
「イゼベルもグリュンも後れを取り返そうと可愛らしい努力をしておったがな。アンジェリーナの成果に届くことはあるまい」
「ふふ。当然ですわ」
「明日の夜、一族を集めてお主の当主継承を発表しよう。しばらくは忙しくなるだろうな。他の分家への挨拶はそれ以降となるだろうよ」
「準備いたします」
「カカカカ。久しい女性当主じゃ。華やかよの」
これから続くであろうトラヴァル家の栄華を思い浮かべ、ジルバーンは高笑いした。
◆◆◆
アリエットは人間と魔物を融合させる手法を練習するため、動物を捕まえて実験していた。食料とするために捕獲した野生の豚が余ったので、魔物との融合を試みていたのである。
今回は多少無茶をしても許される。
(複数の魔物を入れたらどうなるのか……試してみないとね)
魔物と人間の融合体はかなりの力を持っている。しかしあくまでも魔物ベースであり、その力には限界があるのだ。だからそれを数で補うことができないかと考えたのである。元から一つの身体に二つの魂が入り込むなど無茶に等しい。まして三つや四つも放り込めば弾け飛んでしまう。
しかしアリエットはそれを可能とする。
その身体に宿す迷宮魔力により魂を収める空間を生み出し、じっくりと融合させるのだ。その結果として異なる魂は交じり合い、記憶の混濁すら起こった。
「アリエットさん、それは食べないんですか?」
「すでに一匹捕まえているし、それはフェレクスが捌いてくれているわ。あたしは実験よ」
「実験、ですか」
フェイは鎖で雁字搦めにされた豚を眺める。
これから何をするのか全く説明がないので分からないが、それでもアリエットが言うならば必要なのだろうと納得した。静かに見つめるフェイのすぐ隣で、アリエットは力を使う。自身の内側に保管されている豚鬼系魔物の魂を次々と送り込んだ。
豚鬼系魔物はとにかく食欲旺盛で、この摩天楼の並ぶ樹海エリアでもかなりの数がいた。アリエットは発見した豚鬼集落に対して闇の孔を放ち、それによって魂を丸ごと喰らったのである。闇の孔は空間の狭間に放逐することもできるが、意識して放てばその魂を喰らって内に留めることもできる。かつて猛威を振るった暴食タマハミと同じ能力であった。
「ロカ族の伝承でね、聞いたことがあるの。魔物ってその身体を魔力で形作っているだけだから、実体を持っていないって。身体も魔力で生み出しているらしいのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。だから魔物の力の根源……魂に実体となる器を与える。そして魂そのものを収めるために、新しい臓器を生成するの。新しい臓器というか、心臓を作り替えた魔力の石みたいなものだけどね。それで完成するのが……」
そこで言葉を止め、契約の鎖を介して魂を送り込んだ。その数は三つ、四つと増やされ、まだ止まらない。こうして魂を注入しながら限界を見定めていた。
(まだいけるわね。意外と余裕があるのかしら?)
豚は激しく痙攣しているものの、生命維持には問題がない。
アリエットは豚鬼系魔物の魂を二十以上注いだあたりから数えるのを止めて、すぐに注入も止めた。魂を注ぎ込むと同時に悍ましい色合いの魔力が豚を包み込んでおり、それが脈動して卵のようになる。それは軽く収縮した後、弾け飛んだ。
内側からはのっそりと巨体が起き上がる。
元はただの豚だったが、それは豚鬼のように二足で立っていた。大量の豚鬼系魔物を注入した結果、かなり豚鬼に近くなったらしい。ただ魔物と異なり、肉の身体を持つ魔の種族だ。
「オオオオオオオッ!」
咆哮する豚の巨漢は生まれたことを喜んでいるようにも思えた。だが次の瞬間、腰を落としてアリエットに跪く。
まるで王に仕える騎士のような姿であった。
ただ元は豚だけあって会話する知能はないらしく、唸り声を発するばかり。
(でも、成功ね)
アリエットにとって重要なのは、複数の魂を融合させた魔族の作製である。
その点で、実験は大成功といえた。
やっと魔族を出せた・・・
 





