171話 渦の禍①
「こ、こいつだ! 私たちはこいつにやられた!」
聖騎士の一人が叫んだ。
シンクがオルグレイアに目を向けると額から汗を流し、焦っているのが見えた。
「オルグレイアさん、こいつを知っているんですか?」
「あ、ああ。まさかと思ったがやはり……こいつは破滅級の魔物だ。確か禍渦鱗という種だったと思う」
「破滅級!? どうしてこんなところに!」
破滅級といえばSランク聖騎士が出撃する案件である。到底、一般人が手を出すべき相手ではない。そもそも遭遇すれば逃げることすら難しい。
思わずシンクも腰が引けた。
しかしすぐに考え直す。
(覚悟を決めたじゃないか……それに師匠に比べたら)
剣の師匠である剣聖と比べれば威圧感も大したことがないように感じられる。
すっかり威圧された聖騎士たちは動きを止めており、元から戦力外のセルアも固まって震えている。一方でアイリスは平然としていた。
(アイリスさんって何者だよ……あの魔術といい、この度胸といい)
ともかく今は目の前の敵に集中しなければならない。
禍渦鱗は考え事をしながら勝てる相手ではないのだ。幸いにもアイリスの魔術で他の魚人系魔物はほぼ全滅しており、生き残っている個体も負傷してしばらくは動かない。
シンクは前に飛び出した。
「俺が出ます」
正眼の構えを維持して静かに立ち、すり足という技法によって少しずつ禍渦鱗との間合いを詰める。
(切れば敵は死ぬ。それが師匠の教えだ。だから気を読んで、間合いに入る)
剣の奥義にして真理。
それは切れば殺せるという単純なものだ。呼吸や行動の継ぎ目を見抜き、決して回避できない瞬間に間合いを詰めて剣を振り下ろす。それだけで敵は死ぬ。その基本動作を極めることが剣聖の教えであった。
シンクはその奥義をただ鍛え続けてきた。
そして鍛練の相手は格上である剣聖。
強者との戦いには慣れている。
(首を切るには触手が邪魔、それに背中の触手も厄介だ。心臓を刺すか? だが人間と同じ位置とは限らないし、そもそも心臓を持たない魔物もいる。だったら――)
刹那の時。
シンクは禍渦鱗がアイリスへと目を向けたことに気付いた。その一瞬もあれば充分である。瞬時に気配を薄め、特別な歩法を以て背後へと回り込む。
禍渦鱗からはシンクが瞬間移動したかのように感じられたことだろう。
気づいたときには刃が振り下ろされていたのだから。
「はあああっ!」
そしてシンクは振り下ろしに合わせて魔装を発動する。刃の形状を変化させ、重く幅の広い大剣にしたのだ。これによって最速の一撃に重さが加わり、禍渦鱗を一刀両断できるだけの威力が確保される。
だが刃がその頭部を破壊する直前、禍渦鱗の体表で渦が生じた。その渦は刃の軌道を逸らしてしまい、また体表が刃を滑らせてしまう。シンクはそのまま大剣を地面にたたきつけることになってしまった。
「しまった!」
慌てて刃を戻そうとするがもう遅い。背中の触手に叩きつけられ、シンクは塔の内壁にぶつかってめり込む。内臓を傷つけたのか、口から血を吐きだした。
「う、うあああああああ!」
聖騎士の一人が腰の銃を抜き、禍渦鱗に向かって連射する。しかしやはり弾丸は禍渦鱗の体表で渦に絡めとられ、地面に転がるだけとなった。
「ガアアアアアアアアアア。ギャアアア!」
渦を操る。
それが禍渦鱗の魔導だ。空気や水といった流体は渦の媒体となり、渦はあらゆる攻撃から守ってくれる。空気が渦巻けば電撃すら弾き、水が渦巻けば攻撃となる。
禍渦鱗は吼えると同時に魔術を発動し、水を召喚した。大量の水は魔導によってすぐに渦となり、人間たちを一掃するべく塔全体を巻き込む。
アイリスは即座に魔力障壁を結界タイプで展開し、渦から身を守った。更に陽魔術で結界を重ね掛けし、強度を引き上げる。これによって自身とセルアを守った。
一方で聖騎士たちは一瞬に渦に飲まれてしまい、必死に四肢を動かして抜け出そうとしている。しかし渦の力には抗えず、また焦っているせいか魔装も上手く扱えていない。
「皆様が! アイリスさん、どうにかならないのですか?」
「うーん。そうですねー」
この状況にはアイリスも困った。
その気になれば過去に禁呪級魔術《雷威槍》を送って禍渦鱗を爆散させることもできる。しかしそうなるとアイリスはただ者ではないということになり、その経緯から魔女であると気付かれる可能性もあるのだ。
シュウのように『別にばれてもいいや。ばれたら皆殺しな』の理論がないので、ここで悩んでしまう。
しかし彼女の悩みは不要なものとなった。
突如として渦が断ち切られたのだ。
それをなしたのは勿論、シンクである。
「アアァッ?」
「はぁっ……ごほ……渦の隙間を見極めれば、切れる」
「ギョギャアアギャ」
禍渦鱗は『ふざけんな』とでも言いたげである。何をどうすれば渦巻く流体を断ち切れるというのだろうか。
尤も、それが剣聖の弟子たる所以だが。
シンクはやはり静かに構え、ジッと見つめる。観察し、洞察し、推察し、一瞬を逃さない。僅かともいえる時間でも禍渦鱗が意識を逸らせば、その瞬間にシンクは踏み込む。
倒れていた聖騎士たちが立ち上がる音に反応し、禍渦鱗は気を逸らしてしまった。
シンクは既に死角へと移動しており、禍渦鱗が気付いた時には右腕が切り落とされていた。
「ギョアアアッ!?」
そして禍渦鱗の上げる悲鳴すら隙なのだ。
再び死角を突き、また鱗の隙間を見極めて魔装の刃を滑り込ませる。禍渦鱗は身をよじらせて暴れるも、シンクは既に身を引いていた。
セルアも思わず呟く。
「やりました!」
「いい剣技ですねー」
「あれで倒せるでしょうか?」
「多分、再生されると思うのですよ」
「回復するのですか!?」
アイリスの言った通り、禍渦鱗はすぐに傷を再生させた。高位の魔物は豊富な魔力を蓄えているため、肉体の損傷を魔力で修復してしまう。腕を落とされた傷は流石に時間がかかるものの、刺し傷程度ならすぐに塞がるのだ。
そして禍渦鱗は再び渦を生み出し、複雑な気流を生じさせた。
やはり破滅級の魔物。そう簡単にはいかない。
渦を纏った禍渦鱗は、厄介な敵と定めたシンクに突進する。
「っ!」
「ギィィェエエエ!」
分かりやすい絶叫があるので、攻撃に気付くのは簡単だ。だが複雑な渦によって攻撃範囲が広くなっている上に、禍渦鱗は速い。特に渦を纏った状態は水を得た魚のようだ。
シンクは回避するも、渦に巻き込まれた。
先の攻撃で内臓にダメージを負っており、それも重なって自身の肉体を制御しきれない。しかし下手な抵抗ができなかったことが幸運となった。渦に身体を捕らわれたが、その力に逆らうこともしなかったのでばらばらに千切れず済んだのだ。
しかしシンクは重傷となって床に転がる。
復帰した聖騎士たちも果敢に禍渦鱗へと攻撃を仕掛けるが、水と空気の渦が全ての攻撃を阻んだ。やはり聖騎士たちも渦に巻き込まれ、ある者は四肢をも千切られてしまう。
「厄介ですねー」
流石のアイリスも見ていられなくなったのか、時間遡行を発動する。これによって肉体状態が巻き戻され、彼らのダメージはなかったことにされた。
「これは……あの時と同じ」
一度死の淵から救われているシンクは心の中でアイリスに礼を言う。今は目の前にいる敵が最優先だ。一度冷静になり、禍渦鱗をよく観察する。
(あの渦は回避不能。だったら渦ごと斬るしかない。けど……どうすれば……)
攻防一体の渦は非常に厄介だ。
物理攻撃も魔術攻撃も渦によって逸らされてしまう。つまり突破するためには純粋に力で勝る必要があるのだ。
勿論、技量によって突破する方法もある。
一つは渦の隙間を狙って切り裂くこと。もう一つは渦の中心を狙って突くことだ。常に流動する渦を完全に見切る必要があるので、どちらの方法も難しい。禍渦鱗の動き、渦の大きさ、渦の速さ、渦の深さ、回転の向き、微妙な時間変化、空気と水の粘性と質量の違い、その全てを見切って初めて実行できる神業なのだ。
(くそ、師匠なら容易くやってみせる光景が目に映るのに)
シンクの師は力が強いわけでも、強烈な魔力を使うわけでもない。ただ基本に忠実な剣術と間合いの取り方、そして絶対的な観察眼から来る読みによって剣聖と呼ばれている。
まるで自分の剣技が子供の棒振りであると錯覚させられるほどである。
(でも逃げている場合じゃない。俺に力がないなら、技量で貫く)
幸いにもアイリスという回復役がいるのだ。
そして結界によって最重要人物であるセルアも守られている。
今も聖騎士たちは禍渦鱗に半殺しにされてはアイリスに回復されるという戦いを繰り返している。シンクだけが現実逃避している場合ではない。
魔装の形状を刀に変え、心を鎮めて構えた。
「俺ならできる。必ず斬る。心を鎮め、敵を観察し、気配の隙間を……」
禍渦鱗の意識の隙間を発見し、そこに潜り込む。そして膝と腰の捻りを利用した最速の突きを放つが、渦によって逸らされてしまった。
攻撃に気付いた禍渦鱗は触手の一振りでシンクを吹き飛ばし、腰と背骨を折ってしまう。しかしシンクが床に叩きつけられる瞬間にはすでにアイリスの魔装が届いており、完治していた。
「私が回復するのですよ! どんどん行っちゃえなのです!」
「助かります! いやほんとに!」
技量の限界は今超える。
その意思を胸に、シンクは再び切りかかった。