8話 テルリア=ミーリウス
テルリア=ミーリウス。
彼女はあるレストランでウェイトレスとして働く少女だ。そのレストランとは以前、レインとミネルバが入ったところだ。
年齢は十六。
青春真っただ中という時期ではあるが、彼女は同年代の人々と接する機会はなかった。精々、レストランに来た人と業務として話す程度。ほとんど店で働く年上の人たちと話すことが多かった。
テルリアにとっては一番接しやすいのが店の人たちで、いわゆる家族のような存在だった。
テルリアは本当の親を知らない。
彼女が物心つく前に、路地裏に捨てられていたのだ。
そこで拾って育ててくれたのが店のオーナーであり、そこに勤める人たちだった。
しかし、物心がつくときになっていたことがあった。
なぜかテルリアの頭の上には猫耳がついていたのだ。尻尾がついているわけではなく、ただ猫耳だけがあった。
初めはそのことに疑問は持たなかった。
周りの人たちに自分と同じようなものがなくとも、それでも家族が大好きだったから。
気にはなっていても、そのことを言い出さないようにしていた。
それでも、世間は残酷だった。
店の人たちはテルリアに、外へ出るときは帽子を被るように言っていた。
その言いつけは守ってきた。
しかし、ある時偶然吹いた風で帽子が飛ばされ、周りにたくさんの人がいる中でその耳があらわになった。
一人で町に来ていたテルリアは飛ばされた帽子を追っかけて、町を走った。
その際、多くの人の目に普通とは違う猫耳が映った。
その日は帰ってくると店の中で何やら揉めていた。どうやら店の前で複数人の大人が集まっているようだった。
夕食の時、気になって聞いてみると、少し渋った顔をしていたが話してくれた。
そして七歳になって初めて知った。
自分の耳がどれだけ変な物なのかを。自分が途轍もなく歪なのだと。もしかしたら、人間ではないのかもしれないと思った。いや、彼女の中ではそれはもう確定事項だった。
その日の夜はベッドですすり泣き、テルリアが眠りにつくまでずっとオーナーが優しく頭を撫でていた。
次の日から塞ぎ込んでしまったテルリアは、店のアイドルとして出ることはなく、ずっと引きこもってしまった。
オーナーや従業員の人たちも心配していたが、テルリアには誰の言葉も耳に入ってこなかった。
もう呆然として日々を過ごして一年が経過したある日、テルリアの元に一人の男の子が尋ねてきた。いや、訪ねてきたというよりも、空いていたテルリアの部屋の窓から入ってきたのだ。
誰にも自分の姿が見えないように常にカーテンを閉め切っていたテルリアだったが、久々に外が見てみたいと思い、ほとんど外に人がいない早朝にそっと窓を開け、カーテンを開けて外を見た。一応帽子を被って。
久々に見た世界は、最後に見た時よりは鮮やかだった。
その時は周りの人が怖くなって、世界がくすんで見えていたが、今は人に見られていないと思ってすっきりとしていた。
そんなことが毎朝の日課になっていたある日、徐々に光を取り戻していた瞳に自分と同じくらいの一人の男の子が見えた。その男の子は少し離れたところに立つ民宿の窓から顔を出して、テルリアと同じように町を見ていた。
テルリアの視線に気付いたのか、その男の子がこちらに気付くと、手を振ってきた。
テルリアは目を丸くして咄嗟に身を窓の下へと沈めるが、少ししてからそっと覗くと、民宿の窓は開けっ放しになっているが、男の子の姿が見えなかった。
そのことにほっとしながらも、少し残念な気持ちもテルリアの胸の中にはあった。
そんなことがあっていつもとは少し違った朝の日課を終えて、窓を閉めようとした時。
「あっ、ちょっと待って」
そんな声が聞こえた。
テルリアは驚き、周囲を見渡すが人通りはなく、声の出所がわからなかった。
「上だよ、上」
その言葉につられて見てみると、なんと屋根の上から身を乗り出してテルリアを見下ろしていた。
それにはさすがに驚いて、テルリアは言葉がなかった。
驚きで呆けているテルリアに、その男の子はにっこりと笑い掛けて言った。
「入ってもいいかな?」
心に余裕のなかったテルリアは、咄嗟に頷いてしまった。
その男の子は了承を得ると遠慮なく入った。
その男の子は名前を言わなかったし、テルリアの方も名前を言わなかった。
お互い名前を知らないまま、二人だけの新しい日課が始まった。
朝早い時間になると、テルリアが窓を開け、そこから男の子が入ってくる。
オーナーが起きる時間には帰るので、時間で言えば一日三十分程度だった。
二人とも隠し事はあった。
テルリアは耳のことは隠してずっと帽子を被っていた。
男の子がいったい何者なのか気にはなっていたが、教えてもらう代わりに耳を見せることになるのは怖かったので、何も言わなかった。
男の子の方は特に気にした様子もなく、普通に接してくれた。
早朝であるため、一緒に住んでいるオーナーにばれないように静かな声で二人で話した。
よく考えれば隠す理由などありそうにはなかったが、何となく後ろめたいような感覚があったのだ。
しかし、テルリアの様子が今までとは違っていることにオーナーや従業員たちは気付き、ある日テルリアに聞いた。何かいいことがあったのか、と。
嘘は言いたくないけど、秘密にはしておきたい。
回答に困ったテルリアは、少しだけ教えた。
「友だちができたの」
その言葉で、皆の顔が明るくなった。
今までテルリアにそんなことはなかったのに、やっと友だちができて、顔をも明るくなったのは本当にうれしいことだった。
しかし、テルリアはそれ以上を言うことはなかった。
皆もテルリアがそうしてほしいなら、しつこく聞くことはなかった。
そういう風にうれしいことが続いていたある日、それは、突然来た。
その朝もいつもと同じように待っていたテルリアは、なかなか来ない男の子のことを気にしていた。
どんな日でもいつも通りに時間に来ていたのに、その日に限ってその時間になっても来なかった。
不安になったテルリアは、窓から身を乗り出して男の子を探す。
すると、いつも通りの民宿の窓から男の子がやってきた。
そのことに安堵したテルリアは、早速男の子を部屋の中へ招き入れた。
しかし、その日の男の子の表情はいつもと違っていた。
何か辛そうな表情をしていた。
テルリアがどうしたのか聞くと、男の子は迷ったようにしていたが、意を決したのか深呼吸をしてから言った。
「もう、ここには来られない」
そう言った。
悪い夢だと思った。
そう思って自分の頬をつねってみるが、痛くて、夢ではないことがわかった。
テルリアは慌てて、いつものように小声で話すことを忘れた。
「何で?」
「……引っ越すことになったんだよ、今日」
「じゃあ、本当に来られないの?」
「……うん」
「何で事前に言ってくれなかったの?」
「急に決まったんだ。昨日の夜に、そうなったんだ」
「そんな……」
せっかくできた友だちに会えないとなり、テルリアはその場に崩れ落ちた。
そんなテルリアの前に男の子は跪いて、テルリアを支える。
「ごめんね。僕もまだここには来たかったんだけど、そうもいかなくて。せめて、最後にあいさつでも」
「嫌だ!」
必死に言うテルリアは、男の子の服を掴む。
強く握り、男の子に言う。
「行かないでよ。お願いだから……」
消え入りそうな声で言ったテルリアは、涙を流していた。
男の子が早朝に来るようになってから一年が過ぎていた。
その一年の日々がどれだけ満たされていたことか。
そんな日々を失いたくないテルリアは、男の子に訴える。
行かないでくれ、と。
しかし、男の子は決して首を縦に振ることはなく、辛そうに横に振った。
それでも嫌だった。
男の子が辛いのはわかっている。それでも、テルリアは感情を抑えられなかった。
その時に何を言ったのかわからなかった。おそらく、ひどいことを言ったのだろう。言っている最中、胸が張り裂けそうになったのがわかり、目の前の男の子の顔が本当に辛そうだった。
でも、男の子は何も言わず、テルリアが最後まで言うのをずっと受け止めていた。
肩を上下させて、息切れをさせるテルリアの頭の上に、男の子はそっと手を乗せた。
そして言った。
「『それは幻・それは現・混ざり合いし世界に・一つの真実となし・それを現せ』」
そう言って男の子が何かをしているのがわかった。
男の子が真剣な表情をしばらくしていると、終わったのか穏やかな表情になった。
「何をしたの?」
テルリアが聞くと、男の子は部屋の鏡を差して言った。
「その帽子を取って、そこの鏡で見てごらん」
突然のことに、テルリアは帽子を手で押さえ、首を横に振った。
そんなテルリアに、男の子は優しい顔を向けた。
「大丈夫だから」
その言葉を、信じてみたいと思った。
テルリアは立ち上がって鏡の前に行き、そっと被っていた帽子を取った。
そして、鏡に映っているものを見てビックリした。
あれほど嫌だと思っていた耳が、普通とは違う猫耳がなくなっていた。
「え?」
テルリアは咄嗟に振り向いて、男の子の顔を見た。
「その耳は僕の魔術で見えないようになってる」
「見え、ない?」
「そう。ただ、無くなったわけじゃくって、見えなくなったわけじゃないから気を付けて」
「う、うん」
「……これが、お別れのプレゼント、かな」
男の子はテルリアにそう言った。
それで思い出した。
これが別れなのだと。
テルリアは男の子に近づき、もう一度その服を掴む。
「本当に、もう会えないの?」
「……わからない。でも、またいつか会えたらいいなとは、思う」
「じゃあ、約束」
テルリアは男の子に小指を差し出す。
「いつかまた会いましょうっていう約束。してくれる?」
男の子はテルリアに笑みを向けた。
そして、テルリアが差し出した小指に、自分の小指を絡めた。
そうして約束を口ずさんでから、結んでいた小指を解く。約束は一瞬だった。
男の子はテルリアに別れを言うと、いつものように窓から帰っていった。
その後、テルリアと男の子が話していたのをオーナーが聞いていたらしく、扉の横で立っていたオーナーに飛びついて思い切り泣いた。
その頭をオーナーは優しく撫でてくれた。
その日から、テルリアは再び店のアイドルとして働くようになった。
猫耳が他の人から見えないようになっていたので、難なく働くことができた。無くなったわけではなく見えなくなっているだけだと、オーナーや従業員の皆に言ったが、それで悲しむようなことはなく、再び元気になってくれたことを喜んでくれていた。
その時、テルリアは九歳になっていた。
♢♢♢
ふと、目が覚めると、テルリアはまずひんやりとした冷たさを感じた。
そして目を開けると薄暗いとわかり、しばらくするとそこはどこかの廃墟のような場所のようだった。
次に気付いたのは自分の体勢だったが、地面に座っているようだ。ひんやりとした感覚は地面からのようだ。手を後ろに回されて、体が細いポールのようなところに縛られている。
そこまで、わかったら誘拐されたのかもしれないと思った。
さっきまでは普通に町を歩いていたはずだ。
しかし、その途中で急に意識が遠くなり、気が付いたらここにいる。
突然変化した状況に頭が混乱し、パニックになりそうになる。
「ようやく、目を覚ましたか」
低い声がテルリアに向けられた。
声のした方を向くと、そこには二人の男が立っていた。
一人は顔に傷のある男で、もう一人はどこか軽そうな男だった。
「結構簡単に手に入ったもんだぜ。なぁ、フリード?」
フリードと呼ばれた顔に傷のある男は、最初にテルリアに声をかけた声で返す。
「油断も大概にしろ、ヘンリー。最後の最後で仕事をミスしては、元も子もないぞ」
軽そうに見えるヘンリーに忠告するフリードに、つまらなそうな表情を向けるヘンリー。
「けどよ、ここまでくればあとは引き渡すだけだろ?」
「それはそうだが、だからと言って気を抜いていいということではない」
「お前は固いんだよ。もっと柔軟に仕事はやらねぇと」
「仕事を完遂するのが最優先だ。そのために警戒を怠るなって言っているのだ」
「それが固いっつってんだよ。俺らの実力なら、大して問題ねぇだろ。時間までもう一時間を切ってるしよぉ」
「……時間って、何?私をどうするつもりなの?」
それまで混乱していて整理がついていなかったテルリアは、ひとまず落ち着くことができ、恐る恐ると言った様子で尋ねる。
「お前を引き取りに来るってやつが後一時かくらいで来るんだよ。お前がどこに連れていかれるなんざ知らねぇがな」
「そんな……」
「……だが、推測はできるだろう。おそらく、その耳が関係しているのだろう」
フリードの言ったことに、テルリアは硬直した。
「み、耳って……」
「そのかわいらしい猫耳に決まってんだろうよ。ぎゃはははっ」
ヘンリーはそう答えると、笑い声をあげた。
その声に体をビクつかせながら、テルリアは信じることができない現実を聞く。
「これが、見えるの?」
それに答えたのはヘンリーの方だった。
ヘンリーはその顔をテルリアに近づけ、面白いものでも見るように言った。
「そりゃ、見えてるよ。君の耳が見えないようにしていた幻術は、この俺が軽々と解除しちゃいました。ぎゃはははっ」
「よく言う。かなり手こずっていたというのに」
「うっせぇ。お前は解除できなかっただろうが」
「だが、魔術の気配に気づいたのは私だ」
テルリアの前で言い合う二人だったが、テルリアはどうでもよかった。
彼女の耳にかけられていた視覚誤認の幻術が解けている。
その事実がテルリアに大きなショックを与える。
六年前に約束した男の子との唯一のたしかな繫がり。それがあったから、今まで頑張ってこれたのだ。
「うっ、うぅぅ……」
心の支えが崩されたことで、テルリアは涙をこらえることができなかった。
その様子を見たヘンリーは、興味ありげな顔を向けてきた。
「あっちゃー、泣いちゃったよ。おい、どうするんだよフリード?」
「知らん。その娘の問題だろ」
「攫っといてよく言うぜ」
「共犯者がよく言う」
「……それにしても」
そう言いつつ、ヘンリーは鼻の下を伸ばして、縛り付けられているテルリアの豊満な胸を見た。
「こりゃ、良いな」
ヘンリーの視線が怪しいものになっていることに気付いたテルリアは、その背筋に悪寒を走らせた。
「ちょっとくらい味見しても……」
ヘンリーがゆっくりと胸に手を伸ばしてくるのを見て、テルリアは身を引こうとする。
しかし、ポールに縛り付けられているため身動きができない。
恐怖で声が出ないテルリアは、ぎゅっと目をつむった。
「おい、やめておけ」
突如として掛けられたフリードの声で、ヘンリーは手を止め、テルリアはゆっくりと目を開ける。
ヘンリーは不機嫌そうな顔をしたまま立ち上がり、フリードへと詰め寄る。
「おい、お楽しみになるところだったのに、何で止めんだよ?」
「依頼内容は、その少女を無傷で引き渡すこと。変な真似をして、もし依頼内容と反したらどうするつもりだ?」
自身に詰め寄るヘンリーに、フリードは鋭い視線を向ける。
ヘンリーもしばらくその目を見返していたが、圧力に耐えかねたのか、先に目をさらし、フリードに背を向けた。
「わかったよ。何もしなけりゃいいんだろ?ったく」
納得いかない様子だったが、テルリアとしてはひとまずほっとしていた。攫われているという現実は変わらず、危機であることも変わってはいないのだが。
「……あの、ありがとうございました」
テルリアがフリードにそう言うと、振り向いたフリードは驚きの表情を浮かべていた。
「この状況でそれを言うとは……私たちが君を攫っていることは事実だが?」
「それでも、ありがとうございました」
「……はぁ、まぁいい。時間が来るまでそこでおとなしくしているんだな」
「……あの、一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
不愛想な顔をしながらも返答をするので、一応答える気はあるようだ。
「この耳が何か、あなた方は知っているんですか?」
「貴様は本当に知らないのか?」
「はい。教えてくれる人がいなかったので」
「そうか。まぁ、いいだろう。その耳は、『魔力過剰症』による影響だ」
「魔力、過剰症?」
聞き慣れない言葉に、テルリアは首を傾げる。
「魔力過剰症とは、生まれながらに莫大な魔力をその身に宿している者に発現するものだ。本来魔力とは、成長していくにつれて魔力量が増幅していくもので、その時に肉体が制御できる量の魔力しか保持できない。しかし、魔力過剰症の者は生まれた時から制御が追い付かないほどの魔力を保持している。それゆえに、その者には普通の人間とは異なる器官があるという」
「つまり、この耳がその器官ということですか?」
「そうだ。器官は人それぞれ、と言うより比べるほど数はいないのだが、人によって違うらしい。つまり、貴様は魔術師の中でも特に希少な存在だということだ」
「……私、魔術師じゃありませんよ」
「何だと?」
フリードには予想外の答えだったようで、目を丸くする。
それも当然のことだろう。
魔力を持つものは魔術師になるのが普通であり、ましてや強大な魔力を持つ者は魔術師としての将来を歩いて行くのだ。
しかし、テルリアは魔術との関わりはほとんどなく、ずっとレストランのウェイトレスとして働いてきた。
「では、魔術を使ったことは?」
焦りのこもった顔で聞くフリーダすだが、テルリアは首を横に振った。
「一度もありません」
「何だと?ならば、その耳にかかっていた魔術はどういうことだ?」
「昔、ある人に掛けてもらったんです。プレゼントだと言って」
「そんなバカなことがあるのか?そいつはどんな奴だ?」
「どんなと言われても、六年前の時にー」
「待て。六年前からその幻術は掛けられていたのか?その間に掛け直しがあったりは?」
「いえ。六年前からずっとこのままです」
「そう、か。……それで、魔術を掛けた奴とは?」
「はい。その男の子は六年前の時が九歳と言っていましたから、今は十五歳くらいじゃないですかね?私と同じくらい」
「それはさすがに嘘だろう?たったの九歳の少年にそんなことができるわけがなかろう?六年もバレない魔術を、掛け直しもせずに継続させるなど並大抵のことではない。しかも、私たちが解除しなければ一般人にはまだわからないものだっただろう。それはもはや、高等魔術だぞ。その九歳の少年は、本当に存在したのか?本当は別の者がやったのではないか?」
「ち、違います!」
フリードが提示した可能性を、テルリアは即座に否定した。
その考えは以前に、テルリアが抱いたことのある疑問だった。
魔術に関しては素人であるテルリアも、魔術で猫耳が見えないようになってから一年がたった時、同じ疑問を持ったのだ。
いくら魔術でも、ここまでにはならないんじゃないか。
しかも、自分と同じくらいの少年がそれをやったなど、現実味がなさ過ぎた。
しかし、耳が見えなくなっているのは事実。無くなったわけではないのも感覚でわかっていた。
ある日、店に入った魔術師に聞いてみた。
一年も周りに気付かせないような幻術を掛けられるか、と。
それを聞いた魔術師は、大笑いしていた。
一年も継続して幻術を見せるなんてことはいくらなんでも非現実的。それに、幻術なんて使えるのはほんの一握りだけで、誰もそこまでのことはできないとのこと。
その瞬間、テルリアの中で何かが崩れそうになっていた。
自分があった男の子はいったい何者なのか。
実際に男の子は存在していたのか。
本当はそれこそが幻なんじゃないのか。
しかし、耳はまだ見えないまま。
これはもしかしたら長い夢なんじゃないか。
そんな考えが頭の中でぐるぐると回っていた。
そんな時、オーナーが言ってくれたのだ。
信じたいのなら信じていればいい、と。
最初のころは男の子のことを隠していたテルリアだったが、日がたつにつれて隠しておくのが申し訳なくなり、その時にはもうすでにオーナーや従業員たちは知っていたのだ。
皆その話を信じ、その男の子に感謝していたのだ。
そんなオーナーが言ってくれた言葉で、テルリアは信じると決めたのだ。
男の子の存在を信じ、そしていつか会った時にあの時言えなかったお礼を言うと決めたのだ。
だから、信じるのだ。
「違う。彼はいるの。いるんです……」
細い声で言うテルリアを見て、フリードは気まずくなったのか目を逸らした。
なぜ捕獲対象の少女とこんな話をしているのか、フリードは疑問に思った。
(この少女がかわいそうになったのか?)
いや、違う。
フリードはすぐさまその考えに首を振った。
(私は気になったのだ。これほどの魔術を行使するのが、一体どんな人なのか、と)
フリードは俯いているテルリアに、再び視線を向ける。
(嘘をついている様子はない。だが、何者かに記憶を書き換えられている可能性だってある。信じられるものか。たった九歳の少年がこれほどの魔術を使ったなどと)
そう自分で答えを出したフリードは一瞬、魔力の気配を感じ取った。
それが探索用のもだと気付いたフリードに、ヘンリーが声をかけた。
「おい、誰かくるぜ」
ヘンリーはフリードに注意された後、今まで一応周囲を見ていたらしい。
「依頼者か?」
「いや、どうも違うな。学生だ。ヴィクト王立学校の制服を着ている」
「変装、あるいは生徒が依頼者ということは……」
「さすがにあの格好はここでは目立つ。それはねぇだろ」
「そうか」
ようやく動いた状況に、テルリアは期待を込めてその時が来るのを待っていた。
「念のため警戒するぞ。一応俺も結界をかけておく」
「わかったぜ。それよりも、だ。相手は女だ。そこの奴がダメなら、ここに来る女を取っ捕まえるってのはどうだ?それなら問題ねぇだろ?」
「私に確認を取るな。私を不愉快にさせない程度にしろ。その範囲でなら私にとってはどうでもいい。任務の遂行が最優先だからな」
「よっしゃ。なんかやる気でてきた」
先ほど自分がされそうだったことを他の人がされるとあって、テルリアは落ち着かない気分だった。しかも、その相手は学生と言うことはテルリアとそう変わらない年齢のはずだ。
しかし、今の自分には何もできないということがわかっているため、せめて最悪の結果にはならないことをテルリアは祈っていた。
そんなテルリアのことは気にせず、もう意識は侵入者へと向いていたフリードは魔術を発動させるために呪文を唱える。
「『それは幻・それは現・混ざり合いし世界に・一つの真実となせ』」
フリードが発動させたのは無属性魔術<ファンタジア>。
人に幻を見せる魔術で、よほど魔力制御に優れていなければ使えない魔術だった。
しかし、テルリアが驚いたのはその詠唱内容だった。
(似ている。というか、ほとんど同じ。でも、どこか違う)
当時の記憶はあやふやで、男の子がどんな呪文を詠唱したのかは正確には覚えていなかったが、テルリアは似ていたフリードの唱えた呪文とは少し違うような気がした。
気になったことだが、次の瞬間にはそのことは忘れていた。
その場に、金髪の少女が現れた。