7話 世界への恐怖
欠陥魔術師の圧倒的な知識。
その噂は瞬く間に広がり、ヘイダスに勝った時と同じかそれ以上の騒ぎになっていた。
なにせ今回は同級生だけでなく、二、三年の上級生にまで騒ぎが広がっているのだから。
もちろん、レインに対して抱く感情は人それぞれで、称賛する声は多々あるが、その一方で妬み嫉みは尽きないものだ。
大っぴらには何もないが、それでも所々から突き刺さるような視線を感じるのだ。
また、今回の騒ぎでレインの知識量に関することだけでなく、第一王女のミネルバと友だちだ、という話まで流れ、特に男子たちが恨めしそうにしているのをレインはたびたび見た。
そのことでレインとしては鬱陶しいと思えてしまうほどに人が集まるが、ミネルバはこの学校に来て初めてと言えるほどに多くの人と話した。基本的には聞かれたことに対して答えるだけで、矢継ぎ早に飛ばされる質問に対応するのに精一杯だったが、それでも本人は嬉しく思っていた。
色々と劇的に変化していく環境で、レインとミネルバは疲れを感じてはいるが、それと同時に悪い気もしていなかった。
元来、人とは孤独に生きるということが難しい生き物なので、生きる上で人との繋がりはどうしても必要だ。それも友人と呼べるようなものは、心の支えになることが多い。
そのような存在はまだあまりいない二人だが、それでも今は順調なのではないかと思えた。
「それにしても、人ってあんなに盛り上がるものなんだね」
レインが隣を歩くミネルバに言うと、ミネルバは同意して返す。
「そうね。私もなんか疲れちゃった」
二人は今、学校からの帰り道。
何気なしに最近一緒に帰ることになった二人だが、前まではミネルバは馬車での送り迎えだったのだが、レインと町を見て回った後から行き帰りを歩いている。もう道は完璧に覚えたようだった。
しかし、第一王女にもしものことがあったら大変ということらしく、レインが気付いているだけでも二名ほど護衛が付いていた。護衛されている身であるミネルバは、どうやら気付いていないようだったが。
ミネルバに気付かれないようにやっているのなら、レインの方も教える必要を感じないので黙っていることにしていた。
ただ、この間帰りの時に、ミネルバが来るのが遅くて待っていたら偶然その護衛と思われる人たちが見えたので、こっそり挨拶をしておいた。
前回、町をミネルバに案内していた時に見た人とは違っていたが、突然挨拶されて驚いた顔は同じで、それがおかしかった。ミネルバが来るまで暇だったので、少しだけ話をしたのは、彼らも黙っていてほしいことのようだった。
「人に騒がれるのって、やっぱり慣れないなぁ」
「私もあまり、ね」
「そうなの?一応王女なんだから、ああやって人が集まってくるのは慣れっこじゃないの?」
「一応って。まぁ、そっちは慣れてるんだけどね……」
「そっち?」
レインが尋ねると、ミネルバは言葉に詰まって言えなかった。
レインの言う通り、たくさんの人と話をすることは今までもあったが、同年代の人にあそこまで詰め寄られたことはなかった。
それに女子からは冗談ながらも、レインとは仲がいいのか、と意味深な内容を聞かれもしたのだ。彼女たちの表情から、普通の友人として仲がいいのかと聞いているわけではないとわかったミネルバは、存分に慌てていた。
それを思い出したミネルバは、友人のレインが隣にいるという状況と相まって、頬を赤く染めた。
幸いなことに、それは夕日の赤さに隠れてほとんどわからなかった。
自分の顔が熱くなるのを感じたミネルバは、恥ずかしさから慌てたように声を出した。
「別に、いいじゃない!要は、大変だったってことなんだから!」
「?それはそうだけど……」
急に慌てたミネルバに疑問を持ったレインだったが、聞いても無駄そうだったので聞かないことにした。
そのまましばらく無言で歩いていると、落ち着いたのかミネルバが話し始めた。
「レイン、覚えてる、私の将来の夢?」
「ん?覚えてるけど、突然何?」
「いやぁ、私ってあの時結構熱く語ってたでしょ?」
「そうだったっけ?」
「そうだったの。でもさ、あの後考えてみたら、やっぱり違ったんだよね」
「違うって何が?」
「将来の夢」
レインは驚きで目を丸くした。
あそこまでの意思を宿した目で語っていたミネルバの夢は違う。
そう聞くと、あの時の自分の見たものはまったく別のもので、捉え間違えてしまったのかとレインは思った。
そんなレインにミネルバは続ける。
「別に『王』になりたいっていうのは今も変わってない。それは本当」
「じゃあ、もっと何か別のものが見つかったってこと?」
「そうなるかな。レイン、あの時言ってたでしょ?あなたは『王』は目指さないって。その先に目指すものがあるって」
たしかにレインは言った。
将来の夢を語るミネルバにあてられて言ったことは覚えている。
ミネルバはそれを聞いて、何か思うところがあったらしい。
「その先って言葉が私は気になっていたの。先っていうのは大雑把だったけど、それでもあの時初めてレインの意思を感じた気がした。それが夢なんだってわかった」
「……意思、ね」
呟くようにレインが言ったそれは、レインには重い言葉だった。
「私はあなたに『王』を目指さないのか聞いた。それに対して、レインは目指すものはその先にあるって言った。それで間違いないよね?」
「そうかもね」
「それを聞いた直後は疑問しかなかったけど、その後色々考えた。それで思ったの。あなたの目指すものは他の人とは根本的に違うんじゃないかってね」
「根本的に違う、か。どうだろうね」
「でも、『王』なんてものに興味はないんでしょ?」
「そうはそうだね。強くなった結果そうなるならともかく、それを目指すのは僕としては何か違うと思うからね」
「私も考えていてそう思った。実際、『王』という称号を目指して、それで何になるんだってね」
レインがちらりとミネルバの方を見ると、その顔は真剣だった。少なくとも、夢を話したあの時と同じ空気を感じた。
「結局のところ、目指したところで、それにたどり着いたところでどうにもならないんじゃないかって思えたの」
「夢が叶ったら、また別の夢を見つければいいでしょ。そこまで考え込む必要ないと思うけど」
「でも、考えるべきことだと思う。私は『王』になりたいと思っていた。でも、その先を考えていなかった。私が何で『王』になりたいのか、わかる?」
「わかるわけないね」
「そうだろうね。それが当然。私には『王』になって何かをしたいという考えはなくて、ただ『王』になることに意識が向いていた」
「それが普通じゃないかな?なにせ『王』なんて学生からしたら遥か先だよ。そこから見える景色がどういうものかなんてわからないでしょ」
「それでも、やっぱり考えるべきなんだよ。私が『王』になりたい理由はね、私の祖父、つまり先代国王が『王』の一人だったからなんだよ」
「先代国王が、『王』か」
「知らないよね。四十年位前のことだし、そもそも公表してなかったから」
魔術師の頂点である第六階梯の『王』は、その名前を公表している者としていない者がいる。およそ、その数は半数ずつであり、公表しない理由は知られたくないという本人の意思もあるが、知られると混乱が起こる可能性がある場合も公表されない。
だが、国王が公表していなかったのは別に混乱が起こるからという理由ではないように思える。なぜなら、すでに国王は国民からは手の届かない存在であり、遥か高みの存在なのだから、知られても特に問題はないはずだ。
「祖父が隠していた理由は詳しくは知らないんだけど、少しだけ教えてくれた。祖父が……おじいちゃんが死ぬ前に、私にだけ教えてくれた。扉を見たって」
「……扉?」
「そう。見たんだって。中までは見れなかったって言ってたけど」
扉という言葉はとても抽象的だった。
現実に開かずの扉のようなものがあるのか、それとも何かを比喩しているのか。
レインは息を呑む。
「おじいちゃんが言ってた。きっと、あの扉の向こうには、世界の真理があるって。この世界の全てがあるって」
遠い目をしたまま、ミネルバはレインに告げる。
ミネルバの言ったことに物証はないし、先代国王が言ったことも然りだ。
結局のところ、それを聞いた者が信じるか信じないか、そういうことなのだ。
なぜなら、世界の真理というとても考えの及ばないことだ。
魔術が世界の真理を追い求める学問と言われている以上、そこが魔術の最果てと言えるのかもしれないが、照明はできない。
物証はないし、説得力と言うには話が突飛だ。
しかし、レインはわかった。
ミネルバの言ったことも、先代国王が言ったことも、嘘偽りのない本物だと感じた。
ミネルバの言う『おじいちゃん』がどんな人なのか、レインに思い浮かべさせた。
きっと、優しく、素晴らしい人だったのだろう。
「世界の真理、か。興味をそそられるね」
「信じるの?」
「そうだね。夢物語って、期待を込めて信じたほうがいいと思うし、それにその夢が現実になった時はとてもいいような気がするからね」
「夢物語……。たしかに、今はそうだけど、私はその扉を探したいと思うの。その扉を探して世界の真理を見つけて、おじいちゃんができなかったことをする」
「それが、今君が思う夢?」
「そう。私の見つけた、『その先』よ」
「……そう。まぁ、やれるだけやればいいんじゃない?」
「……あまり興味ない?」
「そうだね。君が世界の真理を見たとしても、僕が見るわけじゃないからね。それに、僕としては興味がそそられるのは夢物語としてのそれだから。君の好きにしたらいいんじゃないかなって思うんだよ。結局、君の夢なわけだしね」
幾らか冷めた言い様に、ミネルバがレインの顔を覗き込む。
その動作にびっくりして、レインは足を止める。
そんなレインの目の前に立って、ミネルバは問いかける。
「世界の真理を、見たいと思わないの?」
「っ!」
それは全く知らない人が聞いたら、ミネルバのことを危ない人だと思うだろう。
しかし、それを理解しているレインでも、今の言葉は背筋がゾッとした。
「世界の真理を見て、魔術を極めようとは思わないの?」
「……僕は欠陥魔術師だよ。夢物語のまま過ごしたいっていう気持ちも、あるんだよ」
「欠陥とか自分で言ってるけど、そんなの今のレインじゃ説得力がないよ」
「そう、かな?事実だと思うけど」
「……欠陥かどうかはともかくとして、他の人よりすごいところはあるでしょ。呪文の短縮詠唱も、魔術に関する知識も一年の中じゃ一番だし、上級生と比べても十分に競えるでしょ」
「……どうかな?僕は自分をそこまで過大評価はしていないよ」
「あなたの評価じゃなくて、私の評価よ。それを蔑ろにしないで」
若干、怒気が見えるミネルバはレインに言い寄る。
「あなたは自分を卑下し過ぎよ。ヘイダス先生に馬鹿にされた時だって、私が何もしなかったら、自分から何もしようとはしなかったでしょ!」
「……そうだろうね」
「それをやめてって私は言いたいの。あなたは他の人から見たら、十分にすごい人なのよ。たしかに、他の人と同じようなものは持っていないけど、それを補って余りあるものがあるじゃない!」
夕方であまり人通りが多いとは言えないが、通りで立ち止まって言い合う二人は、周囲の注目を浴びていた。それに、そのうちの一人が第一王女であればなおさらだ。
「……僕には他に何もなかったからね。何かしらで優れていないと、置いて行かれるんだよ、僕のような凡才は」
「あなたを評価している人をちゃんと見なさいよ!目の前にいるじゃない!私の他にもちゃんといるじゃない!それなのに、なんでそんなに自分を落とすのよ!」
「……僕は欠陥魔術師で、凡才で非才だから。何をするにも、人より劣るから自分を甘やかしてはいけないんだよ。この道で生きる以上は、その努力を惜しんじゃいけないんだから」
「たしかに、そうね。私たちにも努力は必要よ。なにせ、一切努力しないでふんぞり返っている奴だっているわけだしね。そういう自惚れがある連中は、いっぱいいる。特に私たちみたいな若い世代には。血の滲むような努力をしていたとしても、それは才能があるからと一言で片付け、自分より劣る人は才能がないからと貶める。そういう人は意外と多い」
そう言った後、ミネルバはギリッとは食いしばる。
「でも、あなたは違うじゃない。そんな全部才能のせいにして諦めるような人じゃないでしょ?なのに何で自分を貶めようとするの?そんなことをしてもただ自分が辛いだけじゃない!」
「それでも、上を目指すなら先に進むしかない。どれだけ努力しても足りないんだから、それ以上に努力しないといけない」
「それが無理をしてるっていうのよ!何で自分で自分のことを見てあげないのよ!」
「見てるよ。見てるから努力し続けるんでしょ」
「見えてない!あなたは全然見えてない!見てるふりして、結局は何も見えてないのよ!先を見過ぎて、足元が見えてない!」
「足元?」
「そうよ。立ち止まって、そこで振り返ることも重要なのよ。そのためにはちゃんと足元を見ないとダ
メ。ちゃんと自分を見ないとダメなの」
「それでも、先に進まないといけない」
「……人間、そんなに頑丈にできてないのよ。無理をすればどこかでガタがくる。さらに重ねればもっとひどいことになる。私はそれをやめてって言ってるの!」
「やめたら先にー」
「だから、もっと足元を見て!!」
ひと際大きな声で、ミネルバがレインに叫ぶ。
その様子を見る町の人々は、目を丸くしていた。
言われたレイン自身も、虚を突かれたようだった。
「もっとちゃんと見て。あなたは私たちと同じ、ヴィクト王立学校に通う生徒でしょ?魔術師育成学校の生徒でしょ?もっと周りと同じ景色を見ることも考えてよ!何でそれができないの!」
まるで、我儘な子供を叱咤する母親のようだった。
その圧力にレインは気圧され、一歩後ろへ下がろうとした。
しかし、そのレインの腕を、がしっとミネルバが掴む。
「下がらないで。ちゃんと踏ん張って、私を見て!」
はっきりと言うミネルバに、レインは自然と頷き、下げようとしていた足を元の場所に戻す。それと同時に、ミネルバは掴んでいた腕を放した。
「ちゃんと見るって、一体?」
「そのまま。意識のうえじゃなくて、感覚的なものじゃなくって。今ここにいるのを見て」
それはつまり、レインにこう言っているのだ。
現実を見ろ、と。
「あなたはたぶん、他の人とは違うことものが見えてるんだと思う。その眼帯も、レインの魔術に関することと無関係ってわけじゃないんでしょ?」
「何で、そう思うの?」
レインは左眼を覆う眼帯に触れる。
「わからないけど、そんな感じがする」
「そんな感じって、大雑把」
眼帯に触れていた手から力を抜く。
「それでもそんな感じがするから、私をそれを前提にして考えるし、言う」
「……そう」
「……私にはレインが何を思っているのかはわからないし、何を考えているのかはわからない」
「そりゃ、人間だからね」
「そして、何に悩んでいるのかもわからない」
「…………」
「レインが見てる世界が私たちと違うって言ったよね?でも、私たちはここにいて、レインもここにいるの。そのことは誰もが同じ。そこに違いはないし、そこには天才も凡才も関係ない」
「でも、僕らは魔術師だ。その道を進む以上、天才と凡才は違ってくる」
「たしかにね。そこにいることと、生きることはまた別の話。レインの言う通り、私たちが魔術師として生きていく以上、そこには才能が関わってくる。天才と凡才に違いが出てくる」
「だからこそ努力する。置いて行かれないように、追い抜くために」
「でも、それがレインに無理をさせる」
「無理、か」
「レインは頑張りすぎなのよ。もうあなたは十分に努力をしている。何も知らない私が何を言ってるんだって思うかもしれないけど、それぐらいわかる。他とは比べ物にならないくらい努力した人は、見ただけで違いが分かる。だからわかる。おそらく、あなたは私よりも努力しているんだって。これでも小さい頃から英才教育を受けてきて、それなりに頑張ってきたつもりだったけど、きっとレインには敵わないでしょうね」
「それでも、まだ足りない」
「それが頑張りすぐだと言っているの!少しは周りを見てみなさい。世界を見てみなさい。きっと、今のあなたじゃ見えないものがたくさんある。それを見ていくことも大切なのよ」
「……見て、それでどうするの?」
「さぁ?私には、その時にレインが何を思うのかはわからない。でも、見れば何か思うはず。誰もがそうして生きているんだから」
「…………生きる、か。この……地獄みたいな世界で……」
レインが俯きながら絞り出した声は、物騒なものだった。
「この地獄みたいな世界で、そんな綺麗なものが見つかるわけが、ない……」
「じ、地獄って。なんでそんな」
「……ミネルバは、僕と君らの見えている世界が違うって言ったよね?でも、僕には君たちの見ている世界はわからない。いや、昔はわかっていたかもしれないけど、今はわからない。今の僕には、この世界が地獄に見える。この世界は地獄以外の何物でもない。あらゆる悪、憎しみ、妬み、嫉み、苦しみ、それらが渦巻いてるんだ、この世界には。そんな世界で生きていくには、止まってちゃダメなんだ!」
ミネルバはレインと会ってから初めて、彼の叫びを聞いた。
言葉がなかった。
軽々しく言えないと思った。
言えるわけがない。
この叫びは本物だ。この思いは本物だ。
レインの発する苦しみは、その全てが本物だ。
そして、ミネルバが感じる胸の痛みも、本物だ。
「この地獄が、僕を先へ先へと進ませる。生半可な速度では、すぐに追いつかれて、飲み込まれる。だったら、全力で進み続けるしかない。全力で進まなきゃ……この世界が僕を殺す。僕は今は、生きることが何だか分からなくなってる。死んでもいいとも思った。でも、この世界には殺されたくない。選ぶなら自分の意思だ。だから、決して誰にも見せない、誰にも明かさない。この世界の痛みは誰にも教えるつもりはなかった。この苦しみをずっと生きていくと思ってたんだ。君が僕の所に来るまでは」
その場所とは、おそらくイメージの中の話だろう。
レインは決して誰にも入ってきてほしくなかった。
一人だけぽっかりと空いた空間で、外面では周りに合わせて、内側では苦しむ。そんなところに来てほしくなかった。
それがわかったミネルバは、言葉を探す。
自分もレインほどではないが、たしかに世界を呪ったことはあった。
(自分の王女としての境遇が許せなかった。なぜこんなことになったのだと。私は普通に生きたかったのだと、そう嘆いていた)
そんなミネルバを救ったのは、先代国王であるミネルバの祖父だった。
その当時は国王も退位し、魔術師としても現役引退していた。
そんな彼が教えてくれたのだ。
だからこそ今の自分があるわけだし、世界を呪い続けずに済んでいる。
「レイン、私にはそこまでの苦しみは理解はできないし、共有もできない。だってそれは、間違いなくあなたの痛みで、私の痛みじゃないから」
「…………だろうね」
あの時、ミネルバに祖父が言ってくれたことを、自分なりの言葉で伝える。
「でもね、私も痛いのよ。苦しいのよ。この胸が張り裂けそうなのよ!」
「……でも、それは僕の痛みじゃなく、君の痛みだ」
「そうよ。でも、あなたによって生まれた痛みだわ」
「だから、何?責任とれ、とは言わなよね?」
「えぇ、言うつもりはないわ。この痛みは、大切な痛みだから」
「大切?」
「そう。この痛みを感じているのは、あなたの痛みが伝わってきているからなの」
「それは君が自分で思った痛みに過ぎない。僕の痛みは伝わらない」
「いいえ、感じるのよ。レインの心が悲鳴を上げているのが」
「そりゃ、悲鳴は上げるだろうさ。地獄の苦しみから逃げてるんだから。追いつかれないように必死なんだから。それが無理してるっていうのなら、確かに無理をしてるんだろうね。でも、それでもこうするしかわからないんだからしょうがないだろ?」
「そうかしら?その悲鳴は本当に、レインに聞こえてる?」
「聞こえてるよ。地獄に殺されたくない恐怖があるんだ。世界への恐怖が聞こえるんだよ!」
「違うわ!」
「何が違う!」
「あなたの悲鳴は、頑張りすぎたことへの悲鳴よ」
「……え?」
ミネルバは思うことをなぞっていく。
少しずつ、言葉を紡ぐ。
「あなたは頑張りすぎているのよ。あなたの今の叫びを聞けば、誰だってそう思うわ」
「だって、そうしないと」
「世界に殺される?」
「……そうだ」
「レインは今まで助けを求めたことはあった?」
「助け?」
「この世界から、その地獄から救い出してくれって、助けを求めたことは?」
ミネルバの言葉にレインは首を横に振る。
「あるわけがないだろ。こんな話をするわけがないだろ」
「でも、私にはしている。それってつまり、助けてほしいってことなんじゃないの?」
「っ!そ、それは、勢い余って、つい」
「つまり、自然と口から出た?」
「そういうことじゃ……」
「そういうことだよ。自分でもわかるでしょ?こうなったことがどういうことなのか。そして聞こえるでしょ?悲鳴が」
「…………」
レインは俯いているその顔に影を落とす。
「その悲鳴が聞こえてきたら、あとは一つだけ。助けを求めればいい。その悲鳴を自分一人で支えられないのなら、助けを求めればいい」
ミネルバが祖父に言われたこと。
それを言葉にして言っている。
もう少し。あともう少しで、あの頃の自分が解放されるのだ。
「あなたの痛みはあなたのもので、他の人は一緒には背負えない。けど、あなたが立ち向かう支えにはなる。その悲鳴を少しでも軽くしてあげられる。少しでも、力になってあげられる」
そう言いながら、ミネルバはそっとレインへと手を差し出す。
「だから、助けてほしい時は言って。力になれることはする。支えることもできる。だから、悲鳴を一人で仕舞い込まないで」
ミネルバが差し出す手は、俯くレインの顔の前に出される。
レインにはその手が見える。
それは綺麗な手だった。
白く綺麗で、透明で綺麗で、輝いていて綺麗で、真っ直ぐで綺麗で。
綺麗だから。
「無理だ」
そう口に出た。
「え?」
「無理だよ。その手は握れない。取れない。僕は誰よりも劣っている欠陥なんだから、もっと頑張らないといけないんだ。このままずっと、頑張り続けなくちゃいけないんだよ」
レインの視界に映る手が小さく震え、ぎゅっと拳を握り、すぐに解き、力なく戻されてレインの視界から消える。
それにつられるように、俯いていた顔をレインが上げると。
バチンッッ!!
衝撃だった。
レインは右を向いていた。ミネルバは腕を振った後のようで、スローモーションの視界の中でゆっくりと右へ流れていく。次に来たのは痛みだった。左の頬に鋭く鈍い痛みが走る。
それはなぜか。
瞬時に理解した。
ミネルバがレインの頬を引っ叩いたのだと。
通りにいる人たちも、ミネルバの行動に驚きを示していた。
しかし、レインとミネルバにはそんなものは見えていなかった。
レインは右に向いていた顔を正面に戻すと、それを見た。
ミネルバは頬に涙を伝わせ、目元には溢れる涙が溜まっていて、その顔には怒りが現れていた。
レインは言葉が見つからなかった。
何も思いつかない。何も考えられない。
目に映るのはミネルバの泣き顔だけ。
そんなショートする思考は体も動かせない。
ミネルバは勢いよく体の向きを変えると、そのままレインに背を向けて走り去った。
残ったのは呆然と立ち尽くすレインと、左の頬に残る熱だった。